番外編③ 持たざる者

(こちらへ来い、六出むつで

 少し離れたところに佇む六出は、静かに秋霖しゅうりんを見据えていた。真冬の夜空にぽっかりと浮かぶ月ような、白々しい冷たさを湛えた瞳である。

 王宮の庭。満足に心式しんしきが使いこなせるかどうかの、試しの儀である。父王と兄が見守る中、六出と向き合い懸命に語りかける秋霖であったが、しかし六出は動く気配を見せなかった。何度語りかけても、つまらなそうにあくびや瞬きをするばかりで、ついには視線をそらされてしまう。

(なぜ命令が理解できない。さっさと降れ!)

 苛立ちながらも懸命に感情の雫を練り上げ、六出の角に向かってこぼしてみる。しかしいくら念じようとも、その手ごたえは得られなかった。

 原因はわかっていた。わかっていても、これ以上どうしようもなかった。

 ――身体の内側から湧き出るような、血とは別の見えざる力が流れているでしょう? それを集めて、練って、僕らと一角狼らが共有できるような、意識の雫をつくるんだよ。

しゅん兄……見えざる力とはなんなのですか? 意識の雫? 練る? そんなもの、私の身体の中の、いったいどこにあるというの)

 見えないもの。手に触れられないもの。実体のないものが、秋霖にはうまく理解ができなかった。その力の存在が自らの内を流れているとは、どうしても感じ取れなかったのだ。

 六出を睨みつけながら、ぎりと強く歯噛みをした。焦るあまりに額には汗が吹き出し、心ノ臓は走り始める。庭を見渡せる座敷から、父王が見ているのだ。縁側では、兄春霖しゅんりんもはらはらしながら弟を見守っている。

(いいから来い、六出! でないと、私は、)

 心式が使えないと、判断されてしまったなら。それは、即ち――

「……もうよい。お前に心式の才がないことは、十分にわかった」

 失望に満ちた父の暗い声に、血の気が引いた。

 心式が使えない。術士の家系において、それは――落伍者の証であった。

「ち、父上、待ってください! しゅうは緊張しているだけで、今にきっと――ああっ、だめだよ六出。こっちに来ちゃだめだ」

 慌てて春霖が弟をかばうが、六出はそんなことなどお構いなしに、春霖のそばへとすり寄った。好いているのだ。心を交わせない高圧的な弟よりも、心式をうまく使いこなす温厚な兄を。

「これで、お前に王位継承権が与えられないことは明白になった。……第二十七代九霄きゅうしょうの名は、春霖のものになるだろう」

 耳鳴りがする。目の前が昏くなってくる。

 おそらく、否、確かに今――自分は、父に見限られたのだ。

「王位など、僕にはとても務まりません! 父上、どうかお考え直しください」

「心式なくば、朋角もなし。落伍者に王位を得る資格はない。しかし、ああ。よもや、秋が……このような」

「父上、僕はいやです。将来国を背負うなど、ぼくなんかには――」

 父の失望の溜息。兄の狼狽する声。耳に届くすべての音が、秋霖の心の温度を奪っていく。

 昏い視界の端、兄のそばで揺れる六出の白い尾が見えた。楽し気に左右に揺れている。それが、ひどく癇に障った。

(こんなものが……こんなものが、私の行く末を左右するのか)

 胸の内が、氷の如く冷えていく。

(こんな、獣が)

 秋霖、十四の頃。

 このとき初めて、彼は一角狼というものに憎しみを覚えたのである。


 身体も弱く、争いごとを好まない優しい兄、春霖は、王位を欲してなどいなかった。

「秋は絶対に良い王になるよ。頭もいいし、武術もすごい。身体だって頑丈だ。僕は……だれかの上に立って命令するのとか、苦手だし。できれば、六出とのんびりすごしていたいな」

 机上演習で兄を完膚なきまでに打ちのめした日、そんな告白を受けたことがある。その言葉には、妬みや嫉みは微塵もない。王家に生まれた者であるという自覚のない、無責任な本音である。

