オスのししゃも

佐藤踵

オスのししゃも



 丸く白い大皿の上で、他の六尾よりもほっそりとしたそれを見て落胆する。お腹がぷっくりと膨らんだ子持ちししゃもの素揚げが並ぶ中、母の目の前、皿の縁近くの直線的なししゃもが、一匹だけとても目立っていたし、眉を顰めるほどに嫌だった。ししゃもは苦手で食べられなかったが、それが理由ではない。


 対面でだらしなく座椅子に寄りかかる父も、左隣でピンと正座する母も、深く透明な皿から見上げるサラダだって、きっと僕の抱く嫌悪感には気が付いていない。それくらい、この空間にいる全員の気持ちは作り物の笑い声に向いていた。家族でテーブルを囲んでもなお、僕を見てくれる人は一人もいない。



 思えば図工の時間に描いた絵もまた、誰にも見てもらえなかった。チャイムが鳴る少し前。描き終えた後には妙な達成感があり、得意げにふーっと息を吐いた。イルカの尾びれが描くカーブは画用紙をすり減らし、太陽が差し込む海の青はパレットをぐちゃぐちゃに汚した。だけど、廊下に貼り出されたイルカの前では、誰一人立ち止まることはなかった。

 褒めそやして欲しかったわけではない。本物のイルカショーのように取り囲んで欲しかったわけでもない。けれど僕はなぜか、廊下を泳ぐイルカに顔が向けられなかった。海の人気者でも僕という存在が生み出すことによって、嫌われ者よりも酷な、無関心ないきものへと成り下がるのだ。


 クラスのイルカたちは、休み時間に教室を泳ぎ回る。授業中は吊るされたボールをちょんとつつく。昼休みは校庭で器用に輪っかをくぐる。僕はただ、教室の隅っこで机にへばり付いていた。その姿はまるで廊下のイルカと同じだったし、呼吸をして血液が身体を巡っているということが、平面のイルカ以上に惨めだった。


 教室では上手に息が出来ないことに気がつき、向かったのは図書室だった。たくさんの泡たちは簡単には溺れることを許さず、僕の心臓に意味を与えてくれているような気がした。この海から、色々な国や場所へ泳ぎ、様々な人間に変身した。

 ある日は探偵になり犯人に指をさす。雨が降る日は虹の麓を探して歩き、陰鬱な日は魔法で魔物を倒した。

 何にでもなれた、どこへでも行けた。たとえそれが逃亡であったとしても構わなかったし、逃げたところで誰も追いかけては来ないとはわかっていた。

 どうせ誰も追いかけて来ないのであれば、もっと遠くへ泳いで逃げよう。遠くでも深くでも構わない。僕の身体にだんだんと靄がかかって、小さな点になるくらいまで、離れよう。

 四百字詰めの原稿用紙に鉛筆を走らせる時、僕は自分の意思で泳ぎ回る本物のイルカになった。大海原を回遊し、クジラと友達になり、海賊と戦い……水族館のイルカよりもずっとずっと自由だった。鉛筆が活字を生み出し、それに意味が加えられる時が、僕がこの世界立体に居ても良いと思える唯一の時間だった。教室でも、図書室でも、自分の部屋でも、鉛筆さえあれば僕は自由なイルカになれた。


 原稿用紙が百枚を超えて、大海原をA4判の茶封筒に閉じ込めた。分厚く重いそれは、慎重にポストに入れても音を立てて落ちる。ハッとした。その音はまるで終演を知らせる鐘のように、物語の終わりを告げたのだ。

 しばらくポストの前で立ち尽くしたが、帰宅して机に向かう頃にはまた鉛筆を執り、原稿用紙のマス目を埋めていた。次は何になろうか、どこに行こうか。思案の全ては創作に向き、睡眠を削ってでも、その時間に自己同一性アイデンティティーを保っていた。

 息も出来ずに机に張り付いていた無の状態から、ほんの少しでも意味のある存在になれた気がしたのだ。


 桜が散る頃、家の電話が鳴った。余所行きの母の声が階段を伝い、僕の旅の邪魔をした。むしゃくしゃと頭を掻くと、階段をやかましく駆け上がる足音。ノック無しに扉を開けると、僕宛だから電話を代われと言って部屋を後にする。母からはそれだけのようなので、仕方なく追うように階段を降りる。玄関で音楽を鳴らす受話器を耳に当て保留を解除するボタンを押すと、電話口の声は文芸誌の編集部と名乗る。


 年初めに郵送したあの作品は、入賞は逃したものの、選外佳作として来月ホームページに載せたいとのこと。


 二つ返事で承諾し、受話器を置いた後に玄関先で小躍りした。海深くではなく、初めて地上で自分の存在が認められた気がした。初めて僕が照らされた気がした。

 嬉し顔を悟られないように、何でもない様子で母に報告をする。まるで身体中の臓器が踊り出すんじゃないかってほど嬉々とした僕の気持ちとは裏腹に、ふぅんと無関心な相槌が返ってきた。さらに、そんなことより勉強をしなさい、と付け加える。父にも居間で会ったが、おおむね同じ返答だった。むしろ母よりも淡白だった。

 あの電話口でのみ、おめでとうと賞賛された。顔も知らない編集部のおじさんにだけ、褒められた。テーブルに並ぶ夕飯も、いつもと全く代わり映えしないのだ。



 流行りの音楽が流れ、スポットライトに照らされてマイクを持つ歌手。取って付けたような憂いを帯びて、あたかも僕の気持ちを理解しているかのように歌い上げる。父も母も、箸を右手にそれを眺めていた。

 テーブルを囲む食卓は静かで、悲しいくらいにいつも通りだ。地上で生きる僕に興味を持ってくれる人なんて、やはり誰一人としていないのだ。


 父は、白い大皿に並ぶししゃもに箸を伸ばす。母はあえて、目の前のほっそりとしたししゃもに手を付けていなかった。一瞬、皿の上で箸を止める。

「……おっ、オスのししゃもは美味いんだよなぁ」

 嬉しそうに腕を伸ばし、箸で摘み、噛みしめる。

 やっぱり、オスのししゃもなんて大嫌いだ。




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