雪が躍る日には。
胡桃ゆず
第1話 僕と彼女のこと
たった一度だけ。
たった一言だけ。
彼女と会話をしたのは、それだけだ。それだけなはずなのに、その一瞬が、僕の全身に刻み込まれていた。目で、耳で、雪の感触で。
どうしてなのかは、さっぱりわからない。
それが恋というものなのかと聞かれれば、イエスともノーとも言えない。恋ではなくても、自分の中に深く残る人というのもいるだろう。
彼女のことでわかることなど、何一つない。だから、それが将来僕に何をもたらすかもわからない。どうにもならぬ感傷に浸りもがき苦しむことになるのか、それとも、大切な宝石として仕舞っておいて時々眺めて楽しむものになるのか。
もし、もう二度と会えないのだとしたら、それが幸せになるのか、不幸になるのかも、今の僕にはわからない。
もしも、ほんの一瞬だけ、僕の人生に現れ通り過ぎた君のおかげで、僕は君に囚われて不幸になったよ、なんて言ったら、彼女は喜ぶのだろうか。
あるいは、ほんの一瞬だけ、僕の人生に現れ通り過ぎた君のおかげで、僕は一生分の幸せを手に入れた。そう言ったら、不機嫌そうな顔をするだろうか。
間違っても、自分が僕に幸福をもたらすことを喜び、不幸をもたらすことを嘆く、そんなことはないだろう。
きっと、捻くれた人に違いないから。
僕は、彼女の不機嫌そうな顔を思い浮かべる度に、そんなことを考えずにはいられなかった。
それから、どんなふうに笑うんだろう、ということも。
もし、また会うことが出来て、彼女に何かを言うとすれば、僕は言うことをもう決めている。
高校一年生の僕は、冬には雪が容赦なく降り積もる日本海側の北国に住んでいる。学校まではバスも電車もないので、自転車で行くしかないのだが、冬はそれも出来ない。だから、一時間ほどかけて歩いて行くことになる。本当に、雪の白以外に何もないような道を。
ある日の帰り道、僕は途中で足を止めた。道の脇にある平地。特に何があったわけでもない。ただ、だだっ広い白い景色が広がっているだけだ。雪のない時は、本当に何もないただの平地だ。雪があっても何があるわけでもない。田んぼや畑になっているわけでもない、誰かが持て余しているか、買い手のついていない土地。全く気にしたことがなかったし、雪景色だって毎年嫌と言うほど見ていて、それでもただ通り過ぎて行っていただけなのに。いまさら雪に感動したりするはずもない。それでも、その時は雪化粧を纏ったその姿に、僕は無性に惹かれた。
どうしてなのかはわからない。
誰にも踏み荒らされていないところに足跡を付けてみたい。そんな衝動に駆られ、僕はその更地へと踏み出した。一つ、二つ、三つ……。僕が歩いた印だけがそこに残る。
今も、ちらちらと降る雪は、その白い化粧を新たに施していく。やがて、僕が付けた印も消されてしまうだろう。
もう三日間雪が降り続いている。天気予報によれば、明日は晴れるそうだけれど。ものも言わずしんしんと降る雪は、黙々と仕事をこなす職人のようで、なかなか頑固そうだ。止んでくれることがなさそうにも見えてしまう。自分たちを溶かしてしまう太陽を許さないように。
僕は積もったばかりの、柔らかい雪の絨毯の上に寝転んだ。
背中からじりじりと冷たさが侵食してくるのが、僕の感覚を冴えさせる。音は、雪が密かに吸収して、かき消してしまう。すべてを覆い隠し、閉ざそうとする。
ごろごろと好きなだけ真新しい雪の上を転がって行く。どれだけ進んだのかはわからないけれど、あるところで目が回って断念した。
ふうぅ、と吐く息も白い。
目を閉じたら、眠ってしまいそうだ。あまりにも静かで。こんな雪の中で眠るなんて、危険極まりないのに。
その時、目を閉じていても感じた。僕の上に、何かの影が覆いかぶさっているのを。そのせいで、うっすらと感じていた光が閉ざされたから。
こんなところに、誰か人がいるなんてこともまずないだろうに。何かの動物であったら逃げた方がいいのだろうか。あるいは、説得するべきか。僕を食べたってきっとおいしくはない、と。
僕はそんな見当違いのことまで考えてしまうほどに焦った。ところが。
目を開けると、そこにいたのはクマでもイノシシでもなく、女の子がしゃがみ込んで僕の顔を覗きこんでいた。どこか、僕を馬鹿にしているような白い目で見ている。傘もささずに、おかっぱの髪の上に降りかかって彼女の熱で溶けた雪が、ところどころ艶やかに濡れて光っていた。
