都市の指
空舟千帆
Scene 1
殺人現場はいつになく閑散としていて、刑事は所在なく死体を見ていた。
どこかで起こっている渋滞のために、人員の到着がひどく遅れているらしかった。集合住宅のいち区画、ベランダに面したリビング・ルームの中央で、フローリングの床に死体は転がっていた。
後頭部から滲み出した血が、凝固して毛髪にこびりついているのが見えた。立入禁止を示すテープも、ひっきりなしに出入りする捜査員もいなかったが、それでもその場には異質な空気が漂っていた。
殺人というのはなんでもない場所を、強力に意味づけるはたらきを持っているんだと彼は思った。空き地や裏路地のちょっとした一角、駐車場に置き去られた車の中。巡ってきた現場はどこだって、普段なら通り過ぎてしまうような平凡な場所だった。誰かが死体を見つけると、その時はじめて彼の生活に入り込んでくるのだった。
きっと殺人者の側からも、同じことが言えるはずだった。ただ一時の事件をきっかけにして、そこは彼らにとって特別な場所になる。染み付いた記憶は彼らの人生から、たぶんどうしたって離れなくなるだろう。
現場の見分にしすぎるということはなかったが、どうにも息が詰まる感じを覚えた。数人の部下をその場に残し、玄関の開け放たれたドアをくぐって、彼は共用の通路に踏み出した。
ベージュ色をした手すりの向こうに、向かいの居住棟の全体が見えた。寸分の差もなく繰り返される、ドアと小窓が作るパターン。上下左右に整列する、今立っている場所の正確な複製。
珊瑚礁、蟻塚、蜜蜂の巣……。延長された表現型という表現が彼の胸中に浮かんだ。けれど人間は、昔からこんなふうに暮らしてきたのではなかった。
並んだドアが次々に開き、住人が職場へと出勤していった。訝しむように彼を見上げた数人も、足早にエレベーターに乗り込んでゆく。
いくつかの世帯にはまだ、殺人の事実が伝わっていないのだろう。口伝いに噂が走るのを彼は想像した。ごく薄い壁を隔てて息づく、お互いに無関心な住人たち。集合住宅は多様な生活のパッチワークなのだと彼は考えた。
巨大な住居はその内に謎を抱え込む。最初の推理小説における殺人の現場も、確か集合住宅の一室だったはずだと彼は思い出した。壁の向こうで起こっていることを誰も知らない、新しい形の人間の住処。謎は都市というがらんどうの舞台に、史上はじめて現れたのだ。
時計を見ると八時を回っていた。いい加減に戻った方がよさそうだと考えて、彼はふたたび現場に立ち入った。一切が動かされぬままに保持され、ベランダのガラス戸から入る白い光が、床の全体を照らしていた。
アルミサッシに縁取られて、周辺地域が一望できた。厚く垂れ込めた雲の下に、巨大なショッピングモールと集配センターが聳え、中間色の建売住宅が間を埋めていた。屋根の連なりの向こうには河川敷が横たわり、濁った川面がわずかに見えた。ここはどんな街なんだろうとふと考えて、若い時分に担当してきた、いくつもの巡回区域について思い出した。勤続するにつれわかってくる、その街に固有の問題ごとというものがある。犯罪はその街の横顔でもあるのだと、つねづね彼は考えていた。
部下の一人が歩み寄って、彼に人員の到着を知らせた。仕事はここに来てようやく、まともにはじまりそうだった。
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