 兄の王位への興味のなさを周囲も感じ取り、弟である秋霖に、自然と期待は集まっていった。文武に長け、豪胆を備えた優秀な弟。彼を第一王位継承者とする派閥は力を強め、また父王でさえ、軟弱な兄に見切りをつけて、弟への期待を強めていた。秋霖自身でさえ、将来は自分が国を背負い、か弱い兄を守り、六合のために力と尽くそうと、未来へ希望を抱いてさえいた。

 それがこの日、一気に瓦解したのである。

 心式が使えない。たった、それだけのことで。


 試しの儀のあと、秋霖は自室に引き籠った。掛け軸を裂き、書物を破き、筆はすべてへし折った。勉学のために費やした時間が憎らしくなり、書架や机を引き倒した。すべてが、無駄だった。たったひとつの才の前では、どんな努力も掃いて捨てるほどのものでしかなかったのだ。

 刀を握る手が震える。壁を斬りつけてやろうと、怒りに任せて振り上げたときだった。

「秋……」

 か細い声に、名を呼ばれた。振り返れば、ふすまを薄く開いた隙間から、兄が恐る恐るこちらを覗いていた。

「……なんですか、春兄」

「は、入ってもいいかな?」

 散らかる床をちらりと見ながら、春霖がそう問うてくる。刀を収めて頷き返すと、春霖は掛け軸の残骸を避けながら、弟のそばへと歩み寄った。

「秋、なんてことを……部屋が、」

「部屋はどうでもいいでしょう」

 ぴしゃりと言葉を返すと、春霖はびくりとして口を噤んだ。障子越しの淡い斜陽が、兄の頬に差している。赤い。けれどもその赤さは、おそらく夕日のせいではない。

「また熱が上がっているのでは? 早くおやすみになられてはどうですか」

「うん……じつは、おなかもちょっと痛くて……でも、秋のことが心配で」

「……心配?」

 兄が弟の手を取る。触れた兄の掌は、やはり熱い。

「春兄、そのお心遣いだけで、私はじゅうぶん――」

「あのね、僕、もっとわかりやすいように心式を教えてあげるから」

 握り返そうとしていた指が、固まった。

「だいじょうぶ、できるよ。秋は僕なんかよりもずっと優秀なんだから。できないはずないんだ」

「春兄……やめてください」

「ほら、目を閉じて。集中して。血の流れに似た、見えざる力の存在が――」

「春兄。私には、その見えざる力がわからないのです。私に……心式の才はない」

「そ、そんなことない! 練習すれば、きっと、」

「私はもう十四。たいていの術者は、十を迎える頃には心式の才に目覚めます。私に才がないのは、もう明らかでしょう」

「でも。でも、僕、困るよ――僕が、王を継ぐなんて。ねえ、秋……僕なんかに、王が務まると思う? ちゃんと、できると思う?」

 子犬のような目で、縋るように兄が見つめてくる。その瞬間、氷のように冷えた胸の内が、完全に凍り付いた。

(……ふざけるなよ)

 猛烈に腹が立った。憎らしくさえ思えた。心配しているなどと言いながら、結局は自分が逃げるための口実に、弟を使おうとしているだけではないか。ましてや、今まさに挫折の直中にいる相手に甘えるなど――

 春霖の胸を突き飛ばし、距離をとる。しりもちをついた兄が、戸惑いながら立ち上がった。

「し、秋?」

「春兄は、残酷だ」

「ど、どうして? 僕、秋を怒らせるつもりは――」

「出ていってくれ」

「そんな、なんで、」

「出ていけ!」

 一喝し、刀を構えると、春霖は逃げるように部屋を去っていった。陽が落ち、荒れた部屋に夜が満ちる。その中で、秋霖はやり場のない怒りを叫んだのだった。

 ――後日、この夜から兄が高熱と腹痛で寝込んだことを、秋霖は人づてに知る。見舞いには行かなかった。これまでにないほどの屈辱を味わい、矜持を踏みにじられたあの日、秋霖の中で兄に対する何かが切れてしまったのである。


     *


 落伍者の烙印を落とされ、秋霖は周囲の信用をも失った。失意の最中、ひとり、ふたりと人が去り、秋霖を王位にと担ぎ上げていた派閥は、いつの間にか勢いを失くしていく。王家の落伍者――宮中にいれば、そう言わんばかりの冷めた視線が、常に背に付きまとうようであった。

