翠の嘘

木兎 みるく

翠の嘘


――どうしてお前はあいつの目をして生まれてきた……!

――お前が彼女と似ても似つかなかったなら! 生かしておくことなど……!


 公爵の呪詛を、シャワーでひとつひとつ洗い流してゆく。常ならば入浴は手短にすませるが、公爵が会いに来た夜だけは別。


――お前の体がこうでさえなかったら、私の子だと信じることもできただろうに……!


 紺色の髪から細く白い首、うすい胸、公爵がしつこく触れていった腰から下は、あしゆびまであますことなくに入念に。

 深くため息をついて水を止める。体をふるわせて水をはらい浴室から出ると、追い払われていた侍女たちが戻ってきていた。

「急いで。疲れたから、早く寝たいの」

「かしこまりました。孔雀さま」

 主――孔雀のいらだちを察して、侍女たちはだまって仕事を進める。ひとりは床に散らばったドレスの残骸を片付け、ふたりは主の体にやわらかなタオルをあてて水気を拭きとってゆく。

 しばらくして体が乾くと、孔雀はわらと絹とでしつらえられた寝床に入って丸くなった。孔雀の眠りをさまたげぬよう灯りがしぼられる。侍女たちは片付けをすませると、それぞれのベッドに入って眠りについた。


 侍女たちが仕える主は人ではない。上半身は人、下半身は鳥の姿をした、異形。

 紺碧の髪、亡き公爵夫人に生きうつしの夜の瞳、白磁のように白く儚い上半身は美しい。しかし丸い腰は髪と同じ色の羽毛におおわれ、体を支えているのは、醜く筋張り、四本に別れたあしゆび。そしてなにより目を引くのは、臀部から扇のように広がった、鮮やかなエメラルドの尾羽。

 公爵は妻の忘れ形見を殺すことができず、離れの小さな塔に閉じ込め、塔の周りをヒイラギの迷路で囲った。以来、三人の侍女が、子どもの世話をしている。

「この孔雀の化物を育てろ。妻の……娘、として。決して口外するな」

との命を、忠実に守り続けて。



 次の朝。侍女たちよりも早く目を覚ました孔雀は、静かに寝床から起き出し、そっと窓を開けた。

 明るい朝日と緩やかな風にあたり、孔雀は気持ちよさに目を細めた。

 敷地内の森から、鳥のさえずりが聞こえてくる。昨晩から引きずった暗い気持ちをはらそうと、孔雀もそれに合わせ歌い始めた。

 孔雀の歌は、幼い頃に飼っていた金糸雀のさえずりをまねたもの。鳥の鳴き声そのままだと侍女たちは気味悪がる、孔雀はこれを歌だと思っていたし、好いていた。

 求愛の歌。聞かせる相手もいないひとりぼっちの金糸雀が、それでも美しく鳴いた歌。

 遠くの山を眺めながら歌っていた孔雀がふと視線を落とすと、ヒイラギの迷路の入り口に、人がいるのに気がついた。白いローブ姿のその人は、なにかを探すようにあたりを見回し……こちらを、見上げた。

(私に気がついた……!)

 慌てて身を隠す。呼吸を落ち着けおそるおそる再び下をのぞくと、先ほどの人はヒイラギの迷路に入り、こちらに向かおうとしている――。

「ねえ、起きて! 大変。こっちに来る!」

 孔雀は慌てて、侍女のひとり、アンに飛びついた。ただならぬ様子に、アンはすぐに目を覚ます。

「知らない人が、こっちに来る!」

 アンはベッドを飛び出し、寝間着姿をすばやくコートで隠すと、階段をかけ降りて行った。

 遅れて起き出したふたり、ドゥとトロワは窓にかけ寄り、下の迷路をのぞき込む。

「サギさ……白の賢者さまだわ」

「ここに近づいちゃいけないって、聞いていないのかしら」

 ふたりの後ろから、孔雀もそっと下をのぞいた。白の賢者と呼ばれた人は早足でこちらを目指しているが、行き止まりにゆき当たっては戻るのをくり返している。その間に、アンがその人を見つける。なん言か交わしたのち、アンはその人を迷路の入り口に案内し、本邸の方に帰らせた。

 安心するとともに力が抜け、孔雀は床にへたりこんだ。

「あの方は誰?」

「白の賢者さまです。最近公爵さまが頼りにしている占い師ですよ」

「そう……」

(あの人、気づいてくれたんだ……私の歌が、鳥の鳴き声ではないと……)

