第6話『坊やの由来』

 葵が重たそうな、高級感に溢れる赤い扉を開くと、すぐに宝くじ売り場のようなカウンターが目の前にあった。


 周囲はピンクのライトで薄らぼんやりとした明るさに照らされており、これからいやらしいことをしますよ、と言外に語っているようだった。葵は慣れているのか、あっさりとカウンターに肘をつき、中の黒服に「どーも」とにこやかに挨拶をした。


 環奈は少し覚悟をして、葵の後ろに控えた。


「やぁー、葵くん。今日はどうしたの」


 ちらりと、黒服が後ろの環奈を見た。


「部屋貸せって? 金取るよ」


「違いますッ!」


 と、環奈が顔をほんのり赤くして怒鳴った。

 葵はそれがおかしかったのか、笑いながら「営業だよ。こいつは今護衛中の依頼人」と訂正をする。


「つうか、なに? 女連れてきたら、金渡すだけで部屋貸してくれんすか?」


「葵くんなら特別にね。普通はさせないさ」


「そりゃどーも」


 なんだか変な信頼をされているな、と、葵だけでなく環奈も思った。


「でも、それならちょうどよかったよ。葵くんに頼みたいことがあったんだ」

「仕事か?」


 たっぷり頷き、黒服は先程までのふざけた話をしていた時とは違う、真剣な表情を作る。ちゃんとした依頼なのだろう。葵も、彼に半分だけ向けていた体を、すべて向けて話を聞く姿勢を作った。


「そう。実は、ミナホちゃんにストーカーがついててね……」


「はぁ、ミナホの姐さんに。べっぴんさんだから、わからないでもないですけど。警察には?」


「言ってないよ。言っても、どうにもならないことがわかったからね」


「……異端技術ブラック・アートか」


 黒服は頷き、頭を掻いて、深いため息を吐いた。


「そう。相手は異端技術ブラック・アート持ち。どこで手に入れたんだか。……まあ、詳しい話は、ミナホちゃんに聞いてよ。五号室にいるから」


「了解。行くぞ、環奈」


 と、葵は店の奥へ進んでいく。環奈は少し慌てて、その後を追った。カラオケボックスのように、いくつも扉がある廊下。それだけなら、環奈も妙なプレッシャーを感じなくても済んだ。


 周囲からは男女の喘ぎ声が入り混じり、水の匂いがしてくるのだ。

 普通の女子高生には、少し刺激の強い空間。周囲の空気が、お前はここにいるべきではないと語りかけて来るような感覚。少し身を小さくしながら、葵の後をついていく。


 そして葵は、そんな気持ちなど一切わからないと簡単にわかるほど、堂々とした動作で、五と書かれた扉をノックする。


「ミナホの姐さん。どもっす。俺、葵です」


 扉の中から「あぁ、葵くんッ。入って、入って」と、明るい声がした。

 ドアを開けると、そこはまるで、ホテルの一室。大きな丸いベッドが一つ、中央に鎮座していること以外は、そうホテルと変わらない。


 そして、そのベッドの縁に、一人の女性が座っていた。長い黒髪を腰まで伸ばした、バスローブ姿の女性。


「久しぶり、葵くん。店長が呼んでくれたの?」


 女性は、やわらかな笑みを浮かべて、葵の胸元にしなだれかかる。それを優しく受け止め、葵は「まあ、そんなとこ。ミナホの姐さん、元気そうっすね」と、愛しい娘に向けるように優しい声を出す。


