番外編② わすれないで
「おい、縄が切れたぞ! 気をつけろ!」
身体の自由を奪う縄を、ぶるりと身震いして吹き飛ばす。群がって騒ぎ立てている男らを、彼は黙れといわんばかりに、ぐしゃりと踏みつけてやった。するとまた男たちが、「やりやがったな」などと怒声を上げ、刀や弓矢を振りかざす。
きりがないと、彼は脱兎の如く駆け出した。いくらやめてほしいと思念を飛ばすも、彼らはそれを受け取ってはくれなかったのだ。受け取れる者が――否、そもそも誰も、受け取る気がないのであろう。自分を取り巻く男たちからは、殺気ばかりが放たれている。
語りかけるだけ、無駄なことだ。
背や尻になにかが突き刺さる鋭い痛みを感じながら、彼はそう悟ったのだった。
男たちをなんとか振り切り、彼は痛む身体を引きずりながら、木々の狭間に逃げ込んだ。じりじりと照り付けるような真夏の陽が、葉の隙間から降り注ぐ。それなのに、彼は寒気を覚えていた。斬られ、刺され、血を多く失ったのだ。男らからは逃れたのに、忍び寄る死の気配に追いつかれようとしている。
彼は戸惑っていた。二本脚は、変わった――と。
二本脚は、天敵ではなかった。彼らは長らく、自分たちと共生してきた、温厚で賢いいきものであるはずだった。
それがどうして、急に集団で牙をむくようになったのだろうか。
重い足取りは、遅々として進まない。街道からからまだそれほど遠くない森の中だというのに、彼はとうとう、頽れてしまった。
生まれ育った群れを抜け、ひとり立ちの旅に出たとろであったのに。どこかの群れの最上位に打ち勝つか、同じ一匹狼と出会い、つがいとなるか。もしくは―自分にとって特別な、ひとりの二本脚を見つけるか。そのどれも、果たせなかった。
自分は、ここで終わる。なにを残すこともなく、ひとり、ここで――
「……お前、どうしたんだ。ひどい怪我じゃないか」
もう目を閉じてしまおうかと思ったそのとき、ひとりの男が駆け寄ってきた。その男が腰に佩いているものに、彼はびくりと身体をこわばらせた。
あれは、先ほど怒れる二本脚の群れが持っていたものと、同じものではないのか。また、あれに斬られるのではないか。
彼は近づこうとする男に向かって、牙をむいた。低い唸り声で威嚇をすると、男が足を止める。しかしすぐ、ふとなにかに気が付いたかのように、男は腰に佩いていたものを、遠くへ放り投げたのである。
「すまん、刀が怖いよな。お前……角狩りにあったんだろう」
カタナ。ツノガリ。ちいさいのらが使う音の並びは、彼にはよくわからない。
「俺はお前を心配している。助けてやりたい。どうか、身体に触れることを許してくれ」
距離を詰めてくる男から、なにやら温かな波――思念を感じた。こちらの恐怖を受け取ったうえで、安心させようとしてくれる、優しい波紋が広がってくる。
先ほどの二本脚の群れには、こんなふうに語りかけてくれる者は、誰もいなかった。この二本脚とは、心が交わせるのだろうか――?
その日から、彼と男の生活が始まった。
「くそ、どうすりゃいいんだ。俺、
うんうん唸りながら、男がなにかを自分にしようとしている。その様子を、彼は静かに観察していた。
「
男の試行錯誤しながらの手当を受けていると、何度も鋭い痛みが走った。それが嫌で、はじめのうちは触らせまいと威嚇をした。噛みつこうとさえした。けれども何度も「ごめんな」と優しく語りかけてくれる男に、彼は次第におとなしくその手を受け入れるようになっていった。
朝も、晩も、男はほとんどそばを離れなかった。たまにいなくなったかと思ったら、猪や鹿を担いで帰ってくる。弱っている彼が食べやすいようにと、肉を潰して団子にし、彼の口の奥へと押し込んでくれた。ほんとうはそんなことをしなくても、彼には自分で肉を噛み切ることくらいはできた。けれども、彼は一度も抵抗しなかった。男の献身が、彼は嬉しかったのだ。
三度目の夜を迎えるころ、彼は男が眠りにつくと、毎夜必ずうなされていることに気が付いた。苦しそうに胸を掻き毟り、毎回同じ音を呟くのだ。ノカゼ、イヌイ――と。息を切らしながら目を覚まし、夜空を呆けたように眺めたあと、再び横になるのである。
しかし、彼は気が付いていた。男は一度目が覚めると、結局横になるだけで、朝方まで起きているのだ。眠れないのだろう。身じろぐ衣擦れの音や、深い溜息が、夜の静寂を乱していた。
この二本脚は、どこか怪我をしている。いまだ傷は乾かずに、血を流し続けているにちがいない――
次第に彼は、男のことが心配になった。優しいけれども、どこかが脆い。幾日もそばで過ごすうちに、痛む傷を抱えたまま眠れぬ夜を過ごす男を、自分も助けてやりたいと思うようになっていった。
けれども、彼の想いは叶うことはなかった。
男は親切で優しかったが、彼に心の深い部分を開いてはくれなかったのだ。そこに、男がすでに特別と決めたものがいる。男のそばに姿はないけれど、すでに彼の知らない
「だいぶ治ってきたかな。これでもう、大丈夫だろ」
ある日の朝、男は彼の鼻梁を撫でながらそう言った。
