ラプンツェルの心臓

三月

ラプンツェルの心臓

「あなたの心臓をください」

 桜舞い散る樹の下でのことだった。

 今にも泣き出しそうに瞳を潤ませていた君はけれど、その時ばかりは泣かなかった。

 君の泣き顔はそれこそ見飽きるほどに見ていたから、こんなに強さを秘めた顔も出来たのだと驚いたのを覚えている。鈴の音に似た軽やかな声は凛と張りつめていて、僕の心臓をまっすぐ射貫いた。

 人は誰かのことを声から忘れるというのに、今でも鮮明に記憶を震わせるあの声を忘れたことは一度もない。

 君の澄んだ声が、前を向くまなざしが、細い首すじが、小さな指のつめが、長く伸びた髪が――君のすべてが、好きだった。

 

 僕の元には二つの心臓がある。

 僕の手のひらに置かれた君の心臓と君に手渡すことを拒んだ僕の心臓。

 捨てることも忘れることも出来ないまま、時の止まった心臓をもて余していた。


 君に背を向けたあの日から三年が経った。





 その日、平瀬ひらせなかばは久しぶりに故郷の地を踏んだ。

 高校を卒業し、そのまま都心の大学へ進学する予定が、滑り止めで受けた地元の大学に入学することになってしまったためだった。

 戻ってくるつもりのなかった場所でも、いざ帰って来てみれば懐かしさがこみ上げる。

 故郷の田舎町は記憶とほとんど変わっていなかった。高いビルもマンションもなく、畑と田んぼの間にぽつぽつと家が建っている。もうすぐ昼だというのに、人の気配はまばらで、春の風に吹かれる緑の気配だけが鮮明だ。

 高校に入学してから、央は一度も家へは帰っていない。もともと両親は共働きでほとんど家にいず、央の世話をしてくれていた祖父母は今は伯父夫婦の家に住んでいる。単純に帰る理由がなかったのだ。

 土と緑のにおいを含んだ空気を肺におさめながら歩いていると、少し遠くに古びた校舎が目にはいった。三年前まで通っていたこの町で唯一の中学校だ。

 すっかり色のはげた風見鶏がからからと回転する。ふいに思い出した記憶の中で少女が笑った。

『風見鶏も浮いちゃえばいいのにね』

 きつくまぶたをとじて、少女のまぼろしを追いやる。もう会うことのない人の姿をいつまでも覚えているなんて馬鹿みたいだ。

 そうやって自分を戒めていたものだから、背後からかかった声に心臓が飛び出るほど驚いたのだった。

「おーちゃん?」

 三年前となんら変わらない澄んだ声が、央を呼んだ。

 振り向く。そこにいた少女は記憶より髪がずいぶんと短くなり、おまけに地上から数十センチも宙を浮いて立っていた。

「……髪、どうしたの」

 央の記憶の中の彼女はくるぶしまで髪を伸ばしていた。そして髪を伸ばすということは、彼女にとって特別な意味を持っていたはずだ。

 花のよく似合う明るい笑みを浮かべた彼女から、央は気づかれぬように視線を逸らす。俯きながら人と話してしまう幼い頃からの癖は、高校を卒業してもぬけることがなかった。

「失恋したから切ったの。でも三年伸ばしっぱなしだから、けっこう長くなったんだよ。浮くのも安定してきたし。それにしても久しぶりだね。今日は里帰り?」

 肩甲骨のあたりまで伸びた髪をもてあそぶ彼女は、あっけらかんと答えた。

三年前の失恋を与えたのが誰であるか、もちろん央は知っている。どう返すべきか考えあぐねて、結局彼女の問いにだけ答えた。

「こっちの大学に行くことになったから」

「そっか。じゃあおかえりだね」

 おかえり、おーちゃん。

 三年前のことなんてすっかり忘れてしまったかのように、彼女は――垣内かきうちみゆは笑った。





 彼女との思い出は、そのほとんどが一つの教室の中だけで完結する。

 埃と黴ばかりの狭くて不自由で、かけがえのないあの空き教室で、央は初めて彼女と言葉を交わした。


 垣内みゆは校内でいつも浮いていた。

 別にいじめにあっていたわけでも幽霊として浮遊していたわけでもない。ただ言葉通り、彼女の足はいつだって床から数センチ浮いてそこにあった。

 本人いわく、生まれつきの体質らしい。まあ日によって瞳の色が変わったり、雨の日だけ半透明になるような人間もいるから、珍しいけどいないわけではないのだろう。

 原因こそ分からないが、天気や本人の気分などによって浮き加減が変わることと、髪を伸ばすことで安定性が保たれることは分かっていた。

 その言をきっちり守るべく、彼女の髪はくるぶしのあたりまで伸ばされていた。浮いていると言っても移動は歩いているのと同じなので、足より長く伸ばすと踏んでしまうらしい。

