魔女のアネモイ

不立雷葉

魔女のアネモイ

 ある深い森の中に一人の魔女が住んでいました。


 その魔女は永い永い年月を生きているのに、まったく老いた様子を見せることなくいつまでも若々しい姿を保っています。本当ならもうお婆ちゃんどころか、亡くなっているはずなのに魔女はずっと元気でした。

 ずっと若い姿をしている魔女のことを森の近くにある街に住む人々は気味悪がって、恐れて、森の魔女の住む辺りには決して近づこうとはしませんでした。


 魔女は街の人たちから自分がどう思われていたか知っていましたが、それを気にすることはありませんでした。魔女は何百年も生きていたので、それが当然の反応だと考えていたからです。

 誰かに訪ねられることもないし、誰かを訪ねることもない魔女でしたが寂しくはありませんでした。


 それというのも、森に住む多くの動物たちは魔女の友達だったのです。森の中にある魔女の小さな家の周りは、いつも鳥や鹿だけでなく狼や熊といった肉食動物も集まっていましたが、互いにケンカもすることなく賑わっていました。

 けれども最初から魔女と動物たちは仲が良いわけではなかったのです。


 魔女が森に住み始めたとき、動物たちは魔女のことを避けていました。魔女だからではありません、動物たちは人間に近づきたくなかったのです。ただある時、魔女は一匹の鹿が怪我をしているのを見つけたときに、それを治してやったのです。動物たちと仲良くなったのはそれからでした。


 最初は鹿だけ、その後は鳥。少しずつ少しずつ、魔女の友達は増えていって今ではすっかり森の動物全部が友達になったというわけです。

 それだけ多くの友達がいるのですから、魔女は寂しいなんてことはありませんでした。家の側に作った農園を耕し、動物たちの調子を見てやり、彼らの怪我や病気を治してやるための薬の研究をして過ごすのはとても楽しいことです。


 とある日のこと、魔女はいつものように動物たちのための薬を調合していました。そんな時に、コンコンと家のドアを誰かがノックするのです。人間がこの家を訪ねてくることはありませんから、怪我や病気になった動物がやって来たのかと思いながら扉を開けました。

 そこにいたのは家によくやって来る一頭の熊でした。怪我をしてないか熊の体を見てやった魔女でしたが、怪我をした様子はありません。かといって病気をした風にも見えませんでした。


「元気そうだけれど、どうしたんだい?」


 魔女がそう話しかけると熊はゆっくりと歩き出しました、そして立ち止まると振り返ります。

 熊は人間の言葉を話せませんし、魔女だって熊の言葉を話せるわけではありません。けど長い付き合いをしているうちに、魔女は彼らが何を言いたいのかがわかるようになっていました。


「そうかそうか、私に付いてきて欲しいんだね」


 熊が頷くようなしぐさを見せるとまた歩き出します。魔女は何にも言わず、薬を幾つか入れた鞄だけを持って熊の後を着いて行きました。

 熊が魔女を連れて行った先は森の木の中でも特に大きな木のところでした。魔女はその木の根元を見ると、つい仰天してしまいます。


 どうしてかというとそこには一人の少年が倒れていたのです。仕立ての良い服を着ているので、裕福な家のお坊ちゃんなのでしょう。けれども彼はそんな上等な服を泥まみれにして、足を押さえていました。


「あんたはこれを私に教えてくれたのだね、ありがとうよ。もう帰りな」


 熊は魔女の友達の一人ですが、普通の人にとって熊はとても怖い動物です。熊と一緒では少年を怖がらせてしまうので、魔女は熊を帰してから少年に近づきました。


「やぁ裕福そうなお坊ちゃん、こんな森の中でどうしたんだい? 怪我したのかい?」

 

少年に近寄って話しかけましたが、少年は足がとても痛いらしく涙を流しながらうんうん唸るばかりです。

これは困ったなと思った魔女でしたが、少年のすぐ横に折れた木の枝が落ちていることに気づきました。さてはと思って見上げてみれば、高いところにある枝が一本折れています。


