5 幸福

 この界隈では最も巨大な大学病院の個室に、素子もとこは入院していた。

 霊体として先程、再会したばかりだったが、彼女本体にはその記憶があるのだろうか?

 あれこれ気にしながらも、俺の心の時計が、また回り始めていた。空白の時間なんて、あって無いようなものだ。


 社長は、最寄りの大通りまで徒歩で行った。あの危なっかしい川沿いの土手を一列で歩きながら、社長は話した。

「私は、日中は大抵あの別館に居るんだが、出勤する時にいつもこの辺りで、本格的な競技ユニフォームを着た御老人とすれ違うんだ。相当な高齢だと見受けるんだが、健康というのは素晴らしいね」

 それって、俺のじいちゃんじゃないのか。幽霊なんだけど……まあ確かに健康だったな。


 大通りに出ると、普通のタクシーが待機していた。黒塗りの外車じゃなくてホッとする。

「お先に失礼します」

 タクシーに乗り込む時は、奥の座席のほうが手間がかかるから、目下の者が奥に乗るんだったよな、そうだよな……?

北見きたみ医科大学の第三病棟まで遣ってくれ」

 タクシーが発進して間もなく青に変わる信号を淀みなく渡るだろうかと思った瞬間、点滅する青信号でよたよたと横切る老婆が現れた。

 歩いてきたんじゃない。ふっと現れたんだ。


「あのお婆ちゃんは、いつもこの辺りを歩いてるから、一度聞いてみたことがあるんだ。お散歩ですか、って。そしたら、とんでもない失礼だったよ。あの足で北見病院まで、ご主人の入院の付き添いに通っているらしい。荷物は洗濯物や、読書好きのご主人の為に図書館で借りてきた本などが詰まっている。人にはいろんな事情があるものだ」

 社長は、妖怪になった俺の御先祖だというばあちゃんを暖かい眼差しで見送りながら、車内から手を振って、身振りで挨拶を交わしていた。

 世界中の人は、皆どこかで繋がってるんじゃないだろうか。俺は、何となくそんなことを考えていた。


 ◇


 病棟に到着して、社長は受付で手続きを済ませると、俺に例の封筒を手渡しながら言った。

「私はロビーで家内を待っているから、君が先に、素子に会いに行ってくれ。よろしくな」

「社長は、いらっしゃらないと?」

「後で行くさ」

 自販機で缶コーヒーを買い、偉そうな素振りはまったく感じさせない社長だったが、相変わらず、柔らかい色の後光が差していた。


 素子は、点滴をしながら病床に眠っていた。

 足音を忍ばせてベッドサイドへ近づくと、彼女は目を開けて、ゆっくりと首を回してこちらを見た。

「直人さん、ただいま」

「おかえり……素子!」

 容態が今ひとつわからないので、抱きしめたい衝動を抑えて手を取ると、しっかりと握り返してきた。

「生きてるよ」

「ああ、よく帰ってきてくれたね。もう居なくならないで、ずっと傍に居てほしい。結婚しよう」

 俺は、皺くちゃになった封筒から、一枚の紙切れを取り出した。


「ありがとう。父の悪戯で迷惑を掛けちゃったね。そんなものを預けなくたって、あなたは迎えに来てくれたでしょう……」

「そうだね。だけど、格差って言うかさ、家の問題になると途轍もなくハードルが高いから、社長の申し出は、助かったよ」

 楽しそうに笑う素子の笑顔を、俺は数年ぶりに見ることが出来た。信じて生きてきてよかった。

「父は、ここ最近、随分と優しくなったわ。昔は、やたら厳しかったんだけどね」

 馬鹿正直も、そんなに悪くないかもしれないな。じいちゃんのように、健康に長生きしてやるぞ。こんな俺を選んでくれた愛しいこの人と、いつまでも連れ添って。

 俺はその時、史上最高の幸福の中で思った。




 -了-



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貧乏くじ男、東奔西走 青い向日葵 @harumatukyukon

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