 当初の彼女は、さながら動物園の珍獣扱いを受けていたように思う。

 浮いてしまうという体質のせいで、ろくに幼稚園も小学校も行けなかったらしい彼女は、中学に入学したことで一気に人の目にさらされた。同級生はもちろん上級生までもが、頻繁に教室を訪れては、彼女の様子を見物しに来ていた。彼女に興味を持っていなかった生徒はそれこそ央くらいのものだった。

 当時の央は、長い前髪と黒縁眼鏡だけが特徴の陰気な中学生で、彼女とは対照的にほとんどの人から興味を持たれることなく学生生活を送っていた。

 入学して次の日に行われるレクリエーションですら、グループからはずれて行動していたと聞けば、だいたいのことは分かるだろう。

 思えば、あの空き教室を見つけたのも、一人で校内を歩いていた時だった。

 新校舎と実験室などがある特別棟をつなぐ渡り廊下の端っこの窓から、二段ほど下に外に出っ張った踊り場のような場所があった。そこから手を伸ばせば、向かいの旧校舎の鍵が壊れた窓に手が届く。もう誰もいない校舎に忍び込むのは簡単なことだった。

 央は昼休みになると一人でそこに行っては、空き教室へ入りこみ弁当を広げた。空虚なにぎやかさの中にいるより、埃と黴と薄暗さに満ちた静けさの方がよっぽど居心地がよかったのだ。時おり埃にむせそうになりながら、過ごすのが日課になってきたある日、彼女がやって来た。

 いつものように弁当を食べていたら、突然、宙に浮いた同級生がやって来て「一緒に食べてもいいかな?」と聞いて来た時は、あやうく大好物の玉子焼きをそのまま飲み込みそうになるくらい驚いた。

 不特定多数の人間から観察されるのに耐えかねた彼女は、校内を歩き回ってやっとこの場所を見つけたのだそうだ。たかだか数週間先に見つけただけの央に拒否する権利もないので、もちろん了承した。場所を離れるという選択肢を取らなかったのは、彼女があまりにも心細そうだったからかもしれない。

 それがはじまり。その日から彼女と昼休みを共にするようになった。

 彼女は自分のことをたくさん央に教えてくれた。

 浮いてしまう体質とは生まれてからの付き合いであること、浮き加減が安定しなくて危ないから十歳になるまではほとんど家で過ごしていたこと、両親ではなく、祖母に育てられていること。髪を伸ばしている理由も、その不思議な体質のせいで起こった珍事件も彼女は面白おかしく話してみせた。

 代わりに央も自分のことを少しずつ話した。

 共働きの両親のこと。育ててくれている祖父母のこと。読みかけの本のこと。祖父好みの甘い玉子焼きが本当は嫌いだったけど、我慢して食べていたら好きになっていたこと。

 央は話上手ではなかったのに、彼女はいつも楽しい物語でも聞くように央の話を聞いてくれた。視線を合わせること自体はあまりなかったけれど、横にいてくれるだけで分かった。

