番外編④ いかないで
雨が嫌いだった。
雨が降ると、住みついた廃寺の中へと、母が客を引き入れるからだ。
客の興を削がぬよう、縁の下に身を潜め、幼い野風と夜を明かす。そぼ降る雨音に混ざる母の嬌声を聞かせまいと、野火は妹の耳を塞ぎながら、湿った
「どうして私は、あんな男について行ってしまったのだろうね。屋敷にいれば、こんなことには――」
仕事の後、母は決まってこの愚痴を吐いた。
母は
背負ったものから逃れるように、父は博打にのめり込み、酒を煽る日が続く。少ない稼ぎもあぶくと消え、母が屋敷から持ち出してきた金品や装飾品の類が尽きると、売る物もなく、徐々に生活は苦しくなった。夫婦喧嘩が増え、貧しさの責任を押し付け合う口汚い罵声から逃れるために、野火は野風を連れて散歩に出ることが増えていった。
そんな日々を経た、とある日のこと――父は忽然と姿を消した。換金できそうなものはすべて持ち出され、がらんとした長屋に残されていたのは、父の多額の借用手形のみであった。
幼子ふたりを抱えた母は、取り立てから逃げるように、土座の端の端、貧民屈の廃寺にひっそりと身を隠した。家財をくすねて敢行した駆け落ちであったゆえ、実家の屋敷には戻れなかった。そうしてやむなく夜鷹となった母は、筵ひとつを携えて、春を
しかしそんな母の事情など、このとき十であった野火の理解の及ぶものではなかった。ただ客を取るたびに魂をすり減らす母が、自分を見て微笑むどころか、顔を顰めるようになっていくのが、飢えや寒さよりもはるかにつらかった。
しとしとと降っていた雨が、次第にざあざあと勢いを増す。木々の葉を落とし、泥をかき混ぜ、野火の心の裡を映すかのように、地面をぐしゃぐしゃに乱していく。
(はやく、おわってくれ)
まだ、嬌声が聞こえる。頭上の床が軋んでいる。
それは母が、母でなくなっていく音だった。
きつく目を閉じる。
もうなにも、見たくない。聞きたくない――
「にいに」
妹の声に、はっとして目蓋を開いた。口元に手を当て「しー」と小声で窘めると、野風は声を落としてもう一度、「にいに」と言って兄を呼んだ。暗がりの中、ぬくい体温を宿した小さな手が、野火の顔をぺたぺたと叩く。
「にいに、どうしたの? どっかいたい?」
「……いたくないよ。ありがとう、野風はやさしいなあ」
そう言って妹の髪を撫で、華奢な身体を抱きしめた。トン、トン、と背中を優しく叩くうちに、野風は次第にとろりと目蓋を落とし、安らかな寝息をたてはじめた。
眠りながらも、野風は兄の衣をきゅっと握ったままである。この小さな手が、荒んでいく己の心を、繋ぎ止めてくれるような気がしていた。
――そうして、どこか満たされない日々が続いたある夜、母は仕事に出たきり、二度と廃寺には戻らなかった。
その夜、野火はいつも通り野風を寝かしつけ、自身は落ちそうになる瞼をこすりながら、母の帰りを待っていた。いつも疲れ切った様子で戻る母に「おかえり」と言ってから、三人揃って
翌朝、はっとして目を覚ますと、いつも隣で寝ているはずの母はいなかった。戸の隙間から差し込む細い朝陽が、打ち捨てられた仏の像を冷ややかに照らしており、その異様な静けさに胸騒ぎがした。母を探してガラリと戸を開くと、昨晩にはなかったあん団子の串が二本、申し訳程度に床に置かれていたのだった。
それは野火の一番の好物で――ゆえに、即座に悟る。
父がいなくなった時と同じだ。
今度は、母に捨てられたのだ。
混乱のさなか、その事実だけは確かな形を持っていて、胸を押し潰すようであった。特別の美人ではないが、品の良いひとであったから、客の男に見初められたのだろうか。それとも単に、自分たちが邪魔になったのだろうか。それとも――
(泣くもんか。おれは、……兄貴なんだから)
母を求め、大声で泣く妹の隣で、野火は唇を噛みしめていた。
泣かない。泣くわけにはいかない。
「にいに、おっかあ、どこ?」
そう縋ってくる妹を、守れるのは自分だけなのだ。泣いてしまっては、悲しみを溢れさせてしまっては――縋れるものがない己は、妹もろとも、きっと倒れてしまうだろう。
「だいじょうぶだよ、野風。にいにはずっと、そばにいるから。おれが守ってやるからな」
野火は必死で笑顔を作り、野風を抱きしめそう言った。野風はしゃくり上げながらも、兄の笑顔に励まされ、垂れた
「ほん、とう? に、にいには、おっとうや、おっかあみたいに、いなっ、いなくならない?」
「いなくならないよ、ぜったい。だから――」
言いかけて、しかし口を噤み、代わりに抱きしめる腕に力を込めた。
(おねがいだ、野風)
どうかお前も、おれのそばにいて。
おれを置いて、いかないでくれ。
かぎろいの君 瀬生杏 @NITAY_ANN
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