第7話『人狼・ストーカー』

「それじゃあ、ミナホの姐さん。そろそろ枕も飽きたし、本題の方話してくださいよ。そのストーカー、どういうやつなんすか?」


 葵はできるだけ真剣な表情を作って、ミナホの胸元から視線を彼女の目に合わせた。


「私は正直、異端技術に詳しくないから、どういう物を持ってるかはわからないんだけど、なんていうか……すごく人間離れしてたわ」


 笑われるかもしれないけど、と最後にこぼしたミナホに、葵は紳士的に微笑んでみせた。


「笑わないっすよ。ここはヤクザがロケットパンチしだすような街ですよ。なにがあったって不思議じゃない」


 長年生きてきて、葵はこの街で「そんなことありえない」と言うのがどれほど無意味か、骨身に染みて知っている。

 だから、ミナホのこれからする話も、真面目に聞けたのだ。



  ■



 その日、ミナホは明け方に退勤をした。

 最後の客を気持ちよくしてやり、それなりに満足感を持ってボーイや同僚の風俗嬢達と軽い話をした後、私服に着替えて店を出る。

 いつもと変わらない日常だったが、その日、非日常が割り込んで来たのだ。


『ワォォォォォォォッン!』


 それはまるで、狼の遠吠えだったという。

 残飯狙いの野良犬が喧嘩で負けて、悔しさのあまり吠えているのだろうというのが、初めてそれを聞いたミナホの感想だった。だいぶその鳴き声が近かったので、出くわさないように気をつけて帰ろう。


 そう決めて、ハイヒールで地面を鳴らした時、自分の視線の先に、大きな人影が見えた。全身の筋肉がコブのように肥大化した、全身が銀色の体毛に覆われた生物。

 人と狼が合作して作ったと言われてやっと納得できるそれは、どう見ても人狼だった。


「へ……?」


 ミナホは、一瞬自分が何を見ているのかわからなかった。

 知らぬ間に、客から薬でも使われたのかと疑うのが関の山。その人狼が、一歩ミナホに向かって踏み出してきたところで、やっとその光景が幻覚でない事を悟った。


「み……なほ…ぢゃぁぁッ、ん……」


 その人狼の、おおよそ日本語を話すのに向いていないだろう口からは、たどたどしくも彼女の名前が飛び出してきた。


「な、なによ……なんなのよッ!!」


 冗談でしょ? と、内心でつぶやいて、ハイヒールを履いていることも忘れ、その場から駆け出した。


「だっ、誰かッ」


 助けを呼ぶが、人は追い詰められるといつもの道でさえまともに走れなくなる。その化物を撒いてから帰ろうという、頭の冷静な部分が判断したことも確かだが、彼女は歓楽街をとにかくでたらめに走り、背後に狼の気配がする度、止まりそうになる足をなんとか引っ張って、とある路地裏に飛び込んだ。


 そこは計画性とはかけ離れた街の構造から生まれた、一種のスイートスポットであり、もはや誰の土地であるかも定かではない袋小路。その片隅に置かれたポリバケツに身を屈めて隠し、人狼をやりすごせたことを祈り、指を組んだ。


「なん、なんなの、あれ……!」


 震える唇で、なんとかそれだけ呟く。だが、それに返答してくれる存在は誰もいない。

 そしてそれは、人狼を撒いたことを意味していた。


「……逃げ切れたのかしら」


 周囲を見渡すが、遠くから楽しそうな声や、車がアスファルトでタイヤを傷つける音、クラクションなどが聞こえてくるだけで、人狼と思わしき気配は一切なかった。


 ホッ。と、ため息をついて、ミナホは持っていたハンドバックから煙草を取り出して、火を点けて空を見上げる。


 ミナホは、火を点けてすぐだった新品同然の煙草を、コンクリートに落としてしまった。


 ビルの屋上から、人狼がジッと、こちらを見ていたから。


「ひ……ッ!」


 息を呑み、すぐにでもその場から逃げ出したい気持ちに駆られたが、足は駆け出してくれない。ビルの屋上を渡る人狼の機動力を、無意識に悟ってしまったのだ。

 殺される、食われる、内臓をぶちまけ、血を撒き散らし、醜くなって死ぬ。


 そんな想像が一瞬で頭を埋め尽くしたが、しかし予想外に、人狼はただ一枚の手紙をミナホの元に落として、その場から跳び去っていった。



  ■


「そして、人狼が落としていった手紙ってのが、これなわけ。あれからたまに、人狼が後をつけまわしてくるの。おかげで自分の部屋にしばらく帰ってないわ」


 と、ミナホはベッドの端に放置されていた手紙をちらりと見て、深いため息を吐いた。


「吸います?」


 胸ポケットから煙草を取り出した葵は、一本ケースから引き抜いて渡してやると、ミナホが咥えた煙草に火を点けた。


「悪いわね。ほんと、葵くんは気が利く」


「マメな男なんで」


「ちょっ、ちょっと」


 そんな、和気あいあいとした雰囲気の二人とはまるで反対の険しい顔をした環奈が、葵の肩を掴んで振り向かせた。


「どした? あ。お前も吸う?」


「吸うわけ無いでしょ。そうじゃなくて、今の話、信じたの」


「あぁ。嘘言ってどうすんだよ」


「それは、そうだけど……」


 環奈にも、嘘を吐くメリットがないことくらいはわかる。だが、世の中にはメリットがなくても嘘を吐く人種がいることを知っている程度には、彼女も大人だった。


「お嬢さん、もしかして昼の世界の子?」


 ミナホに言われ、環奈は少し迷った。だが、葵やミナホの話を聞いて、自分だけ話さないというのは何か彼女の心に引っかかるものがあったらしく、無言で頷いた。


異端技術ブラック・アートなんてもの、それじゃあ信じられなくても仕方ないけど、夜の世界じゃ常識なの」


「お前が信じる必要はないけど、本当だと仮定くらいはしとけよな」


「ほ、本当だとしたら、そんなのとどうやって対峙するのよ。ビルを跳ぶ人狼でしょ? あなたがそんなのに、勝てると思えない」


 葵は人差し指を振り、リズムに合わせて舌打ちをした。


「だから、何度も言ってるだろ。俺は太刀川葵。この街で何年も生きてきた、用心棒バウンサーだってな。信用できなきゃ、盾くらいに思えばいい。――ミナホの姐さん、この依頼、受けさせてもらうぜ」


 そう言うと、ミナホの顔が、パァっと明るくなった。どうやら、彼女にとっては葵が頼りになる存在のようで、環奈は首を傾げた。常識的に考えて、葵が化物に勝つ術などないからだ。

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青と藍・月と兎 七沢楓 @7se_kaede

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