 彼女はあれだけ好奇の目にさらされているにも関わらず、誰かの悪口を口にしたことはなかった。代わりによく泣いてはいた。

 黙ってぽろぽろ涙を流すたびに、央はハンカチで彼女の頬をよごす涙を拭っていた。そして必ず自分のおにぎりをあげた。たまに彼女の方からおにぎりをねだることもあった。

 あの時ほど祖母に感謝したことはなかったかもしれない。泣いている女の子にかける言葉を見つけられない央にとって、自家製の梅干しが入ったおにぎりは救世主だった。

 昼休みの短い時間が特別なものになるのに、そう時間はかからなかった。


 彼女の長い髪が、時々風にさらわれて広がる様子に見惚れた。

 彼女の弾む声が、自分の鼓膜だけを揺らしてくれるのがうれしかった。

 短い時間を積み重ねた日々がずっと続くことだけを祈っていた。


 央と彼女は、あの埃と黴のにおいが充満する教室でだけ自由だった。

 けれど二人は対等ではなかった。央には決して言えないひみつがあった。

 そのひみつをうち明けたのは、中学最後の日。

 卒業式の終わったあと、緊張した面持ちで自分の返事を待っていた彼女に向き合った時だった。

『わたしの心臓をもらってくれませんか』

 そう言って手渡された小さい金色のボタン。彼女のセーラー服の左胸に付いていたそれは、どんなものより光り輝いて見えた。

『あなたの心臓をください』

 散りゆくばかりの桜の花びらを纏う彼女は、今まで見たどんなものよりきれいだった。

 その時、央は唐突に己の想いを自覚した。ずっと好きだった。たしかに好きだったのだ。

 けれど、自覚までしておきながら、央が彼女に自分の心臓を手渡すことはなかった。彼女がどんな顔をしていたかは分からない。振り返るのがこわくて出来なかった。

 決して自分は許されてはならない。そう思ったから、彼女の想いに答えることも、自分の想いを告げることもせずに立ち去ったのだ。

 衝動的にちぎりとったボタンは、行き場をなくしたままで構わない。

 たとえ手元に残った二つの心臓と共に、この想いが息絶えてしまったとしても。





「せっかくだから遊びに行こうよ」と言われて、気づけば連絡先を交換していた。

 携帯端末というものを中学生の彼女は持っていなかった。指先ひとつで簡単に操作出来てしまうくらいに手慣れた様子が、空白の時間を色濃くにおわせた。

 彼女が指定してきたのは再会から二日後。よく晴れた春の午後だった。

「お待たせ」という柔らかな響きと屈託のない笑顔、そして長くなったと言った黒髪の、癖のない彼女そのもののようなまっすぐさがどうにもまばゆくて目を細める。相も変わらず伸ばしすぎた前髪と黒縁眼鏡をかけている自分が、少し恥ずかしかった。

 春の日差しの下で、薄桃色のマキシ丈スカートがふわふわと揺れるのを視界にいれながら、商店街の縁日にやって来た。毎月行われる小さな縁日には、央たちのような年代の少年少女はほとんどおらず、小さな親子連れや老人会の人々ばかりだ。

 彼らの視線はすれ違う際に、必ず彼女の地上より三十センチばかり浮いた足へと集まる。当の本人はそんな好奇の目を意に介さず、持っている小さなショルダーを振り回す勢いで宙を歩いているので、央も気にしないようにした。

 まず小腹を満たそうと言い出した彼女は、目についた出店の食べ物を片っ端から買い込むことにしたらしい。

 たこ焼きにお好み焼きにからあげにフランクフルト、チョコバナナにりんご飴にわたあめなど、両の手に抱えきれないほどの食べ物をほくほくとした顔で頬張っていく隣で、央は焼きおにぎりをひとつだけ食べた。

 まるで中学生に戻ったかのように、彼女は自然と央の隣で笑っていた。

「おーちゃん」

「「おう」じゃなくてなかば。ずっと言おうと思ってたけど、その呼び方もうやめない?」

「おーちゃんってば」

「すがすがしいほど話聞いてないね」

 こういうやり取りは中学生の時に何回もした。自分の名前が読みにくいものだということは、央自身分かっていたが、間違えた読みのまま呼び名が定着するとは思いもよらなかった。何度も注意し続けたが、そのうち根負けした。

「あれ一緒に食べよう」

 あらかた食べ終わったらしい彼女が次に指さしたのは、クレープを売っている出店だった。他の屋台よりも大きく作られていて目立っている。カラフルな文字と写真が印刷されている看板型のメニューが目に入って、央は眉間にしわを寄せた。

「……甘いのは胃もたれしそう。ていうかまだ食べるの?」

 央の記憶違いでなければ、彼女はもう十種類以上の食べ物を平らげているはずだ。

「だっておいしそうだもん。甘いのだけじゃなくて、ちゃんとソーセージやハンバーグのもあるよ」

 土のよごれ一つないパンプスが、でこぼこ舗装の道の三十センチ上を進む。出店に近づいていくと独特の甘いにおいに包まれるような心地がした。

 彼女は半ば座り込むようにしてあきらかに人気メニューとはかけ離れた扱いを受けてひっそりと書かれているてりやきハンバーグやソーセージエッグなどの項目を指でなぞる。

「美味しそうだね」

「そっちの方が無理。夕食入らなくなる」

「おーちゃん本当に男の子?」

「女の子に見える?」

 ほら食べるんでしょ、と店の前に出来た列を指さすと、きらきらした目で彼女は大きくうなずいた。癖のない黒髪が彼女の動きと一緒に跳ねる。

 道行く人の邪魔にならないように注意しながら、二人で最後尾に並ぶ。急ごしらえのエプロンをつけた店員が、鉄板に薄く生地をひいてのばす様子を見るだけで彼女は楽しそうだ。