男の言う通り、彼の傷はほとんど癒えていた。新たな血がめぐり、体力は戻った。縫い合わせた傷口はよく乾き、多少引き攣れるも、たいして痛むこともない。
むせ返る草いきれの中、煩いほどに蝉が鳴く。夏の陽が落とす、ひりつくような木洩れ日のもとで、彼は身体がすんと冷えるような、もの悲しさを覚えていた。
ああ、これでこの二本脚とは、お別れなのだな――
彼はそう悟ると、男の手をひと舐めした。ありがとう、世話になった――そう、伝わればいいと願いながら。
男の驚いたような顔に背を向けて、彼は森の深みへと走り出した。
男と別れてから、彼は今までと同じように、つがいとなるべき一匹狼を探した。だいぶ良くなったとはいえ、まだ傷口は閉じ切らない。群れの縄張りには踏み込まないよう気を付けながら、男と過ごした森を抜け、涼やかな
――そうして彼は、ある一角狼を見つけたのだ。
彼女は、降り積もったばかりの雪のような、白く美しい毛並みをしていた。銀に光る川面に口づけて喉を潤している。下流から見上げる彼女のその姿は、真夏の日に溶けてしまいそうに輝いていて、彼は一目で心を奪われた。
ゆっくりと、刺激しないように近づいていく。相手も彼に気が付いたようだが、彼のにおいを嗅ぐように鼻を高く上げただけで、逃げ出したりはしなかった。彼女も一匹狼に違いない。そう胸を弾ませ、彼は川縁に佇む彼女のそばへと歩み寄る。彼女が彼を待つように、腰を下ろして尾を振った。彼は嬉しかった。彼女もこちらに興味があるのだ。
彼が勇み足になり、川辺の細かな小石を踏み越えたときだった。
「……どうしたの、細?」
思わず足をとめた。彼女の後ろから、薄汚れた二本脚の幼子が、ひょこりと顔を出したのだ。
驚き、彼は近づくことをためらった。しかし目の前の彼女はなにを気にすることもなく、幼子を安心させるように、口元をぺろりと舐めてやっていた。その親子のような、姉妹のような仕草に、彼はすぐに警戒を解く。この幼子は、先日の男と同じだ。
自分たちと、心を交わせるいきものだ。
「……けがを、したの?」
そう問いながら、幼子が彼に歩み寄る。男と会ったときと同じように、こちらを心配するような、柔らかな意思の波紋を感じた。
「いたそう……でも、……手当、してある……?」
幼子が恐る恐る伸ばした手を、彼は受け入れてみることにした。小さな手が、傷のひとつにそっと触れる。白雪の彼女も、その傷口のにおいを何度も鼻をひくつかせて嗅いでいた。
「う――、」
急に声を震わせ、幼子が彼に抱き着いた。次第に声を上げて泣き出して、涙と鼻水で彼の灰褐色の毛並みを汚す。幼子が発する波紋は嵐のように激しく、様々な感情が絡み合っていた。
強い孤独と恐怖。絶望。その奥に生まれた――わずかながらの、希望の光。
「おねがいだ。おまえも、細も……この手当をしてくれたひとのにおいを、ずっとずっと、おぼえていて」
泣きじゃくった幼子が、顔を真っ赤にしながらくしゃりと笑う。
「一角狼と人間が、どうしてかけんかするようになってしまったのに……この手当をしたひとは、変わらずに、なかよくしようとしてるみたいだから。きっと、やさしいひとなんだと思うから――だから、」
ああ、この幼子の切実な感情が。じかに流れ込んでくる。
「だから、わすれないで」
おぼえているとも。そんな思いを込め、彼は幼子の頬を舐めてやった。すると続いて彼女も幼子をあやすように舐め、そのあとに、彼の傷を労わるように舐めてくれた。
愛おしく思い、彼女の顔に擦り寄ってみる。鼻を突き合わせ、彼女の鼻梁に軽く歯を当て甘噛みをすると、彼女もそれを返してくれた。
心は決まった。
彼はつがいを、そして――守るべき娘を得たのだ。
その夜、彼は彼女の塒にともに入り、娘を挟んで眠ることにした。娘は嬉しそうに彼らの尾を引き寄せて、頬擦りしながらこう言った。
「ねえ、これからいっしょにいるなら、名前を決めなくちゃ」
「なんて呼ぼうかなあ」と、娘はかわいらしく小首を傾げる。ナマエとはなんだろう。わからないが、娘の嬉しそうな雰囲気につられ、彼も楽しくなってきてしまい、自然と尾を振っていた。
「わあ、くすぐったいよ!」
娘がきゃらきゃら笑いながら、彼の背にのぼってくる。そうしてしばらくじゃれたあと、「そうだ!」と言って、彼の頭まで這い上がった。
「新しい家族だから、新。新って呼ぼうかな」
シン。
そう呼びながら、娘は彼の頭に頬擦りをした。
娘がそう呼んでくれることに、彼は喜びを覚えた。
今ここに在る自分が、ナマエを呼んでくれる誰かと、強く繋がれる気がするのだ。
「おやすみ、新。これから、よろしくね――」
背を降り、彼女の懐に潜り込んだ娘が、次第に寝息をたてはじめる。
つがいに寄り添い、娘の寝息に耳を傾けながら、彼は満ち足りた気分で目を閉じた。そして、まどろみながらこう思うのだ。
いつかもし、またあの男に会えたなら。
このナマエとやらを、呼んでくれたらいいのに――と。
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