君がつなぐ聖夜

屈折水晶

君がつなぐ聖夜






 それは十五年くらい前の話。

 家に、サンタクロースがやってきたんだ。




 赤い生地に、純白の縁取り。さらに誇張するように伸ばされたひげが、存在感を放つ。

 おかしなおじさんだな、と当時の僕は思ったけれど。

 その姿は、まるで神様みたいに不思議な力に満ちていた。

「サンタさんは、不思議なひとだ」

 同時に優しくもあったな。

 肩に背負ったプレゼント袋から、大きな大きな包みが取り出される。それは枕元の靴下に放り込まれて、一瞬後には窓から冷たい北風が吹き込んでくる。

 “メリー・クリスマス”

 そう言い残して、サンタクロースはソリに乗って去っていったんだっけ。


 それが、クリスマスの記憶。

 僕がおぼえている、唯一の幸福な記憶だ。




 翌日にプレゼントを開けてみたら、中身は縫いぐるみのクマだった。

 つぶらな瞳。

 温かそうな手触り。

 あの日以来、クマは僕のトモダチになった。

 寝るときも一緒で、嬉しいときも悲しいときも、ずっと側にいた。

 かけがえのない存在。

 僕を救った存在。

 幼い僕にとって唯一の救いで、大人になってからも時々思い出した。


 そのクマは、今、どこにいるんだろう。


 僕はもう純粋な少年ではない。

 記憶が幻想だと悟ったとき、きっと僕の中では、何かが消失した。

 成長していく間に心が削られて、壊されて、平らになってしまった。


 それが、この世界で生きることだと解っている。

 それでも、この現実に希望を捨てられずにいる。


 共に時間を過ごしたはずのクマは、いつの間に僕の側からかいなくなって。

 あったはずの記憶は、他の誰も知らないただの作り物で。

 幸福は、遠い夢でしかなくなったんだ。






     ***






 死んでやる。

 死んでやる。

 死んでやる。

 僕は縄を天井に括りつけた。


 外灯が青白く差し込んで暗い部屋が僅かに照らされる。邪魔だ。

 街ではきっと幸福な緑と赤で溢れかえっているだろう。

 浮かれたカップル達が頼んでもいないのに愛の言葉を囁き合って、明るいテーブルにはチキンやケーキを囲んだ家族が団欒して、寒いなかぬくもりを分かちあいながら腹を、欲求を、愛情を飽和するまで充たしているんだろう。