「どれが美味しいと思う?」

「プレーンかな」

「えー、甘いのがいい」

 どう考えてもさっき胃もたれを心配した身に聞くことではないが、仕方なく列の前方にある小さなメニューを見ながら適当に答えようとしたところで、後ろから大きな声が背を矢のように刺した。

「おねえちゃん、ゆうれいみたい!」

 誰のことを言ったのかはすぐに分かった。

 振り向くと、四歳くらいの女の子が棒付きの飴を彼女に向けている。まわりに親らしき姿はない。ふらふらと歩いている途中に彼女が目に入ったのだろう。おもしろいおもちゃを見つけたような顔をしていた。

 幼い子どもの声に合わせて、周囲の視線が一気に好奇心を宿して集まってくる。

次々と刺さる目に耐えかねて、踵を返そうとした時。誰よりも澄んだ声が響いた。

「ゆうれいじゃないよ」

 絵本を読み聞かせるのに似た穏やかさと茶目っ気をたっぷりとふくませた彼女は、いつの間にか時間が過ぎ、青と橙が混在するようになった空を指さした。

 気づけば彼女の横顔はさっきよりもずっと上にある。自分で浮き上がっているのだと分かった途端、冷や汗が流れた。まるで、空に吸い込まれてしまうように思えた。

 そんな央の気も知らずに、彼女は幼い女の子だけを見ている。

「空が近くなる魔法なんだ。いいでしょー」

 本当に特別な魔法を授かった幸福な少女のような笑みを浮かべ、胸を張った彼女に女の子は歓声をあげた。

 そこで娘を探し当てた父親がやってきて女の子の名を呼ぶ。女の子は未練もなく彼女にばいばいと言って、父親のいる方へ走っていった。その姿が見えなくなるまで彼女は手を振ってから、央の視線に気づいてようやく元の位置まで戻ってくる。

 けれど、彼女の足が地を踏むことはなくて。

 それは決して幸福な魔法なんかではなくて。

 悔しさに似た痛みが体を貫いたところで、央にはどうすることも出来ない。彼女に手を伸ばすことさえも、もう自分には許されない。

 いまだ視線を集める状況から逃げるように、央は強引に列を抜けた。彼女はなにも言わずに付いてきた。怒っているのか悲しんでいるのか、なんとも思っていないのか。それすら今の央には分からなかった。

「そろそろ帰ろう」

 声が上擦らないように目を背けて発した言葉を、聞き取った彼女が少し慌てた。

「待って。最後に中学に行きたい」

「……なんで」

「せっかくだしいいかなって。三年ぶりだから懐かしいでしょ?」

 小首を傾げながら問う彼女の提案を、拒否などもちろん出来るわけもなく。央は中学校へと足を踏み出したのだった。





 二日前にも見かけた中学校は相変わらず古びていたが、記憶の中よりもよほど小さく感じた。

 ただ桜の樹だけは同じだった。中学の設立より前からあるという桜の樹は校庭の隅にひっそりとたたずんでいる。薄紅色の花びらがさらさらと校庭に落ちて、地上に春を呼んでいるようだ。

「なんかぜんぜん知らない場所みたい。こんなんだった?」

 今にも空高く飛び跳ねそうな勢いで、彼女は校庭の上を歩き回っている。央はその後ろを付いていった。じゃりじゃりとスニーカーで砂粒を引きずりながら、ふと目をやれば、あの空き教室があった旧校舎は影も形もなくなっているのに気づく。

もう思い出の場所はどこにもない。

「さっきのことなら平気だよ。大丈夫。初めてじゃないしね」

 ずっと無言を貫いていた央を心配したのか、彼女は振り向いてこちらへと戻って来た。

 さっきのようなことを言われたのは、初めてではないだろうと央にも分かっている。けれど、無邪気な子どもの好奇心はなによりも残酷だということも、知っているつもりだった。