 白の賢者の視線を思い出し、孔雀は顔がほてるのを感じた。誰に向けたはずでもなかった求愛の歌は、誰とも知らない人に届いてしまったのだった。



 それから白の賢者は、たびたび塔の近くに現れるようになった。そのたびアンが近づかぬよう進言したが、言うことを聞かない。

 孔雀は毎朝白の賢者の姿を探すようになり――やがてはっきりと自覚した。恋に落ちたと。

「あの人に手紙を渡して。詳しい話は書かないから。お願い。ただ、あなたに恋をしている者がいます、って書くだけ」

「いけません。公爵さまに知られたら大変なことになります」

「知られないようにうまくやって。聞いてくれないなら――窓から身を投げて死ぬ」

 それでもアンは決して首を縦に振らなかったが、トロワは孔雀の想いに打たれ、そっと承諾してくれた。次に白の賢者が現れた朝、孔雀はトロワを起こし、手紙を預けた。中には愛の告白と、悩んだすえに入れた翠の尾羽が入っている。トロワが手紙を届ける間、孔雀は窓を開き、求愛の歌をさえずった。

 ――なんとトロワは、返事を持ち帰ってきた。

 手紙を開く孔雀の手は、緊張でふるえた。


 翠の君

  お手紙大変嬉しく拝見致しました。

  お名前を伺えなかったため、頂いた美しい羽根にちなみ、

  翠の君、とお呼びしてもよろしいでしょうか?

  私もあなたと同じく、あの日以来あなたをお慕いしております。

  深い事情があり、お会いすることはできないとお伺いしましたが、

  それでも構いません。また参ります。どうぞまた歌を聞かせて下さい。

  あなたの歌が、あの日から私の胸を離れないのです。


 読み終えた孔雀は泣き声をこらえることができず、アンとトロワを起こしてしまう。事態を知ったアンがトロワの頬を叩き、激しくなじり始めたが、孔雀の耳には入らなかった。ただ幸せに胸がつまり、手紙を繰り返し繰り返し読み続けた。



翠の君

 あなたの歌声をまた聴くことができる。

 それを楽しみに、私がどんなに浮かれて日々を過ごしてきたか、

 あなたに知られたらきっと笑われてしまうでしょう。

 公爵に、何かいいことがあったのか。と尋ねられたくらいです。

 もちろんあなたのことは秘密にしております。

 星が公爵の幸運を告げているのですとお話しておきました。

 次の満月の晩にもお伺いできたらと思っております。

 ご都合がよろしければ、どうかその晩も歌ってください。

 お約束してくださいましたら、私はその日まで幸せな気持ちで

 生きてゆくことができます。


翠の君

 あなたの歌声はやはり素晴らしい。汚れた私の心の澱みを、

 洗い流してくださいます。けれど同時にあなたへの愛があふれ、

 涙が出そうです。お会いできないことを恨めしく思ってしまう。

 先日のお手紙大変嬉しく拝見致しました。

 けれど、あなたがご自分を「醜い」などと貶めていらっしゃったので、

 とても悲しくなりました。

 「あなたが思い浮かべる美しい私として愛されていたい」

 とおっしゃいますが、私は美しい虚像を作り出して

 あなたを愛するのではなく、本物のあなたを愛したい。

 私には判ります。あなたは孤独な人。

 それなのに、凜と背を伸ばして歌っていらっしゃる。

 私はあなたの、孤独の中にありながら心を汚すことなく、

 清らかであり続ける気丈さに恋を致しました。私にはできなかったことです。

 どうか私の愛をお疑いにならないで下さい。

 誰に詐欺師と罵られようとも構いませんが、あなたにだけは、

 信じて頂きたいのです。



 結局、白の賢者が塔を訪れるたび、侍女のひとりが手紙を仲介するのが習慣となった。手紙を読む間、孔雀はひとりになりがたるので、侍女たちは下の衣装部屋へとさがり、片付けをして時間をつぶす。

 その日衣装部屋には、前の晩に公爵の使いが持ち込んだ大きな箱が置かれていた。箱を開けると、色とりどりのドレスや宝石があふれだす。三人は歓声をあげると、ひとつひとつ丁寧にそれらを片付けていった。