 この僕をよそにして。

 暗い六畳間の、引きこもりの僕を無視して。


 だけど僕は壊してやるんだ。

 だから僕は死んでやるんだ。


 神様の平等な愛からも外れ、見放され、逸脱してしまった僕にはクリスマスだなんて幸福は苦痛だ。

 そんなものは限られた人でないと楽しめないじゃないか。

 お金もなく、仕事もなく、信用や友人や身寄りすらなくなった社会の負け犬には、望んだって届かない高尚すぎる代物。ぜいたくも同然。

 おめでとう。貧困かつ人権が存在しないに等しい僕に、生きる価値は微塵もない。


「ああくそ……もう、こんな事は考えたくないのに」


 やっと縄に手をかける。

 道具は百均の白いロープと、同じく百均のプラスチック椅子。

 僕の自殺クリスマスの価値は、税込みで二百十六円だ。

 そして両足を乗せた。

 今さら魔が差して悔やんでも遅いだろう。

 後3秒もすれば、ひょいとジャンプした瞬間に気道が絞殺される。

 すなわち窒息死。

 誰にも看取られないまま、孤独のまま、明日か数日後のニュースにすら載らないくらい寂しい死に方をする。

 これでいい。

 僕は、静かに目を閉じる。

 ――幸福なクリスマス。

 ――赤色のサンタ。

 ――クマさん。

 遠い走馬灯。

 震えながら、ようやく最後の決心をして。


 ガタッ。






     ***






 それはいつの出来事だろうか。

 私は、サンタクロースに出会ったんだ。




「貴女はここに隠れていなさい」


 母はそう言って二度と戻っては来なかった。

 町は焼け焦げ、匂いが激しい。叫び声が聞こえる。

 天使が侵略してきた。

 五つの季節のうち最後の審判の日。星が終わるその日。国中の兵士が応戦したが、天の決断には逆らえない。

『地上すべての生命の根絶』

 それが宇宙による、神と呼ばれる法則による決定だった。

 科学技術は病床のように蔓延し、

 大地が毒に犯されて呼吸を止め、

 遍く霊長の文明を災厄が奪った。

 そしてじきに、裁定者たる“天使”が舞い降りる。 

 それがこの星の末路だった。

 この世界に、私達の居場所はなくなった。


 それなのに私は、何かを諦めきれなかった。

 それだから私は、言いつけを守らずに飛び出した。


 地下室を出ると誰もいなかった。

 照明は消されている。

 近くに気配は一つもない。

 私は、慎重に慎重に出口の扉を開ける。天使が襲って来たらどうしよう。殺されるのかな。死にたくないや――そんな考えは、下を向いた途端に消え失せた。


 死体。

 母の、死体。


「おかあ、さん」


 膝が崩れた。

 目の奥から溢れた。

 どうして。

 どうして。

 どうして。

 なんて――馬鹿な。

 何かに蹂躙された痕跡。

 槍で突かれた傷口を見れば、それが天使の仕業だという事は疑いようもない。

 その現実を受け入れられなかった。

 さっきまで側にいたのに。ずっと幸せに暮らしたのに。

 こんなにも一瞬の出来事で、母は殺されてしまったのか?


「私は……」


 どうする事も、できなかった。

 外には雪が嗤うようにギラギラと網膜を焼く。

 身体から力が抜けて、立ち上がることさえ叶わない。

 日々の安寧の象徴だったはずの、母だったものを前にしては……自分に命があることが、信じられない。

 だから、泣くぐらいでしか償えなかった。


 手のひらの中で温度が徐々に失われる。

 心の中で、すべてが流れて喪失していく。

 川のように滝のように。

 白色が赤黒く染め上がって濡れる。

 抱えた母の亡骸は、やがて血だらけの、冷たいだけの塊になる。


「私は……どうしたらいいの」


 どこかで希望を信じていた。

 幸福が続く。

 世界が続く。

 馬鹿げた夢にずっと微睡んでいた。

 だけどこれが現実だ。

 余りにも呆気ない死の現実。

 あと数日か、数時間か、いや数分のうちに、この世界は滅び去る。

 私はどうすればいいんだろう?

 どうやって終わればいいんだろう?

 思考が、視界が、霞んでめちゃくちゃになる。

 暗闇。絶望。見えるものは、それだけ。

 だから……近くで物音がした時だって、振り返ろうとはしなかった。






     ***






 何千年も。

 何万年も。

 何億年も。

 待っていた。


 僕たちは、

 私たちは、

 救いと幸福を求めてやまなかった。


 それが生きる理由だから。

 生きていることの証明だから。

 だから失くなってしまえば、死にゆくだけだ。


 それが――終わり?


 誰かが悲しむ。

 誰かが絶望する。

 誰かが不幸になる。

 この宇宙において、格差は縮まらない。死も滅びも免れない。

 ――幸福になりたい。

 ――救われたい。

 ――生きたい。

 その願望は。

 その渇望は。

 一体誰が背負おう?

 誰が届けられるだろう?


 それは、

 それは、

 それは…………


 “君”しかいない。


 暗闇から君は目覚めた。

 何もない場所から君は生まれた。

 君は生まれた瞬間に、誰かの声を聞いた。

 叫び。

 祈り。

 それを叶えるのが、君の使命となった。

 いつしか君の存在は、世界中の誰もに望まれた。

 そして、


 白銀の天空を駆ける。

 走る。

 急ぐ。

 雷のように。

 風のように。

 その純白な心を伴って、君は聖夜に現れる。


 だから、

 何千年も。

 何万年も。

 何億年も。

 彼は救われる日を待ち続けた。

 彼女は救える日を待ち続けた。


「サンタクロースが、私に力を与えたように」

「サンタクロースが、僕にプレゼントをくれたように」


 世界と世界の狭間。

 時間軸と空間の境界線を越えて。

 たったひとりの、夢と願いを纏った存在――その旅路の果てに。


 もう一度、

 救いが繋がれる日が来るならば―――






     ***






「君の願いを、ひとつだけかなえよう」


 光と共に現れたきみは手を差し伸べる。

 私は、






     ***






 ……苦しい。

 ……重い。

 ……さむい。

 ……ここは、どこだ?