「でも」

「もうそこまで泣き虫じゃないもん。これでも強くなったんだから」

 鈴の音を思わせる声に、涙の気配はかけらも見当たらなかった。

 今の彼女は央が知っていた泣き虫な女の子ではないのだ。彼女の隣にうまい言葉のひとつも見つけられない男子生徒はもう必要ないことや、二人だけで完成していた日々はもう二度と戻ってこないことを、まざまざと思い知らされた気がした。

 そして三年経っても、やっぱり央は彼女にかけるべき言葉を探しあてられないのだった。

 こちらの言葉を待つことなく、彼女が再び口を開く。どこか思いつめたようにも見える表情をしたまま、会ったら謝らなきゃと思ってたことがあるの、と切り出した。

「わたし、本当は言われる前から知ってたんだ。おーちゃんの目の色が日によって変わること」

 その言葉はまるで氷のように、央の全身を瞬く間に凍らせた。

 頭の中が真っ白になって、立っている感覚さえも失いそうになる。おもわず視線をあげれば、視線がぴたりと合う。夕焼けの薄桃めいた影をまとう彼女は、静かで、とてもきれいだった。そんな彼女に、自分の醜さと愚かさを、暴いてほしくはなかった。

「なんで、」

 央のたった一言に込められた意味を正確に読み取った彼女は、困ったふうに眉をさげて答えた。

「横からだとね、わりと見えちゃうんだよ。黙っていてごめんね」


 ――央には誰にも言えないひみつがあった。


 垣内みゆという少女が重力を受けにくい体質を持っているように、平瀬央という少年は日によって色を変える瞳を持って生まれた。

 天気などの外的要因だけでなく、自分の感情によっても変化する色を見たくなくて、家中の鏡は物心がついた時から布がかけられている。

 だが、なにより央がおそれたのは、視界いっぱいに広がる誰かの目だった。まるで珍しい生き物を観察するように、毎日誰かが自分の瞳を覗きこんでくるあの気持ち悪さは、央の精神に暗い影を落とした。

 俯き加減で話すのは、小学生の頃に身につけた癖だ。無遠慮に瞳を覗きこみ、好奇心や物珍しさを隠そうともしない誰かをこの目に映すのが、どうしようもなく苦痛だったから。

 見せなければいい。知られないように一人でいれば、もう二度とこんな痛みをおぼえなくてすむ。

 度のない眼鏡をかけ、前髪を伸ばした。口数を減らし、人とは視線を合わせない。根暗で誰からも興味を持たれない男子生徒はそうして出来上がった。

 だから、中学で宙を浮いて歩くというクラスメイトの存在を目の当たりにした時、央が胸中に抱いたのは驚きではなく安堵だった。

 これでもう誰も央に興味を持つ人間なんていなくなる。たとえ知られたとしても、宙を歩く彼女と比べれば、自分の体質なんてちっぽけなものだ。そう思った。央は最低な子どもだった。

「……それなのに、僕を好きなんて言ったの?」

「うん。だって好きだったから。そうじゃなきゃ、あなたの心臓をください、なんて言わないよ」

『あなたの心臓をください』

 睫毛を震わせてこちらを見上げる少女の顔が、薄闇の中で重なる。

 そのセリフは卒業式にはよくありがちの、けれど央にとっては最も現実味のない告白だった。好きな人から制服の第二ボタンをもらうための言葉を、まさか自分が言われるなんて思ってもみなかった。

 そんな想いをもらう資格なんてなかったのに。

「あの時言ったはずだ。ずっと君を隠れ蓑にしてたって。そんな奴を好きになるわけがない」

 彼女を知れば知るほど、罪悪感は募っていった。本来は央も受けるべき好奇の塊をたった一人で受けていた彼女が、涙を流すたびに口をつぐむことしか出来なかった。

 ただ少しでも長く、二人だけの日々が続いていくことを祈っていた。

 それに耐え切れなくなり、高校は地元から離れた場所を選んだ。最後まで逃げ出す道ばかりを選んできた央を、好きになる理由なんてないはずだ。

「わたしが誰を好きになるかは、おーちゃんが決めることじゃないよ」

 きっぱりと言い放ち、彼女は一度言葉をきった。強い意志が瞳に宿っている。あの時と変わらない、けれどどこか違う輝きだった。

「どんな理由があっても、泣いてばっかりだったわたしのそばにいてくれたのは他の誰でもないおーちゃんだから。今さら意味なんてないかもしれないけど、好きになったことだけは信じてほしい」