 どうやらこの少年は木登りをしていて落ちたようです。かなり高いところから落ちたようなので、足の骨を折ってしまったのかもしれません。


「ほうれ見せてみな。どうせ骨でも折ったのだろう、すぐ楽にしてやるよ」


 話しかけながら少年のズボンを無理やり脱がせました。少年は魔女を見ながら怯えて目を揺らしながら涙ばかり泣いています。


「泣くんじゃないよ。あんたも男の子だろう、怪我したぐらいで泣いてちゃいけないよ」


 少年のズボンを脱がして足を見てみると脛の当たりが真っ赤に大きく腫れています。触ってみると少年はとても痛がって、ぎゃっと叫び声をあげるほどでした。


 これは骨折に間違いありません。


「木登りでもして落ちたんだろう。足が折れちゃってるね、仕方ないから治るまで面倒を見てやるか」


 幾つか持ってきた薬の中から、痛み止めの軟膏を取り出して足に塗ってやります。これで骨折が治るわけではありませんが、痛みをとってやらないと少年と話ができないと魔女は思ったのです。

 薬を塗ってやったといってもすぐに痛みがとれるわけではありません。痛い痛いと泣いてばかりいる少年をおぶってやって魔女は家を目指します。


 歩きながら、名前やどこから来たのか、何をしに森の深くに入ってきたのかを尋ねましたが少年は声を押し殺して泣くばかりで何にも答えてくれません。魔女は苦笑いするしかありませんでした。

 家にたどり着いて少年をベッドに横にしてやっても泣いてばかりです。けど少し落ち着いたようで泣いてはいましたが、声を出すほどではありませんでした。


「お坊ちゃん私の質問に答えて頂戴、名前とどこからやって来たのか教えてくれないかい?」


 少年を怖がらせたくなくて魔女は柔らかい笑顔を作りながら聞いてみましたが、少年はとても魔女が怖いらしくてぶるぶる震えるばかりです。


「おねえさんは……森の中に住んでるっていう魔女なの?」


 質問には答えなかった少年でしたが、魔女は彼が口をきいてくれたのが嬉しくて満面の笑みを浮かべながら大きく頷きます。


「あぁそうだよ。私が森の中に住んでる魔女アネモイだよ」

「お父さんが言ってたんだ、お父さんだけじゃない。お母さんもおじいさんもおばあさんも、大人がみんな言ってたんだ。魔女に名前を言ったら魔法で魂をとられるって」


 これには魔女も目を丸くして驚きましたが、すぐにお腹を抱えて笑います。大きく笑ったものですから、息をするのも苦しいほどです。


「ひーっひーっあー笑わせてくれることを言うんだね。街の連中はそんなことを言ってるのかい。いいかいお坊ちゃん、私は魔女と呼ばれてるし魔女と名乗りはしたけれど魔法なんてそんなものは使えないよ」

「う、嘘だ! みんなが嘘なんて吐くはずない!」

「まーそうかもしれないけれどね、よく考えてみなよ坊ちゃん。あんたの言ってる大人で私に会ったことがあるやつはいるのかい? いないだろう? それとあんたの折れた足に軟膏を塗ってやったのを覚えてるだろう、今もそこは痛むかい?」


 魔女が少年の足を指差すと、少年の視線もそこへと向かいます。そこで彼は足の痛みがすっかり引いてしまっていることに気づいて、起き上がろうとしましたが魔女はそれを抑えました。


「おっとまだ歩いちゃいけないよ。痛みはなくてもあんたの足は折れたまんまだ、そのままじゃ歩けない。それはおいおい治してやるとして、痛みが無くなったのは不思議に思うかい?」


 少年は不思議そうな顔をして頷きます。


「魔法で足の痛みをとったと思うかい?」


 少年はまた頷きました。


「あんたの街にも塗り薬はあるだろう? 怪我をしたとき、薬を塗ったりするじゃないか。そういう薬を塗ったら怪我が治ったり痛みがとれたりするだろう、私がしたことと何が違うんだい?」


 この魔女の言葉で少年は何かに気づいた時のように、目をはっと見開きました。

 魔女は少年が自分の言葉を信じてくれたことが嬉しくて、うんうんと首を縦に動かします。


「魔法が使えたんだったらあんたの足を、ちちんぷいぷいのぷいっ! てな感じで治してやるところなんだけどね、生憎そんなものは出来ないんだ。だからこうして薬を使ったのさ」


 少年は魔女の顔を見ないように目を逸らして、何かを考え込んでいるようでした。

 魔女は少年を急かそうとせず、彼が話し出すのをじっと待ちます。そうして数分ほど経ったころ、少年はぽつりと呟きました。


「僕の名前はセリム、ザウアーの街に住んでる。家は、商売をやってる」


 ザウアーの街というのは魔女の住む森に一番近い街です。少年の家が商人をやっていると聞いて、彼が裕福な身なりをしている理由に魔女は納得がいきました。

 それと同時に疑問が湧き上がってきます。セリム少年の家は商人は商人でも、豪商に違いないのです。そうとしか思えないほど、セリム少年の服は上質な布で作られているのでした。


