四章 僕の話
一般的な蝉の鳴き声の表現はミンミンであろうとは思うのだが、実際に聞いてみるとジウジウと聞こえ、肉を焼いている音によく似ている。
そんなことを考えながら、額に噴き出た汗をぬぐう。右腕に着けた安物の腕時計のベルトは汗を吸って気持ちが悪く、途中からはポケットにしまって歩いた。
今日の日付は八月七日。夏休みに入って初めての上月さんとの小説講座の日だ。
ほどなく歩いていくと、この市の市立図書館が見えてくる。普段からにぎわっている様子はないが、夏休みということもあって、自由研究に勤しんでいる子供やその保護者らしき人もちらほらと見受けられた。
いくつかのドアを抜け、冷えた空気によって汗も乾くころ、約束していた自習スペースへとたどり着いた。席はまばらに埋まっていたが、壁に隣接した机を見れば、すぐに黄色のランニングウェアを着た上月さんの姿を見つけることが出来た。
近づいてくる僕に気付いたのか、声を落とした上月さんが話しかけてくる。
「早いね。約束まではまだ時間あるけど」
「あまり来る場所じゃないので……早めに出てきました。上月さんこそ早いですね」
「今日は休みだったんだけどね。いつもの時間に起きちゃったから。走るついでに」
「ああ、そうだったんですね」
荷物を下ろして彼女の隣の席に座ると、かすかに柑橘系の臭いが漂ってきた。
「じゃ、始めようか」
そういうや否や、彼女は椅子を滑らせ、肩が触れ合いそうな距離にまで接近してくる。
ほんの少し、体が強張った。
「もっとそっち寄ってよ。衝立あるから詰めなきゃ見られないじゃん」
「え、ああ、はい」
この自習スペースに置いてある机には、横からの視線を遮るための衝立がある。隣の席から覗き込む様なことは出来ないため、同じテキストを共有したいのならば、こうして椅子を持ち寄り、詰めて座るしかないのだ。
いそいそと椅子を動かすが、僕が一瞬動揺したことで余計な不安を与えてしまったのか、上月さんが怪訝そうな顔で聞いてくる。
「え……もしかして、臭う? さっきスプレー吹いたんだけど」
二の腕を顔に持っていき、自分の臭いを確かめる上月さん。
「汗の臭いはしませんよ。むしろいい匂いがします」
「え……ああ……そう……なら、まぁ……」
何故か一瞬上を見上げた上月さんは、本当に小さく咳ばらいをすると「そんなことより小説だよ小説」と、机を軽くたたいた。
淡いシトラスの香りと共に、この夏初めての小説講座が始まった。
「よし、じゃあ今日はここまで。次会う時までに2章は書き終えてくるように」
「はい……」
「元気ないね」
「はい……」
言い返す気力なんて、ある筈もなかった。
夏休み初めての小説指導は、苛烈の一言だった。
放課後よりまとまった時間が取れることもあって、普段言わない細かいところまで指摘してくれたのだろう。指摘されたことを書き留めるメモ用紙はほぼ真っ黒になっていた。
「……大丈夫?」
自習スペースを出て横を歩く上月さんが心配そうに覗き込んでくる。よほどひどい顔をしていたに違いない。
「大丈夫です」と返してみたものの、あまりうまく笑うことは出来なかった。
僕の状態を見て、上月さんは少し考える素振りをすると、僕を図書館の一角へと案内した。歴史関係の棚に来たところで立ち止まる。
「この図書館のカード持ってる?」
「いえ」
「じゃあ私のカードで借りようか。これと……」
彼女は最上段の分厚い本を手に取ると、横にいる僕に待たせてくる。題名は「中世の暮らし」や「サーカスの歴史」など、読み物というより資料の側面が強いようなものだった。
背筋に悪寒が走り、恐る恐る質問する。
「え、あの、これもしかして次までに読んでおけとか……」
久々に、上月さんの本気であきれた顔を見た気がした。
軽い嘲笑と共に「そんなわけないでしょ」と返される。
「背景づくりにあったほうがいいってだけ。間を埋めるのにそういうネタがあったほうが親しみがあっていい作品……っていうか、いい主人公に見えるの。そういう本、読んだことない?」
「ああ、なるほど。分かりました」
「もちろん、全部読み込んで細部まで忠実に再現して描写しろってわけじゃないからね? 前も言ったと思うけど……」
「『調べたことをすべて使わなければいけないわけではない』……ですよね」
満足げに頷く上月さんにカードを渡される。
本の小口(本の側面、閉じられた背と反対側の面の事。ちなみに上面は天、下面は地と呼ばれる)に挟まれたカードには、大きく貸出券と書かれており、表面についた細かな擦り傷が、今までここで酷使されてきたことを物語っていた。
二人で図書館を出るころには、日はすっかり傾いてしまっていた。頭上ではカラスが鳴き、並べられた街路樹が等間隔の影を歩道に落としている。
図書館は僕たちの家の中間地点にあるため、帰る方向は完全に逆だ。
別れ際、上月さんから釘を刺される。
「期限は一週間だから、それまでに返しといてね」
「はい。ありがとうございます」
「まぁまた次会った時……ええと、次の休みいつだったっけ」
「確か来週、上月さんの大会があって、その次の日だったような」
「ああ、そうそう。よく覚えてたね」
「応援に行こうと思ってたので」
「……なんで?」
それは、上月さんと出会ってから始めて見る表情だった。
ライティング・マイハート 鐘鳴タカカズ @JACCS
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ライティング・マイハートの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます