第2話 再び、雪が降る。

翌日、天気予報の通りに、久しぶりに空は太陽と青い色を見せていた。心なしか、学校での生徒たちの様子も明るい気がする。いつもより、はしゃぐ声が耳に入って来る。やっぱり、雲が空を塞ぐことは、人の気も塞ぐのだろうか。

廊下を歩きながら窓の外を眺め、僕はそんなことを考えていた。そういえば、彼女と初めてすれ違ってぶつかった、あの日の天気はどんなだったか。秋が深まってきていたけれども、まだ初雪は降っていなかった。晴れが多い季節のはずだ。

それでも、彼女は不機嫌そうだった。何故だろう。

何故。彼女に関しては、そればかりだ。当たり前だ。何も知らないのだから。

ふと、視線を窓から正面に戻したその時に、僕は見つけてしまった。まるで、視線がそこに向かうために正面を向いたかのように。五メートルほど先に、彼女の姿を。

「あ、若松……」

 僕は声を掛けようとしたが、それに気づかず彼女はどこかへ行ってしまった。もしかしたら、わざと無視したのかもしれない。相変わらず、何が不満なのかわからないけれど、不機嫌そうな顔をしていたし。

 君は、僕に何かを言おうとしていたんじゃないのか。

 でも、それっきりだった。あれ以来、どういうわけか彼女の姿を見かけることもない。だから、彼女が何を言いたかったのか、僕はわからないままだ。

やがて雪が解ける季節になっても、僕は真っ白い世界の中で彼女が一言だけ発したあの言葉が、時折僕の耳の奥で響いている。

 桜が咲き、緑が茂り、ずっと雨雲に空が覆われる梅雨になり、セミが鳴くようになり、やがてまた葉が枯れて散るように、季節がどんどんと移ろっていく。その間、僕たちは、毎日確かに同じ空間にいるはずなのだ。でも、一度も彼女を見かけない。何か、そこに不思議なからくりでもあるかのように。

 絶対に会わなきゃならない理由もないのだから、そういうものだと思うしかないものなのだろうか。それでも、僕はずっと気にしていた。

 君は、あれから笑顔になるようなことがあったのかな。

 再び、冬が巡って来ようとしている。朝から冷え込み、初雪が降った日。

 やがて、白い景色になっていく街を眺めていると、あの日の光景がいつもにもまして、ありありと瞼の裏に浮かんでくる。彼女の唇が紡いだ、短い言葉も。

 雪が運んできた偶然だろうか。それとも、雪が僕の背中を押したのか。どちらであるのかは大した問題ではないが、前位に一度若松双葉と話しているところを見かけたことがある女の子と、その日僕はすれ違った。

 本能で、手繰り寄せるべき糸をそこに見つけたのかもしれない。ほとんど反射的に彼女に声をかけていた。

「あの……」

「何?」

 彼女は少し迷惑そうな顔をして振り向いた。いや、迷惑というより、いきなり見知らぬ人間に声をかけられて不審に思っているのだろう。それは、僕だって自分で納得してしまう。

「二組の人だよね」

「うん」

「若松双葉って同じクラスだよね」

 彼女は少しだけ警戒を解いたようで、わずかに表情が緩んだように見えた。

「ああ……彼女に用?」

 そう、用という用はない。だから今まで僕は彼女に偶然に会うことを期待する以外出来なかったというのに、この子を呼び止めてどうしたらいいのか、今更わからなくなってしまった。

 ならばせめて、ちゃんと若松双葉がここにいるということを知るだけでもいい、そう思った。馬鹿馬鹿しい話ではあるが。

「用っていうか……ちゃんと、学校に来ているかなって」

「うん。毎日普通に来ているけど」

「なら、いいんだ」

 若松双葉は確かにそこにいる。それを知っただけで充分だ。毎日ちゃんと学校にも来ているのなら、元気なのだろうし。だから、僕はそこで退散しようとした。

だが、彼女に肩を掴まれて止められる。

「え、ちょっと待ってよ。何か不登校になりそうな原因でもあるわけ?誰もあの子のことをいじめたりしてないよ」

 暗に、自分たちが責められていると感じたのかもしれない。彼女はどこか抗議をするように訴えて来る。僕は、訊ね方を間違ってしまったのかもしれないと、今更ながら後悔をした。

「いや、そうじゃないよ。僕は、あの子のこと何も知らないから」

「じゃあ、何で……」

「知らないから、ちゃんといるのか知りたかった」

 素直な言葉だったはずだが、それは余計にいけなかっただろうか。彼女はますます顔を歪めた。そして、吐き捨てるように一言。

「何それ……キモっ」

「うん、そうだね」

 もう、僕は認めるしかない。何も反論も言い訳もできないだろう。実際、そうなのだろうから。

 すると、彼女は毒が抜かれたかのように、呆れていた。

「認めるんだ……」

「だって、認めるしかないだろう。あ……あとそれから、もう一つ聞きたいことがあって」

「何?」

「あの子は、ちゃんと笑っている?」

 そう、僕が一番知りたかったのはそれだ。それから、どんな風に笑うのか。

 僕を値踏みするように見る彼女の目。でもそれは、もう僕を頭ごなしに否定しているものではないことが、なんとなくわかる。

 彼女は、僕の質問に答える代わりに訊ねてくる。

「あんた、誰だっけ」

「五組の篠崎(しのざき)宙(そら)」

「ふーん。わかった。……相変わらずあの子は不愛想だけど、だからって誰に当たり散らすわけでもないし、ただ単にそういう子なだけじゃない」

「そういう子って?」

「外面よくできない子」

「ああ……そっか」

 社会の中で生きて行くには、それでは不利だとわかっていながらも、愛想を振りまくことになんとなく抵抗感があるというのは、僕もわからなくはない。

 ただ、ほんのちょっとばかり不器用なだけなんだ。どういうわけか、僕をあんなに惹きつけたのは、きっとそれだった。

 ふっ、と、彼女はそこで笑みのようなものを見せた。

「変なやつにあんたのこと聞かれたよ、って、若松さんに伝えとく」

「ありがとう」

「礼を言うな。キモいやつだから気を付けろって、彼女に警告したいだけだよ」

 じゃあ、もう行くからね。彼女はそう言って僕に背を向けたが、数メートル進んだところで立ち止まって、またこちらを振り返った。その顔は、どこか優越感というものがそこに漂っていたようにも思える。

「あ……そうだ。私ね、一度だけあの子が笑ったところ、見たことあるよ」

「えっ……」

「でも、どんなかは教えない。自分で見れば」

 今度こそ、彼女は振り向くことなく行ってしまった。僕も、教室へ戻る。いつものように、みんなの笑い声や騒がしく走り回る音だとか、そんなものに耳を傾けながら。

 でも、ほんの少し、何かが、いつもと違う。そんなふうに感じたのは、神様の気まぐれによって振られる賽の目を、予感していたからかどうかはわからない。

 あの時、初めて彼女と言葉を交わした時のように、とくとくと心臓が動いているのを、執拗に意識させられる。

 教室に戻った僕が自分の席に着こうとしているところで、隣の席のクラスメイトが声をかけて来た。

「あ、篠崎、さっきお前のこと訪ねて来た人がいたよ」

「誰?」

「えっと……二組の若松さん」

「え……?」

 かちり。その瞬間に、何かが填まった音がした気がした。

「なんかさ、変なんだよ」

「変?」

「お前は本当にこのクラスにいるのかなんて訊かれて、いるよって答えたら……何だっけな……今日は雪に埋まらなくていいのか……とかなんとかって、訳のわからんことを伝えてくれって言われたけど。何なんだ?」

 彼女は、あの日のことをちゃんと覚えていた。そして、彼女も僕に会いに来てくれた。その事実に、僕の心は舞い上がった。

 いや、少し落ち着け。自分にそう言い聞かせて、何か的確に説明できる言葉はないか、僕は探したが、でも、そんな必要なんてどこにあるだろう。

 人が、それを知る必要なんてないんだ。

「秘密」

「はぁ……」

 奇妙な目で見られても、そんなことはどうでもいい。

 人に話すのはもったいない。まるで、僕らだけの暗号が繋がったような瞬間だった。今日降り始めた雪が、鍵であったかのように。

 その日の僕は、残りの授業はまるで頭に入って来なかった。ひたすら考えていたことは、早く終われ。それだけだ。

 ホームルームが終わると、僕は犬のように教室から駆け出していた。彼女が僕を待っているのでも、僕が彼女を待っているのでも、どちらだって構わない。ただ、あの場所へ行くのだ。