 疑問というのは、そんな良い家の少年がこんな森の中で何をしていたのかというものです。


「あんたの家はそんなに遠くないのだね。けどセリム君、どうして君は森の奥までやってきたんだい。大人だってあんなところにやってきやしないのに、子供一人で何をしてたんだい?」


 魔女からすればなんてことのない質問でしたが、セリム少年は尋ねられた途端に顔を赤らめてしまいました。きっと恥ずかしい理由があるんだなと思った魔女は、少し意地悪してやろうと思いました。


「友達とか好きな女の子にカッコいいところでも見せてやろうと思ったんだろ?」


 さすがにもっとそれなりの理由があるだろうと思ってそう言った魔女でしたが、セリム少年には図星だったようで彼は唇をきゅっと結んでぷいと顔を背けてしまいました。

 そのセリム少年の仕草が面白おかしくって、悪いなと思いつつも魔女はまたお腹を抱えて笑ってしまいました。


「そ、そうだよ……みんな、お前は金持ちの息子でひ弱だからそんなことできないだろって言うんだ。だから……」


「あぁいいよいいよみなまで言わなくたって、私には大体わかったからさ。うせあんたはしばらくここで暮らすことになるんだからね、この魔女が友達を見返せるようにしてやろうじゃないかい」


 セリム少年の骨折を治すための道具を用意しながら、魔女はウインクをしてみせました。それを見たセリム少年はきょとんとした顔をしています。

 予想外の反応に魔女はどうしたのだろうと思っていると、少年はわっと声を上げて泣き出しました。


 帰りたい帰りたい、そう言って泣いています。

 これには魔女も困りました。魔女だって彼を家に帰してやりたいのです、けれど彼は足を折ってしまって歩けないのです。


 魔女が街まで送ってやることも出来るのですが、魔女は街の人から自分がどう思われているのか知っていました。もし魔女がセリム少年を送っていってやれば、彼にとって良くないことが起きるでしょう。

 ちゃんと家に帰れるようにしてやる、そう言ってやりながら折れた骨を固定するため添え木をしてやりましたが、セリム少年は帰りたいと言って泣き続けます。


 大丈夫だよと声をかけながら頭を撫でてやりましたが、セリム少年は泣き止みません。それでも魔女は甲斐甲斐しくずっと彼を宥めながら頭をなで続けてやります。

 そのうちに泣きつかれたセリム少年は眠ってしまいました。


 こうして魔女とセリム少年の生活が始まりました。


 実を言えば魔女は浮かれていたのです。街の人から嫌われている魔女でしたが、魔女は街の人が嫌いではなかったのです。というのも、魔女も昔は昔、大昔は街に住んでいたのでした。

 心の底で魔女はずっと街の人と話したくて仕方がなくて、事故とはいえセリム少年と出会えたのは魔女にとって喜ばしいことだったのです。だから魔女はセリム少年を家に連れてきたのでした。


 足の骨が折れたセリム少年はしばらくの間はベッドで寝たきりでした、そんなセリム少年の世話を魔女は嫌がる顔ひとつせず続けます。

 森の動物たちも魔女の家に珍しい客人が来たとあって、ひっきりなしに訪れます。鹿や鳥には喜んだセリム少年でしたが、熊や狼といって肉食動物がやってくると怖がります。


 けどそれもほんのちょっとの間のことで、魔女の家に来る熊や狼が襲ってこないことが分かるとセリム少年も森の動物たちと友達になりました。

 特に黒い毛をした狼と仲が良くなったようで、黒毛の狼はセリム少年が動けないことがわかると大きなその背に少年を乗せて森の散歩に連れ出します。魔女もその散歩に着いて行って、セリム少年に様々なことを教えました。


 森に生える植物のこと、住んでいる動物たちのこと。どうやれば天気予報ができるのか、そういったことも魔女はセリム少年に教えました。

 魔女はセリム少年が友達たちにもう馬鹿にされないようにと考えていたのです。けれど魔女は運動は得意ではありませんから、身近にあるような動植物だけでなく天気についての知識もセリム少年に教えて賢くしてやろうとしたのです。


