意外な人物の登場で胸が躍る。これは懐かしくも新しい「文芸」作品だ。

ライトなタイトルとキャッチコピーで間口が広く取られているけれど、読み進み、コタツから出てきた人物の正体に気づく頃になって、読者は作者の思惑に気づく。

「なるほど! これはただのライトな短編小説ではない!」

例えばコタツから出てきたのが毎度おなじみ織田信長であったりしたなら、そしてその信長が当たり前のように女体で出てきたりしようものなら、私はその時点でこの作品を読むのをやめただろう。
いまやそんな事象、ありふれてしまっているのだ。ーー女体の織田信長がコタツから出てくる事を「ありふれている」というのもなんだか情けない話なのだけれど、実際皆が思うはずだ。「あー、またか」と。

このお話において、コタツから出てくる人物の意外性がひとつの肝となっているのは間違いなく、そしてその意外性こそが、この作品を数段高みへと押し上げている。

思わず心が唸る。「その作品の、しかもそっちのお方が来ちゃうかあ!」

要素として重要な事がもう一つある。

作中に出てくる作品(ネタバレ防止の為、敢えてタイトルは伏せるけれど)は、考察の余地が多い作品としても知られている。
作中では語られない「その後」であったり、登場人物の細かな心情であったりといったものを読者が「考える」余地があるのだ。だからこそ教材として使われたり、文学研究の材料としてもよく名の上がる作品なのだけれど。

この「コタツ・トリップ」という作品の中で、元作品の「登場人物が辿るいくつかある未来の一つ」、つまりは登場人物の「その後の心情」が描かれている箇所がある。

さらりとやってのけちゃっているけれど、実はこれ、お見事だと思う。

もちろん、過去にもたくさんの有名な人物達が色々な作品で「その後」を示されているのだけれど、その大半が破綻をきたしている。性格であったり、時には性別さえもぐっちゃぐちゃだ。
そこにリスペクトは、あるのだろうか。

その点、本作に登場する人物は元作品から沿うように、あり得る未来だと確信できるくらいに自然な心情を吐露している。作者の元作品に対する敬意も同時に感じる事ができる。

「あー、良い作品と良い作者に出会った」

もちろん、作中に登場する有名作も(一度は目にしたことがあるだろうけれど今一度)あわせて読んで欲しい。