「サギさまの様子、どうでした?」

「相変わらず孔雀さまにお熱。お姿も知らないのにね……、あと、ローブがまた新しくなってたわよ。白いのは相変わらずだけど、今度のは首元に宝石がたっぷり」

「公爵さま、どれだけお貢ぎなのかしら」

 白の賢者と名乗る占い師がこの白にふらりと現れたのは、半年ほど前。体調の優れぬ日が続く公爵に、「あなたは妖獣の呪いに蝕まれている」などと囁き、とりいった。それ以来、公爵は白の賢者に心酔し、今では髪を切る日や食事の内容まで助言を求めているうえに、賢者の悪口を言った者はたちまちクビにしてしまう。城の者たちはこの占い師を、賢者とは呼ばない。その白いローブとうさんくささ、細い体型から、陰では“サギさま”と呼んでいた。

「それにしても」

 ため息。片付けても片付けても、ドレスの洪水が止まらない。

「たいそうなご寵愛ですこと。さすがに多すぎるわ」

「恐れてらっしゃるのね、妖獣の呪い」

「ばかばかしい」

 ドレスの一枚を眼前に広げる。異国の海のような青が波打つ。

「公爵さまは、サギさまや孔雀さまじゃなくてお医者さまに貢ぐべきよ」

 ドレスに引っかかっていたペンダントが一つ、すべり落ちた。慌てて伸ばしたアンの手を、するりとすり抜けて。



翠の君

 月夜に響くあなたの歌声は、たとえようもなく美しい。

 今もこの胸の中で響き続け、私に勇気を与えてくれます。

 公爵さまの具合がよくないので、近く住み込みで仕えさせていただけることに

 なりそうです。そうなれば常にあなたを近くに感じていられる。

 楽しみでなりません。

 正式に決まりましたらまたお手紙を差し上げます。

 それから、こんなことをあなたにお伝えするのがあなたのためになるのか、

 それともご不快にさせるだけなのか判らないのですが、公爵さまの弟君が

 最近この塔の様子を気にしているようです。

 塔の秘密が気になって仕方がないといった様子です。

 彼があなたに災いをもたらさないことを祈ります。


 この手紙に、孔雀は浮き足立ち、侍女三人は震え上がった。孔雀は知らない。公爵の弟は十五年前、公爵夫人をさらった巨鳥の首を取り、夫人を救い出した英雄。もともと血の気が多い上、妻子を狼男に殺された経験を持ち、公爵以上に、異形への憎しみを持っている。

 アンはすぐに執事長に弟君のことを伝えた。執事長は素早く対応し、塔のまわりを執事たちが見回るように手配してくれた。

 人に見られる危険があっては、白の賢者が塔に近づけない。賢者の足が遠のいてしまい、孔雀は嘆いた。そして、姿は見られなくとも、なんとか手紙だけでも交わしたいと願った。

「ね、賢者さまはそろそろ城内に住み始めたんじゃない? 手紙を届けて」

「できません。公爵さまはますます体調が悪く、賢者さまをお離しになりません。白の賢者さまに近づけばすぐに、公爵さまに知られます」

 白の賢者が塔に近づけないのは、侍女たちにとっては都合のいいことではあった。しかし公爵の体調が回復を見せぬのは恐ろしい。

 公爵には子どもがいない。もしも彼がこのまま亡くなれば爵位を、この城を継ぐのは誰か。そうなれば孔雀がどうなるか――考えたくもないことだった。



 その朝はよく晴れた、気持ちの良い朝だった。いつものように、侍女たちは孔雀にドレスを着せる。孔雀を美しく着飾らせ輝くように整えるのは、三人の毎朝の楽しみでもあった。頼りない胸元はきらめく朝露のようなダイヤモンドが飾る。春の草原のようなドレープは醜い下半身を隠す。ドレスの尾羽にかかる部分にはあらかじめアンの手で穴が開けてあり、形が崩れることもない。最後にドゥが丁寧に全体のシルエットを整えると、美しい羽飾りをつけた姫君ができあがる。

「孔雀さまにはやはり緑がお似合いですね」

「……どうせ公爵が元気になったら引き裂かれるでしょう……ねえ、白の賢者さまには、相変わらず近づけないの?」

「公爵さまはこのところますます伏せっておいでです。ですがきっともう少しの辛抱ですよ」

 トロワが自分に言い聞かせるように答えたときだった。塔の下で、高い笛の音が響いた。執事長が侍女を呼ぶ合図。

 アンが素早く階下へ降りていく。ドゥは嫌な予感がして、それを拒否するかのようにカーテンをさっと閉めた。部屋に沈黙が降りる。やがて戻ってきたアンの顔は、真っ青だった。