 セリム少年はそんな魔女の考えを知っていたのかはわかりません。けど彼は魔女に教えてもらった知識をぐんぐん吸収して、どんどん賢くなっていきました。

 骨がくっつくまで二週間かかりました。でも魔女はセリム少年を家に帰そうとはしませんでした。どうしてかというと、動いてなかったものですからセリム少年の足の筋肉は衰えてしまっていたのでまた鍛えなくてはならないのです。


 それ以外にも、魔女はまだもう少しだけセリム少年と暮らしてみたいと思ったこともあるのでした。

 骨がくっついたので魔女はセリム少年のために松葉杖を用意してやり、彼がまた友達と遊び回れるようにしてやるため少しずつ歩く練習をさせました。


 そこにはセリム少年の友達となった黒毛の狼も一緒です。すっかりセリム少年の友達となった狼は、彼が転びそうになるとすぐにその体を支えてやるのでした。

 日課となった森の散歩でも、背中に乗せてやることはなくなった狼でしたが松葉杖を突きながら歩く少年のそばを決して離れようとはしませんでした。魔女はそんな狼と少年の姿を見るのがとても楽しかったのです。


 勉強もさらに進みます。動植物の知識や天気について教えた後、魔女はセリム少年に薬の作り方を教えました。材料は全て森にあるものです。

 傷薬の作り方、熱さましの作り方、下痢や便秘を治す薬についても魔女は教えました。


「ねぇ、アネモイはどうしてそんなに薬が作れるの?」


 セリム少年はすっかり魔女に気を許していたので、魔女のことを名前で呼ぶようになっていました。


「それはね動物たちを治してやるために研究したからさ」

「でもそれは動物の薬でしょう? どうして人間にも効果があるの?」

「人間も動物も同じだからさ。けど量だけは気をつけないといけないよ、大きさに合わせて調節してやらないといけない。体の大きさに見合った量っていうのがあるんだよ」

「その量はどうやって調べるの?」


 魔女が色んなことを教えたからでしょう。セリム少年は事あるごとに魔女に尋ねました。魔女も質問されることが嬉しくって、全ての質問に答えます。

 そうするとセリム少年の知識はどんどん増えていって、簡単な薬ならセリム少年一人でも作れるようになりました。


 その頃には足の調子もすっかり良くなっていたので、セリム少年を帰さなければならない日がやってきました。魔女はとても悲しんで、引き止めたい気持ちでいっぱいでしたがそれは出来ません。

 セリム少年が帰るとなったその日、魔女は彼にいろんな知識を書いたノートをお土産に渡しました。本当はそんなことをしない方が良いとは思っているのですが、彼のことが大好きになっていたので何かしてやりたくて仕方がなかったのです。


 見送りには友達になった森の動物たちが総出でやってきていました。特に仲が良い黒毛の狼なんかはセリム少年が帰ってしまうのが悲しくって、くんくんと子犬みたいな声を出しています。


「ありがとうアネモイ、僕いろんなことを教えてもらった。街に帰ったら、いっぱい勉強しようと思う。アネモイを追い越してやるんだ」

「そうかいそうかい、この魔女を超えようっていいのかい。ならやってみるがいいさ、やれるもんならね」


 弟子といっても良いセリム少年がそんなことを言うものだから、魔女の胸は熱くなって少年の髪の毛がくしゃくしゃになるまで撫で回してやりました。その隣で狼が吠えました。


「ただねセリム。街に帰っても絶対に魔女の世話になったなんて言うんじゃないよ、良いかい?」


 それまで笑っていた魔女でしたが、真剣な顔をしてセリム少年に言いました。けれども彼は不満げに唇を尖らせます。


「なんでだよ、アネモイは魔女だけど良い魔女じゃないか。僕の足を治してくれたし、色んなことを教えてくれたじゃないか。胸を張っていいことだよ」

「駄目なんだよセリム。お前が帰ってきたらみんなはきっと泣いて喜ぶだろう。でもね、森の魔女に助けてもらったとなったらお前はみんなから怖がられてしまうんだ。私はセリムが街の人から怖がられて欲しくないんだ」


 セリムはやっぱり不満そうにしていましたが、良くしてくれた魔女の言うことを聞かないわけにはいきません。しぶしぶではありましたが、うんといって頷きました。


「そうだよ、セリムは良い子だ」


 魔女は笑顔を浮かべながらまたセリム少年の頭を撫でました。


「けどアネモイ。お願いがあるんだ、僕またここに遊びに来ていいかな? アネモイにまだ教えてもらいたいんだ、それに僕が街でどんな勉強をしたのかアネモイに知ってほしい」