 しかし、残ったものもある。秋霖のこれまでの努力を認める、一部のみぎり一門と武官の支持だ。

「心式が使えないからといって、すべて終わりだなんて思わないでください。六合にいるのは、心式の扱える者だけではありません。多くのものが、心式なくともこの国を形作っております。殿下は――そんな多くの『持たざる者』たちの、希望なのでございますよ」

 この支持者の言葉で、昏かった目の前が、はっと開けたような思いがした。心式が使えなくとも、多くの者がこの地で生活を営み、役割を見つけ、それを全うして生きている。

 たとえ父に見限られたとしても、自分も多くの『持たざる者』たちと同じ。この国を形作る、ちいさなひとかけらであることに変わりはないのだ。

(心式などなくとも、一角狼などに頼らずとも……私は私の、為すべきことを為してみせる)

 こうして秋霖は、王位への梯子を外されるも、軍部での地位を築き上げていくのである。

 ただし、一角狼へ抱いた憎しみと、兄への侮蔑は、胸の深くに残ったままで。


     *


 月日は流れ、秋霖は軍部の長となる。

 そのころ、西の国境を接する大国、バーラエナ帝国との関係は、悪化の一途をたどっていた。兄春霖――今は王位に就いた第二十七代九霄きゅうしょうは、帝国との応酬は常に後手。熒惑平野の西端にある開陽(かいよう)という名の関所付近では、たびたび紛争が起こり、六合側は大きな被害を被っていた。

 秋霖は幾度となく、兄に帝国に毅然とした対応を取り、戦の備えをせよと進言した。しかし穏便に事を収めたい――否、ことなかれ主義の兄王は、首をなかなか縦には振らなかったのだ。人間に比べれば絶対数がはるかに少ない一角狼を、「人の戦で犠牲にするのは可哀そうだ」などと言い、双角隊の配備にも難色を示す有様だ。

 そうやって戦の気配に目を瞑る兄王の目は、いったいどこに向いていたのかといえば―目に入れても痛くないというほどに溺愛していた娘、黎里れいり姫であった。六合そのものよりも、妃と娘とで過ごす小さな箱庭を、気弱な兄王は愛したのである。

 兄春霖に、王の資格はあらず。

 周りも、秋霖自身も、日に日にその想いを強めていった。今まさに西の地で、六合の兵が、民が、命を落としている。時間がない。どうすれば、春霖を速やかに王位から下ろし、秋霖を据えることができるのか。

 国の礎たる天地大綱が秋霖を拒む中、砌一門の一部の支持者が生み出したのが――従針、伏式、そして、王位に近しい者の、暗殺計画である。

 

     *


「おじさま! おじさま、おひさしぶりです!」

 王宮の庭――秋霖が父王に見限られたときと、同じ庭。毬のように跳ねながら、満面の笑みで姪が駆け寄ってくる。伸ばされた両手に答えるように、秋霖はその小さな身体を抱き上げた。羽のように軽く、陽向のように温かな体温。首元に手を回して抱き着いてくる姪からは、母の香油のにおいがした。

「黎里姫、転んでは大変です。足元にお気を付けください」

「おじさま! あのね、わたしね、つぎの夏で、七つになるんだよ。そのときにね、どこかのお山でささめを結びに行くんだって!」

「ああ、御霊結びの儀ですね。お山ではなく、結ノ社ゆいのやしろというところですよ」

 黎里を下ろしながらそう教えてやると、「そうなの?」と言いながら、黎里は可愛らしく小首を傾げる。緩く結った髪の重ねに、碧玉をあしらった豪奢な髪飾りがきらりと光った。幼子には不必要なほどの、高価な装飾品である。

 地面に足を着けた黎里の隣には、若い一角狼が付き添っていた。名は、細。秋霖を拒んだ六出の、娘であるという。

「秋――来てくれたのか」

 娘のあとを追って、父である春霖と、母である小鳥遊たかなしが、秋霖へと歩み寄る。真冬の透明な陽に照らされた兄の顔は、昔よりも血色が良く見える。

 秋霖は臣下の礼をとって跪くと、「兄上、ご健勝にてなによりと存じます」と頭を垂れた。

「やめておくれ、秋。お前がそんなことをする必要はない」

「そうよ、顔を上げて。あなたたち、兄弟でしょう」

 そう言って微笑む小鳥遊は、先代の九霄きゅうしょう王、父付きの人医の娘であった。幼い頃から人医の娘としても、また術者としても優秀であった小鳥遊は、父王に気に入られ、将来の王――すべてが瓦解するあの十四の日までは、秋霖の許嫁とされていた女性である。

