番外編④ いかないで

 雨が嫌いだった。

 雨が降ると、住みついた廃寺の中へと、母が客を引き入れるからだ。

 客の興を削がぬよう、縁の下に身を潜め、幼い野風と夜を明かす。そぼ降る雨音に混ざる母の嬌声を聞かせまいと、野火は妹の耳を塞ぎながら、湿ったむしろの上、身体を丸めて眠るのだった。

「どうして私は、あんな男について行ってしまったのだろうね。屋敷にいれば、こんなことには――」

 仕事の後、母は決まってこの愚痴を吐いた。

 母は土座つちくらでも名家の娘として生を受けたが、十七の折、屋敷の奉公人であった男と駆け落ちをしたのだという。しばらくは下町の長屋の一角で、慎ましくも幸福な暮らしを営んでいた。しかし野火が生まれ、野風が生まれ、蝶よ花よと可愛がられて育った母は、多忙な生活におりのような疲労を溜め込んだ。毎日萎れた花のように鬱々と項垂れる母の姿に、父の心はうっすらと家族から離れていったのだった。

 背負ったものから逃れるように、父は博打にのめり込み、酒を煽る日が続く。少ない稼ぎもあぶくと消え、母が屋敷から持ち出してきた金品や装飾品の類が尽きると、売る物もなく、徐々に生活は苦しくなった。夫婦喧嘩が増え、貧しさの責任を押し付け合う口汚い罵声から逃れるために、野火は野風を連れて散歩に出ることが増えていった。

 そんな日々を経た、とある日のこと――父は忽然と姿を消した。換金できそうなものはすべて持ち出され、がらんとした長屋に残されていたのは、父の多額の借用手形のみであった。

 幼子ふたりを抱えた母は、取り立てから逃げるように、土座の端の端、貧民屈の廃寺にひっそりと身を隠した。家財をくすねて敢行した駆け落ちであったゆえ、実家の屋敷には戻れなかった。そうしてやむなく夜鷹となった母は、筵ひとつを携えて、春をひさいで日銭を稼いできたのである。

 しかしそんな母の事情など、このとき十であった野火の理解の及ぶものではなかった。ただ客を取るたびに魂をすり減らす母が、自分を見て微笑むどころか、顔を顰めるようになっていくのが、飢えや寒さよりもはるかにつらかった。

 しとしとと降っていた雨が、次第にざあざあと勢いを増す。木々の葉を落とし、泥をかき混ぜ、野火の心の裡を映すかのように、地面をぐしゃぐしゃに乱していく。

(はやく、おわってくれ)

 まだ、嬌声が聞こえる。頭上の床が軋んでいる。

 それは母が、母でなくなっていく音だった。

 きつく目を閉じる。

 もうなにも、見たくない。聞きたくない――

「にいに」

 妹の声に、はっとして目蓋を開いた。口元に手を当て「しー」と小声で窘めると、野風は声を落としてもう一度、「にいに」と言って兄を呼んだ。暗がりの中、ぬくい体温を宿した小さな手が、野火の顔をぺたぺたと叩く。

「にいに、どうしたの? どっかいたい?」

「……いたくないよ。ありがとう、野風はやさしいなあ」

 そう言って妹の髪を撫で、華奢な身体を抱きしめた。トン、トン、と背中を優しく叩くうちに、野風は次第にとろりと目蓋を落とし、安らかな寝息をたてはじめた。

 眠りながらも、野風は兄の衣をきゅっと握ったままである。この小さな手が、荒んでいく己の心を、繋ぎ止めてくれるような気がしていた。


――そうして、どこか満たされない日々が続いたある夜、母は仕事に出たきり、二度と廃寺には戻らなかった。

 その夜、野火はいつも通り野風を寝かしつけ、自身は落ちそうになる瞼をこすりながら、母の帰りを待っていた。いつも疲れ切った様子で戻る母に「おかえり」と言ってから、三人揃ってとこに就くのが、野火のささやかな幸福の時であったのだ。しかし母は、待てども、待てども、帰ってこず、いつの間にか野火の意識は、すっかり夜へと溶けていた。

 翌朝、はっとして目を覚ますと、いつも隣で寝ているはずの母はいなかった。戸の隙間から差し込む細い朝陽が、打ち捨てられた仏の像を冷ややかに照らしており、その異様な静けさに胸騒ぎがした。母を探してガラリと戸を開くと、昨晩にはなかったあん団子の串が二本、申し訳程度に床に置かれていたのだった。

 それは野火の一番の好物で――ゆえに、即座に悟る。

 父がいなくなった時と同じだ。

 今度は、母に捨てられたのだ。

 混乱のさなか、その事実だけは確かな形を持っていて、胸を押し潰すようであった。特別の美人ではないが、品の良いひとであったから、客の男に見初められたのだろうか。それとも単に、自分たちが邪魔になったのだろうか。それとも――

 かぶりを振る。なんでもいい。母に捨てられたということは、どうあっても変わらない。

(泣くもんか。おれは、……兄貴なんだから)

 母を求め、大声で泣く妹の隣で、野火は唇を噛みしめていた。

 泣かない。泣くわけにはいかない。

「にいに、おっかあ、どこ?」

 そう縋ってくる妹を、守れるのは自分だけなのだ。泣いてしまっては、悲しみを溢れさせてしまっては――縋れるものがない己は、妹もろとも、きっと倒れてしまうだろう。

「だいじょうぶだよ、野風。にいにはずっと、そばにいるから。おれが守ってやるからな」

 野火は必死で笑顔を作り、野風を抱きしめそう言った。野風はしゃくり上げながらも、兄の笑顔に励まされ、垂れたはなをずず、とすする。

「ほん、とう? に、にいには、おっとうや、おっかあみたいに、いなっ、いなくならない?」

「いなくならないよ、ぜったい。だから――」

 言いかけて、しかし口を噤み、代わりに抱きしめる腕に力を込めた。

(おねがいだ、野風)

 どうかお前も、おれのそばにいて。

 おれを置いて、いかないでくれ。


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かぎろいの君 瀬生杏 @NITAY_ANN

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