 これには魔女も困りました。本当はここでお別れして、ずっと会わないでいたほうが良いに決まっているのです。でも魔女はセリム少年のことが好きになってしまっていたし、出来るならまた会いたいのでした。

 悩んだ魔女でしたが、結局セリム少年のお願いを聞くことにしました。


「でもいいかい、絶対に魔女のところに来ていることを知られちゃいけないよ」

「うん、もちろん! アネモイのことを人に言わないよ!」

「良い返事だ。ほらうだうだしてないでさっさと家に帰るんだ、お父さんとお母さんを安心さしてやりな!」


 名残惜しい魔女でしたが、セリム少年の背中を叩きました。セリム少年は笑顔を浮かべ、街に向かって歩き出します。

 魔女と森の動物たちはそんな彼の背中を見送るのでした。


 そうしてまた元の生活が戻ってきたのですが、それは寂しいものでした。さっきまでは狭かった家の中が急に広くなったように感じられたのです。

 つい気が沈みそうになった魔女でしたが、セリム少年のまた遊びに来るという言葉を信じて彼のために研究を続けることにしました。


 魔女はセリム少年の勉強するという言葉が嬉しくて仕方がないのです。それに彼は学んだことを魔女に教えてくれるというではありませんか。魔女は長いこと森を出たことがないので、森の外にはどんな知恵があるのか知らないのです。

 でもセリム少年がその知恵を持ってきてくれるというのですから、楽しみで仕方がなくって首を長くして過ごしていました。


 けれども一週間過ぎても一ヶ月が過ぎてもセリム少年はやって来ません。

 半年が過ぎたあたりから彼に良くないことがあったのではないか、家に連れてこなかったほうが良かったんじゃないか。悪いことばかりを考えて魔女が落ち込み始めていると、セリム少年がやって来ました。


 子供の成長は早いもので、半年前よりもセリム少年の背は伸びていました。その成長も魔女にとっては嬉しいものでした。

 久しぶりにやってきたセリム少年は分厚い教科書を持ってきていました。どうやら医者になる勉強を始めたらしく、その教科書のわからないところを魔女に見て欲しいということでした。


 うきうきしながらセリム少年と一緒になって教科書を読み始めた魔女でしたが、がっくりと肩を落としてしまいました。

 教科書に書かれていることは魔女にとってはあまりにも当たり前すぎたのです。新しい知識を得られると思っていた魔女の期待は裏切られたのです。


 でもこの教科書は便利でした。魔女にとっては当たり前でも、まだ何も知らないセリム少年にはそうではありません。教科書を使いながらの勉強は捗りました。

 二週間から一ヶ月に一度のペースでセリム少年は魔女を訪れました。段々と勉強は難しくなって、教科書の内容も難しくなります。魔女にとっても新しい知識が入ってきました。


 新しいものは二人で実験を行ったりして、勉強をしていきます。

 魔女を教師にしているセリム少年の成績は大変に優秀なものらしく、テストで満点を取ったんだ、と良く赤い大きな丸のついた答案用紙を見せてくれました。


 魔女は自分の弟子がどんどん賢くなっていることに満足げで、答案用紙を見せられるたびに彼を褒めてご馳走を用意して小さなパーティを開きます。もちろんセリム少年の友達である黒毛の狼や森の動物たちも一緒です。

 そうして時間が過ぎていき、セリムはもう少年ではなく立派な青年になって魔女よりも背が高くなりました。友達の黒毛の狼は老いてしまい歩くのもやっとで、初めて会った時とは逆で狼が歩く時はセリム青年が助けてやるようになっていました。


 でも魔女は違います。魔女は今も昔と変わらぬまま、若い姿を保っていました。今までは何とも思っていなかった魔女でしたが、青年に成長したセリムを見ると年をとらない自分のことを少し寂しく思うのです。