「あれ? こっちの子は、もしかして、葵くんの彼女とか」


「いえ。依頼人の、藤峰環奈です」


 環奈は丁寧に頭を下げて、ミナホと呼ばれる女性を見た。さすが、ストーカーに狙われているだけはあり、その容姿はとても恵まれている。

 女性であり、その見た目に自信を持っている環奈をしても「なんだか包み込まれたくなる」と、自然に思ってしまう人間だった。


「あ、そっか。ごめんね、別のお仕事中なのに。どうぞ、座って」


 と、ミナホは先程座っていたベッドへ二人を招いた。ここに座るのか、と環奈は少し思ったが、葵が黙って座ったので、環奈もその隣に腰を下ろす。

 葵を挟むように座った三人。ミナホは、ポツポツと振り始めた雨みたいに、ゆっくり喋り始める。


「ストーカーって話は、聞いた?」


「ええ、まあ」


「店の客みたいなのよね。ほら、これ」


 と、ベッドボードに置かれていた、高そうなハンドバッグから、ミナホは一枚の紙を取り出して、葵に渡す。

 開いて読むと、そこにはミナホとしたのであろうプレイの内容が書いてあり、気持ちよかったなどの感想も添えられ、最後に『君はこんなところで働くべき女性じゃない』で〆られていた。


「うわぁ」


 引いたような声を出し、汚いものでも掴まされたように、葵はその手紙をミナホに返した。


「いるんだよなぁ。風俗で気持ちよくしてもらった後に、説教くれるオヤジってよお」


「なんでそうなるのか、ちょっとわかんないよね」


 ミナホは真剣に不思議そうな顔で、首を傾げていた。

 こっそり、環奈もそうしている。彼女にとっては、今この場にあるすべてが不思議だろう。


「葵くんなら、同じ男だからわかるんじゃない?」


「わっかんねえーっすよ。俺は生まれた時からこういう世界にいたんだし」


「……生まれた時から?」


 思わず、環奈は口を挟んでしまった。自分自身、葵に「私の正体に触れるな」と言っているのに、彼の事が気になってしまった事を、少し品のない行為だと思い、自らを恥じるように目を閉じて「ごめんなさい、忘れて」と頭を下げた。


「いや、別にいいけど。隠してねえし。俺、捨て子なんだよ。裏風俗の風俗嬢キャストに拾われてから、ずっと夜の街で生きてきたんだ」


 裏風俗、というのは文字通り、非合法の風俗である。

 表ではできないことまで金さえ払えばなんでもできるという場所であり、今いるエンジェル・タッチとは比べ物にならないほど高額の金を払わなくてはならない場所。


「だから、風俗嬢の間では有名なんだよ」


 と、今度はミナホが口を挟んできた。


「坊や、っていうのは、風俗嬢の世話係してた時からの名前だったよね?」


 まるで胸元を見せつけるように、葵にすり寄るミナホ。葵は、その胸元をしっかりと見ながら頷く。


「あぁ。つか、裏風俗時代は名前なんてなかったからな。今でも、坊やの方が本名って感じする」


「名前が、ないって……」


 名前が無い人間なんているのか、と驚いている様子の環奈を見て、葵はかなり表に近いところで育ったのだろうと推測を立てた。ほぼ、確信に近いが。


「そりゃそうだろ? 出生届なんて出したら、俺は存在することになるからな。そんなガキを裏風俗に置いといたら、さすがに捕まるって」


 手首をくっつけ、手錠のジェスチャーを取る葵。明るく語っているが、環奈にはどうしてそんな顔ができるのか、さっぱりわからなかった。


「じゃ、じゃあ……太刀川葵、っていう名前は」


「買ったんだよ。中坊の頃に、戸籍とか保険証を。そのくらいの年齢になると、風俗嬢に手を出しかねないってことで、店から追い出されるんだよ。だから裏風俗だと、捨て子を拾って使いっぱにするって話、結構あるぜ。別に俺だけじゃあない」


「なんだか、とっても、その……」


 何かを言おうとしたが、環奈の唇に葵の人差し指が添えられたことで、彼女の頭から言葉が吹っ飛んでしまった。


「俺を憐れむなよ。そりゃあ、高校から初めて学校に行けるようになったが、俺は俺で、この人生を楽しんでんだ。普通の生活は、できるやつがすればいい。俺にとっては、これが普通だしな」


 と言って、葵はまた、子供のような笑顔を見せた。

 環奈の記憶の中で、そんな笑みをする人間は、純粋な笑みをする人間は一人もいない。


 どうしてこの男にはそんな顔ができるのだろうと、環奈は不思議に思った。

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