僕の通う学校と同じ制服。彼女のことは知っていた。二組の若松(わかまつ)双葉(ふたば)。僕とは違うクラスなので、接点はない。だから、言葉を交わしたこともなかったし、そんな人がいるということすらも、ひょっとしたら知らないまま卒業していた可能性もある。だが、そうならなかったのも神様の気まぐれな悪戯の運命なのだろうか。
数か月前に、廊下ですれ違った時にうっかりぶつかってしまったことがあるのだ。その時に僕を睨み付けた不機嫌そうな顔。切り裂くようだけれども、一瞬で人を捉えるような力がある瞳。あれがきっと、僕の人生というものに深い深い跡を残していったに違いない。
ごめん。
僕はそう言って謝ったけれども、彼女は何も返事もせずに顔を背け、直ぐにいなくなってしまった。
それだけのことだったし、それから何があったわけでもない。それに、今この瞬間まで僕はそのことを思い出したりもしなかった。けれども、今になって、あの時彼女のあの目が僕に残した深く刻まれた痕がじりじりと効いて来たのだと、僕は思い知ることになる。
やがて、白い景色の中にある、ただ一点の赤い色の彼女の唇が開き、言葉を紡いだ。
「雪に埋まりたいの?」
初めて聞いたその声。雪に閉ざされた静寂の中で、じんわりと、柔らかく僕の耳の中に溶けていく。
空から降ってくる雪は、徐々に自分の上にも降り積もっていたのを、僕はそこでようやく気が付いた。
だがしかし。
埋まりたいだなんて、そんなわけはないだろう。普通は、雪の中で人が倒れていたら、急病人か何かだと思ったりして、心配などしてくれたりするものではないだろうか。
そんな的確で常識的な返事をしては、なんだか、自分はつまらない人間です、と、名刺を差し出して説明しているようで、僕は急いでその言葉を引っ込めた。
そもそも、僕自身も意味もなくここに倒れ込んでいたわけだし。
「そうかも」
このまま会話が続いていって、ここに寝転んでいた理由を尋ねられても答えるのが面倒にもなったので、僕は短くそう答えるだけにした。
むっと、ますます不機嫌そうに顔をしかめた彼女は雪を手で掬って、それを僕の胸に振りかけた。最初は、何をしているのだろうと様子を見て、成すがままになっていたが、雪に冷やされて赤くなってしまった指先で、二度三度同じことが繰り返されるうちに理解した。
彼女は僕を雪で埋めようとしている。
そりゃあ、雪に埋まりたいのかと聞かれて、そうだと答えたのは僕だ。確かに僕ではあるけれど。これは親切心のつもりなのだろうか。だとすれば、そんな親切は的外れもいいところだ。
「なっ……」
僕が抗議の声を上げようとしたら、彼女は救ったその雪を、今度は顔の上に落としてきた。正しく、その口を封じるように。
顔の雪を払って体を起こした時には、彼女の姿はもうなかった。ほんの一瞬のうちに、まるで消えてしまったかのように。
僕は本当にこの雪の中で眠ってしまって、夢でも見ていたのか。はたまたキツネにでも化かされたのか。でも、雪の上に、僕以外のもう一つの足跡は点々と残っている。
僕はもう一度、灰色の空を見上げた。
この空だって、いつまでも厚い雲に覆われて雪を降らせているわけじゃない。厚い雲の向こう側には青い空と太陽がちゃんとある。僕はそれを知っている。
だから、ふくれっ面しか見たことがない彼女にだって、きっと笑顔があるのだろう。空と同じように、人間はいろんな顔をそこに持っているのだから。
どんなふうに笑うんだろうか。転がるような笑い声。それは、あの睨み付ける目よりも僕の中に強く刻まれるかもしれない。だって、きっと、かわ……。
「さむっ……」
その一言を最後まで考えてはいけない。そんな気がする。僕は、急に自分自身に寒気を感じ、身震いをした。一気に意識は現実に引き戻される。
「帰ろう……」
のろのろと立ち上がり、僕は歩き出した。歩きながら、ぼんやり考える。彼女はなぜ急にこんなところに現れたのだろう。そして、何をしに来たのだろう。
何か、僕に言いたいことがあったんじゃないのか。でも、今の今まで、すれ違った以外に何の関わりもなかった僕に、彼女が言いたいことなんてあるのだろうか。
そんなもの、あるわけないだろう。
しかし、どういうわけか、僕はどこか上の空だった。意識がどこかへ連れ去られてしまったかのように。時折、心臓がちゃんと動いていることをはっきりと自覚する。うるさいくらいに。
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