 ……なんだ、地獄か。

 ……しょうがないなあ。

 ……死んじゃったよ。

 ……あっけないな。

 ……さてどうしようか。

 ……これからの事を考えよう。

 ……あ、脳がないや。

 ……どうしたものか。

 ……まあいいだろう。

 ……よっこらしょっと、




「あれれ?」


 窓が開いていた。寒い。

 粉みたいな雪が入り込んで柔らかく皮膚に当たる。

 僕はベッドの上にいた。

 緑色のパジャマを着ている。手が……小さい。身体は――いや、おかしいぞ。


「な、なんで小さくなってるんだよっ」


 たしか……壁には日めくりカレンダーがあったはず。

 時計の下にあるそれを一瞥する。

 24日――12月――200X年。


「嘘だろ……十五年前だ」


 間違いない。

 これは、記憶の奥底と一致する光景だ。

 なら僕は一体どうなってしまったんだろう?

 思い……出せない。でも確か僕は、こんなに身体が小さくはなかったはずだ。声も、もっと年齢らしく低いものだった。

 なのにこの現在は……。


 ヒュウヒュウと風が吹く。

 どこかで何かが鳴っている。

 ヒュウヒュウ。ビュウビュウ。

 歌。風に乗って歌が聞こえる。


 ジングルベルジングルベル……


 それはますます近づいてくる。

 僕はぼうっと、窓から見える白色の空を眺めている。


 ジングルベルジングルベル……


 そしてふと、現れた赤色の点。

 大きくなる。迫ってくる。

 その先を走る、トナカイが露わになる。


 ジングルベルジングルベル……


 僕は――その名前を思い出した。

 彼女きみの名前を。

 プレゼントの記憶を。






   ***






「私はきみを救うためにやってきたんだ」


 それがサンタクロースの言葉だった。

 赤い服を着た女神様。

 クマの縫いぐるみ――かつてそう思っていた存在が、彼女であり君だった。


「さあ行こう。誰もがきみを、待っているよ」


 微笑んで差し伸べられる手。

 ああ……きっと彼女も、僕と同じだ。

 同じように不幸な目に遭って、何もかもを失って。

 そしてサンタになった。僕を……迎えに来たんだ。




 そうしてソリに乗って空を渡った。

 空からは、世界中を見わたすことができる。

 小さい身体の僕は、サンタの彼女にしがみついている。まるで子供みたいだけれど、僕だって、今は小さな新人サンタだ。

 それにしても。

 初めて――命の温かさを感じる。


「こーら、仕事はまだ残ってますよ」


 ……うん、ちょっとくっつきすぎたかな。

 サンタといっても前方に座っているのはお姉さんなのだ。


「報われない子供にんげんたちに、プレゼントを届けましょ」


 彼女は明るく言った。だから僕も、もう前世なんてとっくに忘れてる。

 僕はサンタ。

 君もサンタ。

 あそこにいる人だって、サンタになる。

 可能性いつだって無数で無限。

 サンタは僕たちの希望のあいことばだ。




 やがていくつもの世界を渡り、あまねく宇宙をかけめぐった。

 まだ道は遠い。

 積まれたプレゼントを、まだ全部配りきってはいない。

 だけどサンタ達は使命を果たし続けるのだった。

 世界の幸福を、喜びを、すくい続けるのだった。




 僕とお姉さんのサンタは、トナカイに引かれて夜を繋ぐ。

 そして金色のベルを鳴らして、高らかに宣言するのだ。

 君はもう寂しくないよ、と。


「メリー・クリスマス!」

「メリー・クリスマス!」


 ほらね。


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