 あの頃は、この賢く美しい幼馴染に、淡いなにかを抱いていたような気もする。しかしそれも、もう過去のこと。

義姉上あねうえ。姫君の七つの誕生祭に、御霊結びの儀を執り行うそうですね。まだ先のことですが、私はしばらく開陽から離れられなくなりそうなので、せめて言祝ぎだけでもと思い参りました」

「大変なときに、わざわざありがとうね。ほらあなた、秋にお礼を――あら? 行ってしまったわ」

 小鳥遊の言葉に笑みを返しながら、娘と細に誘われて庭の真ん中に躍り出る兄を視線で追いかけた。春霖が細用の玩具―太い木の棒を遠くへ投げると、黎里を背に乗せた細が、喜んでそれを追いかけていく。

「兄上は、このところずいぶん体調がよろしいようですね。寒さの厳しい季節は、昔はよく腹や関節を痛めたり、熱を出したりしてましたのに」

「娘とのこの穏やかな時が、あのひとの繊細な心をほぐしてくれるのよ。それがきっと、身体にも良い影響を与えてくれるのでしょうね」

 小鳥遊の言う通り、確かにこの庭には、町の喧騒とも、きな臭い国境付近とも隔絶された、柔らかな時が流れている。

(わかっているのか、兄上は)

 十四のあのときから凍った心が、すうと身体の芯を冷やしていく。高い空から降り注ぐ、ほのかに熱をはらむ陽光も、この心を溶かしはしない。

(この甘い時が……誰の上に成り立っていると思う)

 隣の小鳥遊に察せられないよう、静かに拳を握りしめる。

(心式の才がある者は……『持てる者』は、こうして民の上に胡坐をかき、甘美な時を享受してよいとでも?)

 そんなことが、許されていいはずがない。けれども兄は、春霖は。

「そら、投げるぞ。取ってこい、細!」

 その唾棄すべき行為に、ただただ浸るのみなのだ。

 沸き上がる侮蔑に、拳が震えそうになる。懸命に笑みを貼り付けたまま、秋霖は兄の能天気に娘と笑う様を眺めていた。

「それにね、聞いて、秋。実は最近、あのひとのためにとある式を――」

 小鳥遊が、秋霖にそう語りかけたそのときである。

「あっ! こら細、だめだったら!」

 棒を咥えて戻ってきた細が、勢い余って春霖にぶつかってしまい、押し倒してしまったのである。

「かあさま、血! とうさまの手から血がぁ!」

「あら、まあ、たいへん。大丈夫ですか、あなた」

 小鳥遊が言葉をとめ、夫のほうへと歩いて行く。

 その背に一礼し、秋霖は踵を返した。日陰となった縁側に上がり、薄暗い回廊を進んでいく。

 砌の支持者とともに画策した、王、ならびに王位継承者の暗殺の計画。身内を手にかけることに、迷いがないわけではなかった。直接会い、言葉を交わし、国を憂う心が少しでも見られたなら――兄王を支える道を、選んでいたかもしれなかった。

 けれど。

(兄上は、もう……六合を見てなど、いないのだな)

 振り返る。回廊の窓枠が切り取る、あの幸せそうな、家族三人の肖像。それと六合の民とを天秤にかければ――おのずと答えは出る。

 兄王を支えるなど、否。

 断じて、否であった。

(さようなら、兄上。黎里。……小鳥遊)

 『持たざる者』である己が、王家に連なるものとして、国のために為すべきことがあるならば。

 鬼となることも厭わない。

(まずは……熒惑平野。双角隊を投入させ、帝国を急襲させる。特に一角狼に大きな被害が出るだろうが、それでいい。……『縁切り』の土壌は整うだろう)

 雲が翳る。回廊が薄暗くなる。

 冷えた廊下を軋ませながら、秋霖はひとり、その場を去っていったのだった。

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