 成長して青年となったセリムでしたが、相変わらず魔女に勉強を教えてもらっていました。変わったことといえば、魔女のことを先生と呼ぶようになったことぐらいでした。


 ある時にセリムは両手にいっぱいの本を持って魔女の家を訪れました。気難しい顔をしていました。


「どうしたんだいセリム。今日はいつもより荷物が多いじゃないか」

「はい……先生、僕は都会にいって勉強することになりました。ザウアーの街ではもう勉強できる学校がないのです、ですから都会の大学にいきます」

「そうか! そりゃいいじゃないか、たくさん勉強してきて立派な医者になるんだよ」


 子供の成長を喜ぶ母親のように、魔女はどんなご馳走を作ろうかと考え始めています。すっかり年老いた黒毛の狼もセリムの成長を喜ぶように喉を鳴らしました。


 けれどセリムは浮かない顔をしているのです。魔女はそれが不思議でなりません。


「先生に教えてもらった僕はきっと医者になれるでしょう……でも僕は、心残りがあるのです」

「なんだい、心残りなんてものがあったら勉強に身が入らなくって大変だ。全部吐き出してしまいな」

「はい……僕は、先生が街に来れるようにしたかったのです。恩人の先生が街で恐れられているのが我慢できないのです、それができなかったのが僕は……僕は……」


 今にも泣きそうなセリム青年の顔は少年の頃と何一つとして変わりません。

 セリム青年の身長は魔女よりすっかり高くなってしまっていましたが、魔女はあの頃そうしたようにセリム青年の頭を撫でてやりました。ぽろりと、青年の目から涙が零れ落ちます。


「気にするんじゃないよ、あんたもわかってるだろう。私は老いることのない魔女なんだ、きっと死にもしないのだろう。だから街にはいけないのさ」

「はい……」


 セリム青年はそれ以上は何も言いませんでした。魔女はそんな彼のためにご馳走を作ってやり、彼の友達の狼から毛を取ってお守りを作って持たせてやりました。

 魔女の家を出て行く時のセリム青年の顔からは悲しさがありませんでした。その目には立派な医者になるのだという決意が満ちています。

 それを見た魔女は年老いた黒毛の狼とともに彼の門出を見送りました。


 セリムの来ない日々が始まりました。


 セリムが来なくなってからというもの、黒毛の狼はさらに老け込んでしまったようで寝たきりになり、そうして最期は魔女に看取られて亡くなりました。

 魔女は狼の墓を家にすぐ側に作ってやりました。友達である森の動物たちが死んでも普段はそんなことをしない魔女でしたが、またセリムがやってきた時に友達の墓参りがすぐ出来るようにという心遣いだったのです。


 セリムも狼もいなくなってしまった魔女の家ですが、他の森の動物たちは相変わらず訪れて賑やかな魔女の家でした。

 鳥たちのさえずり、鹿たちのダンス、熊たちの相撲、狼たちの遠吠えを聞きながら魔女は研究に励みます。セリムが都会に行く前、彼は今まで使っていた教科書を全て魔女の家に置いていったのでした。


 魔女はそれを読み、さらに薬の研究を進めました。森の動物たちがどんな怪我をしても、どんな病気になっても魔女はそれを治す薬を作ることができました。

 けれどある時、不思議な病気が森の動物たちに流行りだしました。


 その病気はあらゆる動物を襲うのです。鳥だけ、鹿だけ、狼だけ、熊だけにある病気が流行ることはありました。でも動物に関係なく病気が流行ったことは今まで無かったのです。

病気になった動物たちは高熱を出して、腹を下し、最期は口から血を吐いて死んでしまうのでした。恐ろしい病です。


 長い時間を生きてきた魔女にも見たことも聞いたこともない病でした。色んな薬を試しましたが、どの薬も効きませんでした。

 魔女は焦りました。自分は大丈夫でも、このままでは森の動物たちが死んでしまう。


 何とかしなくてはと魔女は必死になって色んな薬を作っては試して、森の動物たちを救おうとしましたが上手くいきません。多くの動物が、友達たちが口か血を吐いて死んでしまいます。

 それでも魔女は諦めませんでした。今までの知識だけでなく、セリムが残していった教科書それらの知識を全部使って薬を作り続けました。


 そうして何とか薬が出来上がった頃には、病気が流行りだしてから一年近くの時間が経っていました。病気のせいで動物たちは減ってしまいましたが、魔女の家はまた賑やかになり始めます。

 そこで魔女は思ったのです、街はどうなっているのだろうセリムは大丈夫なのだろうか。


 森でこれだけ流行った病気です、魔女は大丈夫でしたが人間にもかかる病気に違いありませんし、街にも悪い病気の手は伸びているはずなのです。

 魔女は急に不安になり始めましたが、何もできませんでした。街の人々に怖がられていることを知っていましたし、もし病が流行っているところに魔女が行けば原因にされてしまうのかもしれないのです。


