Scene 2

 慌ただしかった一日を終えて、彼は後部座席のシートに身を沈めていた。高架道路はゆるやかなカーブを描いて、都市の中心部と郊外を分断していた。

 ドライバーの無線に着電があり、少しの雑音が空気を乱した。省略と符丁が多く混じった、内容の不明な通話を彼は聞き流した。

 行き来する車両を繋ぐネットワークは、常にその形を変えながら動き続ける。何種類もの網が都市を包み込み、機能を担っているのを彼は想像した。位置の上では隣り合っている二点が、全く異なる網の中に組み込まれて、お互いに干渉することなく存在する。そんな状況はそこかしこに広がっているのに違いなかった。

 夜の中をセダンは滑るように進んだ。座席の右側に開いた窓に、オフィス街の夜景が映し出された。散りばめられた無数の輝点。ガイドブックの表紙をフルカラーで飾る、よく撮れた写真のようだと彼は思った。それはどこか白々しい眺めでもあった。

 自身がネットワークの構成要素であるとき、そのふるまいはただ入出力の繰り返しとして認識される。ひとりひとりの都市生活者にとって、都市とは連続する日常の全体だ。その外部からネットワークを語ろうとするとき、構成要素としての視点は抜け落ちてしまうように、都市の外側から都市を語ろうとすれば、語られるのはいつも類型的な、語られる都市としての都市のあり様だ。

 誰にもその全体を捉えることのできなくなるまでに肥大化する前、都市はどんな風だったのかと彼は考えた。

 樹上からサバンナ、洞窟と穴ぐらと集落を経て、我々は大勢で暮らすことを覚えた。都市は間違いなく、人類史上の発明のひとつだったはずだ。人材、資源、情報の集積が、これまでに不可能だった多くを可能にした。一方で先代から引き継いだ、変わり難い形質との軋轢もまたついてまわっただろう。

 警察機構はまさしく、そうした矛盾の解消のために生み出されたのではないかと彼は考えた。ローマのウィギレス、ロンドンのスコットランド・ヤード、ミヤコのケンビイシ、エドのブギョー。防火と同様、治安維持の業務は、都市の拡大に従ってその必要を認められた。開拓時代のアメリカに設けられた郡保安官は、都市化と共に各々の市警に取って代わられた。

 都市と犯罪が切っても切り離せないのは、密度効果の現れなのではないか。そんな説明も出来そうだった。ある種のバッタは群集相と孤独相を持ち、個体群密度に応じて形質が変化する。単位面積あたりの個体数が、表現型そのものに影響を与えるのだ。

 都市は人間のあり方を、ある面で変えてしまったのではないか。それほど大仰な話でなくとも、過密に従って接触の回数が増せば、当然の帰結として揉め事は増える。警察機構の能力の大半が、些細なトラブルの仲裁に振り分けられてきたことを彼は思い出した。

 そうしてみれば、犯罪と火事とを分かつものはさして多くはないのではないだろうか。いずれも人口の密集に伴って増加し、しかるべき策を講じることで件数を減らせる。解決のためには、専門的な訓練を受けた人員が必要となる。

 殺人もまた火事のようなものだとすれば―今朝の現場を彼は思い出す―そこに単一の要因を求めるのはいかにも的はずれだ。事件を生み出すのは単に状況であり、実行者はただそこに居合わせたに過ぎない。利害関係が絡んだ犯行や組織犯罪といった例外はあれど、自身の行動のすべてについて、一貫した説明ができる人間などいやしない。

 だが市民はそれでは納得しない。当たり前に存在する不条理を認めようとしない。気まぐれに生じる意味の空白に、彼らはどうにも我慢できない。

 刑法は人間に自由意志を認め、責任能力を仮定した上でストーリーを作り出す。司法機関も捜査当局も、捉えようのない社会に一定の意味づけを行う装置の一部だ。

 不可解な事象に対して一応の決着をつける。おれはそのために雇われた要員のひとりか。できるだけ突き放して考えようとした結果とは言え、どうにもげんなりしている自分がいた。

 人口の密集に伴って必然的に生じる諸問題への対応策として、あるいは事件に説明を求めずにはいられない人心の要請を受けて、 われわれ警察は組織された。そういう説明は確かに可能だ。けれど本当にそれだけなのだろうか。断言できない部分がどこか残されているように彼は思った。汗にまみれ、靴底をすり減らして、先行きの見えない捜査を続けるうちに、説明のつかない直感のようなものが自分に備わってきたことに彼は気づいていた。捜査官の一部でありながら、その者自身の器量を超えてもたらされるある種のひらめき。この職業に携わる者であれば誰しも、口にせずともその価値を知っている。

 直感は何に由来するのか、おぼろげな予感を彼は抱きはじめていた。神経細胞のひとつひとつが、総体としての意識を知り得ないように、個人には推し量ることのできない都市の意思というものが仮に、仮にあるのだとしたらどうだろう。あるいは都市はその発生の過程のどこかで、自身がどのような存在なのかを知りたいと願ったのではないか。そしてそのために、自らを探る指を造り出したのではないだろうか。

 そうしておれが造られたのだと彼は思った。眠りにつく都市の輪郭線を、指は丁寧になぞり終えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

都市の指 空舟千帆 @hogehoho

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る