あの日そっと閉じられてしまった蓋を、僕らは再び開けるのだ。

何も無いあの平地。まだ冬の初め、雪は今日降り始めたばかりなので、あの日ほどには、景色はまだ完全に真っ白ではないし、まだ音を吸い取るほどの雪の壁も出来てはいない。

そんな中、それほど深くは積もっていない雪の上に、彼女は寝転んでいた。はらはらと、雪が彼女の上に降り積もっていく。

点々と残っている、彼女の足跡。そこに重ねるように、僕は歩いて行く。近づいていくごとに、体中に血が走り抜けていく。

彼女が、そこにいる。

僕は彼女の前でしゃがみ込んで、雪を掬って、静かに上下する彼女の胸の上に振り掛けた。

「埋まりたいの?」

 そう僕が言葉を発した瞬間だった。瞑っていた目を微かに開いた彼女が、笑った。それは、この寒い季節にたった一つだけ咲く花のようで。

 僕は息を飲んだ。

「そうかもね」

 また一つ、僕の耳の中に彼女の声が染みついた。じんわりと、腹の奥が温かくなってくる。寒いはずなのに。

 僕は、彼女の隣に寝転んだ。雪は、僕たちの言葉をどこかへ連れ去って行く。何も言う必要がない。お互いにそう感じさせるように。

 でも、雪に目をくらまされているだけだ。あるだろう。僕には、言いたいことが。彼女にも、言いたいことが。

 もしも、もう一度ちゃんと会って話すことが出来たなら、ずっと言おうと決めていたこと。それを僕は口にしていた。

「僕に何か言いたいことがあったんじゃないの」

「何で?」

「何でって……」

 また、彼女にあのふくれっ面が戻って来る。僕は、なんだかおかしいような、くすぐったいような気分になる。

 今のはきっと、照れ隠しだから。それがわかるから。

「あの日、どうして私があそこにいたのか、っていうこと?」

「うん」

「あの時は偶然通りかかっただけで……別に、篠崎さんに何か言いたいことがあったわけじゃなくて、ちょっと羨ましかったんだよ。篠崎さんがあそこで寝転んでいたのが。ほら……例えばさ、ホールケーキを切らずにまるまま一個かぶりついて食べてみたい、とか、思ったりするじゃない。誰にも踏み荒らされていない新雪の上に寝転ぶって、そういうのと一緒なのかなって」

「ああ……そうかもしれない」

「だからね、ちょっと気が引けたりもした。だって、そこに私の足跡を付けたりしたら悪いじゃない。でも……」

「でも?」

 僕はごろりと転がり、身を彼女の方へ向けて、その顔を覗きこんだ。彼女は反対側を向いてしまう。

「何でもない」

「やっぱり何か言いたいことがあるんだろう」

「別にない」

「やっぱり、素直じゃないなぁ」

 くすくすと僕が笑っていると、彼女は転がって僕に体当たりをしてきた。やがて、消え入りそうな声がぽつりと落とされる。

「ただ……見惚れてたんだ。あの時、ここに寝転んでいた篠崎さんに。まるで、永遠にそこに閉じ込められた一つの絵みたいで。だから、ついあんなことしちゃった」

 ふわりふわりと、雪が優しく降って来る。僕は照れくさくなって思わず笑ってしまった。響き渡る、笑い声が、雪に混じって降って来る。

「そんな嬉しいことなら、もっと早く聞きたかったな」

「言う方だって照れるわよ。だから、そんなこと、言えるわけないじゃない」

本当に素直じゃない。でも、僕だってそれはそうかもしれない。だって、彼女の笑顔のことを考える時、何かに蓋をしようとしていたのだから。

二人共、意地っ張りだったから、あれ以来お互いに姿を見ることもなかったのか。もしかしたら、探しているようで、無意識に避けていたのだろうか。

馬鹿馬鹿しい。

僕が呆れてため息をこぼしていると、彼女はようやくちゃんと僕の方を向いた。目が合う。彼女のあの、深く突き刺さるような眼差しが、僕に向けられる。

「私こそ、訊きたいことがあったの」

「何?」

「何で、女の子なのに僕って言っているの?」

「さあ……どうしてだろう。深く考えたことがない。男になりたいわけじゃないけど……物心ついたころに、兄の真似をしていたのが、染みついちゃっただけ。だから、なんとなくの癖みたいなものなんだけど」

「そうなんだ」

「やっぱり、変かな」

「いいんじゃない、別に」

 目に入ってくる空は、どんよりと曇っている。雪を降らせているのだから当然だろう。でも、今は冷たさが心地よかった。どんな晴れた空を見るよりも。

「そら」彼女が僕の名前を意味もなく口にする。そして、また微笑んだような気がした。「いい名前だね」

「そうかな」

「うん。地上からは雲に覆われて灰色に見えても、空は本当は青いままなんだから」

「君と一緒だ」

 同じようなことを考えていたのが嬉しくて、僕は思わず顔がにやけてしまう。しかし、彼女はいまいち僕の言ったことがわかっていないようだ。ちょっと困ったような顔をする。どう受け取っていいのかわからないのだろう。

「何で?」

「何でも」

 運命でも、運命じゃなくても、僕たちは手を取り合った。もう二度と離さないように。その上に、雪は静かに降り積もっていく。

 やがて、いつかは真っ白な景色になる。もっと深い冬に向けて。

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雪が躍る日には。 胡桃ゆず @yuzu_kurumi

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