 だからセリムや街の人のことが気になっても、魔女は街に行きませんでした。街にも医者はいるんだと、そう言い聞かせていました。

 もしかしたら人間にはかからない病気かもしれない、魔女はそういう風に考えて過ごしていたのです。


 けれどある日、ドンドン。


けたたましい音を立てながら誰かがドアをノックします。動物ではありません、何故なら動物はこんなに激しくドアを叩かないからです。

 おそるおそる魔女が扉を開けると、白衣を着て髭を生やした男が家の中に飛び込んできたので魔女はびっくりしました。


 男は急いでやって来たのか、ぜいぜいと肩で息をしています。いったい誰だろうと不審がっていた魔女でしたが、男が成長したセリムだということがすぐにわかりました。

 髭が生えていたせいですぐにわからなかったのですが、顔にはセリムの面影がありましたし、彼は腕に魔女が狼の毛で作ったお守りを着けていたのです。


「先生! 助けてください! お願いです!」


 大人になったセリムでしたが彼は泣いて魔女に縋りました。髭の生えた大人になっても、セリムの泣き顔は昔と変わりありません。

 魔女はセリムを抱きしめ、また頭を優しく撫でてやりました。


「どうしたんだいセリム。落ち着いて、ゆっくりこの魔女に話してみな」

「はい……街に、街に病気が流行っているのです……その病気にかかると熱を出し、腹を下して血を吐いて死んでしまうのです」


 セリムの話を聞いた魔女は背筋がぞくりとしました。その病気は動物たちを襲ったものと同じものだからです。悪い予感が当たっていたことに、魔女は唇をかみ締めました。


「私も手を尽くしたんです、大学で学んだこと……先生から教えていただいたこと、私の得た全ての知識を使って戦いました。けれどダメでした、病気は止まらないのです。お願いです、先生……街を、街を助けてください……」


 魔女はセリムをより力をこめて抱きしめます。そうしてセリムの体がとても熱いことに気づいたのです、街から走ってきただけではこんなに熱くならない、それほどまでの彼の体は熱くなっていました。


「セリム……あんた、お腹の調子はどうだい?」


 セリムは口をつぐんでしまいましたが、ゆっくりと頷きました。それだけで魔女は彼も病気に掛かっていることを知りました。


「そんな格好をしてるんだ、あんたは宣言どおり医者になったんだろう? だったらまずはあんたが体を治さないと、私が治してやる。安心しな」


 魔女はセリムの頭を撫でました。一人の医者として成長したセリムでしたが、魔女に撫でられるとぽろぽろと涙を流します。

 魔女はセリムをベッドに寝かせました。ベッドは窓の脇に置かれていて、その窓からは黒毛の狼の墓が見えるようになっています。


「セリム。あの墓が見えるだろう、あれは私と一緒に見送ったあんたの友達だよ。立派になったところを見せてやりな」


 水で濡らしたタオルをセリムの頭に置いてやって、魔女は窓の外を指差します。セリムは友達の墓を見ると、腕に付けているお守りの毛をそっと撫でました。

 病気の薬をセリムに飲ませてやると、セリムは酷く疲れていたこともあって眠りにつきました。彼の眉間には皺が寄っています、ずっとずっと病気のことで悩んでいたに違いありません。


 そんなセリムの寝顔を見ながら魔女は眠りもせずに悩み続けていました。

 日が昇りセリムは目を覚ますと飛び起きます、魔女が彼の額に手を当てるとすっかり熱は無くなっていました。病気は治ったのです。


「先生……もしかして、薬を……?」

「あぁそうだよ。去年から森の動物にも同じ病気が流行ったんだ、薬を作るのに一年も掛かったよ」

「先生……」

「わかっているよセリム。私に、街に来て欲しいんだろう。行ってやろうじゃないか、この魔女アネモイが街の病気をぜーんぶ治してやるよ」


 またセリムの目から涙が零れました。

 彼が寝ている間、魔女はずっと考えていたのです。魔女は街の人から嫌われていますが、魔女は街の人が嫌いではないのです。いえ、むしろ好きでした。


 数十年以上、もしかしたら一〇〇年以上街には行っていませんでしたが、セリムの生まれ育った街が悪いところであるはずがないのです。だから魔女は、街が病気に襲われているのなら助けてやりたいと、心の底から思ったのでした。

 街の人から石を投げられるかもしれない、セリムだって危ない目に合うかもしれない。危険があるのはわかっていましたが、それでも街の人を助けたいという気持ちが勝ったのです。