 背に流れている髪が春の風にさらわれる。桜の花びらと甘くやわらかな風に包まれながら、彼女は今まで見た中で一番きれいに微笑んだ。

「中学で三年間、一緒にいてくれてありがとう。おーちゃんとのことを思い出しながらね、高校でわたしなんとか頑張れたよ。友達も出来たし、浮いちゃう自分を少しだけ好きになれた気がする」

 本当にありがとう、と自分にも言い聞かせるように繰り返された後の言葉に、央は目を見開かずにはいられなかった。

「わたしの心臓はもう捨ててくれていいから」

 ずっと捨てられなかった心臓は今もまだ央の手元にある。時を止めて行き先を失ったままだったそれを、否定することだけはどうしても出来なかったのだ。

 すべてを見透かしたかのような彼女は、ゆっくりと央から一歩離れる。

「ずっとお礼言いたかったんだ。あの時は結局お別れもちゃんと言えなかったもんね」

 央の中で言葉にならない想いが、幾度となく喉からせりあがっては、形にならずに消えていく。

 今言わないと、もう彼女は――。

「さようなら」

 パンプスと共に薄桃色のスカートが翻る。央と共に来た道を彼女は一人で戻っていく。央を、置いていく。

 三年前、背を向けたのは央の方だったくせに、痛くて痛くてたまらない。

 華奢な少女の面影を残す背中が遠くなる。行ってしまう。きっともう二度と会えない。どこかですれ違ったとしても、彼女は視線を逸らすだろう。


 そうして、お互い忘れていくのだ。二人だけの思い出も。抱え続けたこの想いすら。


 ――許されなくていい、そう思っていた。

 気づけば央は彼女に駆け寄って、手を伸ばしていた。自分よりも高い位置にある小さな手を引き寄せて、強引に抱きしめる。

 その瞬間。浮いていたはずの彼女の体は突然重力を受けて、がくんと央の腕の中に落ちてきた。支えきれずに二人して砂埃が舞う校庭に倒れこむ。

 痛みよりもなによりも彼女の重みが、たしかにこの腕の中で息づいていることに驚いた。彼女の手も膝も足も、今まで一度も触れたことがないだろう地面に、きちんと着いていた。

 おもわず顔を見合わせると、彼女の頬にひとすじ透明なしずくが伝った。そこからは溢れるように、涙が次から次へと流れていった。

 自分だけが知っているその見慣れた泣き顔が、あまりに愛しくて。央は今度こそ彼女をしっかりと抱きしめた。

「……ごめん。ずっと待っててくれたのに向き合わなくて、逃げてばかりでごめん」

 震える手でもう何年も外さなかった眼鏡を放り投げた。彼女が息をのむ中、ポケットに入っている二つの金のボタンのうち、大きな方を彼女の手のひらに乗せる。

「僕の心臓をもらってください」

 三年前の自分が言えなかった想いごと、彼女に差し出した。

 うるんだ瞳に映る自分の瞳の色が何色なのかは分からない。ほんの少しでも彼女にとってきれいな色であればいいと思う。

 あたたかな涙がこぼれ落ちるのを必死に指先で拭っていると、下手くそ、と恨みがましい声が発せられた。指先にまなじりを押しつけるように顔を寄せる彼女は、三年前の懐かしい泣き虫な少女だった。

「おーちゃんのばか」

 何度も聞いた彼女の涙でかすれた声。ふいに埃と黴が充満していた空き教室を思い出した。自由で不自由だった幼い二人の子どもが、笑いあっていたあの頃を。

「うん」

「わたし、すっごい勇気出したのに返事もくれなかった。わけわかんないこと言って帰っちゃうし、高校はぜんぜん違うとこ行っちゃうし」

「うん。本当にごめん」

 謝ることしか出来ない央の手に、彼女は自分の手を重ねる。二人分の温度を受けて、金色のボタンが熱を宿していく。

 細くて癖のない黒髪に絡む桜の花びらがひとひら、央の指先にこぼれ落ちた。

「おーちゃんの心臓はあったかいね」

 夕陽が照らす桜舞い散る世界で、長く伸びた影がぴったりと重なった。



 君に背を向けてから三年の月日を経て、ようやく僕らは手を取り歩き出す。

 お互いの心臓を大切に抱えながら。

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ラプンツェルの心臓 三月 @hanauta908

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