「ふたりとも、ちょっと衣装部屋にきて。孔雀さまはこちらで少々お待ち下さい。申し訳ございません」

「いいけど……どうしたの?」

「すぐに戻ります」

 とまどう孔雀を残し、三人は衣装部屋に降りる。扉を閉めると、アンは重い口を開いた。

「公爵さまが……お亡くなりになったって」

 ドゥは息をのみ、トロワはめまいを起こしてへたり込んだ。

「執事長は、公爵さまがここに愛人を囲っていると思ってた。国に帰すように、って言われたわ」

「孔雀さまに、ほかに行くところなんて……」

「爵位を継ぐのは弟君よ……どっちにしろ、ここにいたら殺されてしまう……」

「でもどうするの! ここを離れてお世話を続けるなんて、私たちにはとても!」

 沈黙が降りる。かすかに布を裂くような音を聞いたような気がして、トロワは扉を振り返ったが、すぐにアンに視線を戻した。

「なんとか孔雀さまを、弟君から隠し通せないかしら?」

「無理よ。孔雀さまを連れ出す方がまだ現実的」

「私はここを離れるなんて嫌」

 扉が開き、三人はぎくりと固まった。おそるおそる振り返ると、ドレスを引き裂き、異形の裸をさらした孔雀が、静かに立っていた。

「隠し事をするには、声が大きかったみたいよ。扉ごしでもちゃんと聞こえた」

「孔雀さま、あの」

「私にどこに行けって言うの」

 孔雀の言葉に、三人は何も応えられない。孔雀は穏やかに続けた。

「この姿をさらして化け物として惨めに暮らすぐらいなら、外になんて出なくていい。私……窓から飛び降りる。最後ぐらい、本物の鳥みたいに空を舞って、」

「もっといい案があります。私と一緒に行きましょう。翠の君」

 投げかけられた声に、孔雀は悲鳴をあげて飛び退いた。踊り場に、大きな枝切り鋏を持った白の賢者が立っていた。その髪は汗に乱れ、顔もローブも泥とヒイラギの葉でひどく汚れている。

「あなたに惨めな思いなんてさせません。化け物などではなく……神として皆に尊ばせてみせます」

 賢者は枝切りばさみを捨て、階段をのぼる。孔雀は慌てて部屋に逃げ込むと、ぼろぼろと涙を流しながら必死にドレスをかき集め、どうにかして体を隠そうとした。しかし静かに歩み寄った白の賢者は、有無を言わさぬ力強さでそれら全てをはぎ取ってしまう。

「やっとお会いできましたね、翠の君……お名前をお伺いしても?」

「…………孔雀、と呼ばれています……」

 孔雀の返事に、白の賢者はとまどった様子を見せた。孔雀は力なく笑みを浮かべ、尾羽を大きく広げて見せる。鮮やかな翠が、孔雀の背中に広がる。

「この通りの、姿ですので」

「では、私がお名前をお付けしても? ……ネフリティス。今日からそう、名乗って下さい」

 白の賢者は柔らかく微笑むと、ひざまずき、孔雀の手を取った。今度は孔雀がとまどう番だった。

「私の伴侶として、私と一緒に行きましょう」

「私……神さまなんかじゃありません」

「私が嘘をつくのです。ふたりで生きるために。そんな難しいことじゃありません。それに、本当のことなんて、私とあなたの愛だけで充分」

 孔雀の手に、口づけが落とされる。

「申し遅れました。私はライアーと申します。私と来てください。ネフリティス」

 孔雀はしばらく迷っていたが――ついにその手を強く握り返した。

「はい――私は、ネフリティス。あなたと行きます。ライアー」

 ライアーはネフリティスを力強く抱きしめ、かと思うとすぐに体を離す。そして、あふれる想いを伝えるかのように深く口付けた。長い口付けに溶けてしまいそうで、ネフリティスは必死にライアーにしがみついた。



 侍女たちがあっけにとられている間に、二人は出て行った。アンが我に返って追いかけたときにはもう、二人の姿はどこにもなく、ただただ穴の開いたヒイラギの迷路に、エメラルドの羽根が残されているばかり。

その後彼らがどうなったのか、侍女たちには知るよしもない。

 しかし数年後、彼女たちは隣国の宗教改革の話を耳にすることとなる。

 新たに最高神に定められたのは、上半身は人、下半身は孔雀の姿をした、美しい女神であるという話であった――

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翠の嘘 木兎 みるく @wmilk

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