 こうして魔女はセリムに連れられ、薬だけでなく薬の作り方を書いたノートを持って街に行きました。

 そこは酷い有様でした。病気は街の至る所にはびこり、死をもたらしたのです。


 埋葬する人も足りないのでしょう、街の外れの一角には病気で死んだ人たちが集められていました。みんな森の動物たちと同じように、口から血を吐いた痕がありました。

 魔女は死んだ人たちに弔いの言葉を投げかけると、すぐに燃やすように伝えます。病気で死んだ人の体をそのままにしていては、さらに悪い病気までもが流行ってしまうからです。


 けど街の人たちはすぐには動いてくれませんでした。気味の悪い魔女にいきなり言われても従う人なんていません。ですがセリムがそうするように伝えると、街の人たちは言うことを聞いてくれました。


 セリムは街で立派な医者として尊敬されていたのです。そのセリムが死んだ人たちを燃やす理由も説明すると、街の人たちは動いたのです。


「ずいぶん信頼されているじゃないか」


 弟子が街の人から尊敬されていたことを知って魔女はセリムに笑いかけます。


「いえ、すべて先生に教えてもらった知識があったからこそです」


 セリムもそう言って笑い返しました。

 街を一通り見て回った後、魔女はセリムの診療所で患者たちを診察することにしました。そこはひどい有様で、診療所の中はいやな臭いが立ち込めているし、患者の数が多すぎてベッドの数が足りないほどでした。


 充分な数の薬を持ってきたとばかり思っていた魔女でしたが、現実を目の当たりにするとそれが思い込みでしかなかったことを思い知らされます。けれども魔女はそこで立ち止まることをしません。

 すぐセリムの所で働いている看護婦たちを集めて森に薬の材料を集めさせ、作ることにしました。街に来ていた鳥に頼み、森の動物たちに彼らの邪魔をしないようにも伝えます。


 そこからは寝る暇もないほど忙しい日々が始まったのです。

 薬ができるまでの間、少しでも病気の進行を食い止めるため病人たちの体を冷やし、水を飲ませます。そうして薬ができれば飲ませていき、回復するまで見守りました。


 こうした魔女の活躍で街から病気は消えました。けれども全ての病人を救うことはできなかったのです。薬が出来るまでに間に合わなかったり、薬を飲んでも体力を使いすぎてそのまま死んでしまった人も多くいました。

 魔女はそうして死んでしまった人たちの為に泣いて、祈りを捧げ、弔いました。


 病気が去っても魔女の仕事は終わりません。また病気がやってこないためにはどうするか、毎夜毎夜、立派な医者となったセリムと遅くまで話し合いました。

 そうして予防法を作り、これで安心した魔女は森に帰ろうとしましたが出来ませんでした。この病気は他の街も襲っていたらしく、病気を治す方法があると聞いた他所の街から医者がやってきたのです。


 魔女は全てをセリムに教えていたので、帰れると思っていたのですがセリムはこう言うのです。


「私はまだ先生を超えることができません。今はもう先生のことを恐ろしい魔女だという人はいなくなりました、お願いです。この街に残って私たちに教えを授けてくれないでしょうか」


 魔女は少し悩みましたが、セリムの頼みを聞くことにしました。魔女が好きなのはこの街の人間だけではないのです、全ての人間も好きなのでした。

 病気が無くなっても魔女は街を去りませんでした。ひっきりなしに色んな所から医者がやって来ました。魔女は彼らに自分の持つ知識を一つずつ丁寧に教えていくのです。


 やってくるのは医者だけではありません。様々な病気に苦しむ人々が訪れます、魔女はセリムだけでなく新たな弟子となった医者たちと共に病気に立ち向かいました。

 魔女の弟子となった医者たちは学び終えると色んな場所で病気を治していきました。


 教えて、治して。そんなことを続けていると魔女に変化が現れました。今まで決して年をとることが無かった魔女でしたが、老いはじめたのです。

 顔には皺が現れて、髪は白くなり、腰は曲がり。体は不自由になっていきました。


 今まで老いることが無かった魔女はその変化が不思議に思いましたが、すぐにその理由に気がつくと納得しました。

 年をとることに満足がいくだけでなくそれがとても喜ばしいものに思えたのです。


 魔女はあっという間に老婆へと変わり、ベッドから動けなくなってしまいました。でも魔女は笑顔を浮かべています。

 魔女が亡くなる間際、魔女のベッドの周りにはセリムだけでなく魔女に教えられた医者たちが集まっていました。魔女は彼ら一人一人の顔を見て、微笑みかけてそうして目を閉じます。


 その目が開くことはありませんでした。


 こうして薬学の魔女アネモイはその生涯を終え、彼女の知識は多くの人々を助けたのです。

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