三章 私の話
指を突っ込んで掻き回す。初めての経験ではないけれど、この感触には未だに慣れることがない。
頭からシャワーを浴びながら、満足がいくまでそれを繰り返す。
恥ずかしいとか、そういうことはもう考えられない。汚れていることは事実だがそれを恥だと思う心は既に欠落していた。
喉に指を突っ込んで、ほとんど空っぽの胃を逆流させる。
意味があるかと言われれば、あんまりない。でもこれをやると多少スッキリするから、やっぱり意味はあるのだ。
「うぇぇ……」
お風呂場だと、小さくても嗚咽は響く。ぼろ布みたいな毛色をした負け犬の声が私の喉から漏れる。息をつくと、ちょうど雲間を抜けたらしい朝の日差しがお風呂場に降り注いだ。
窓の外からは通学中の子供の笑い声、雀の鳴き声に混じって井戸端会議しているおばさんたちのキンキン声、いってらっしゃいあなたと新婚夫婦の会話。
バチバチと視界が弾けて、足元から化物の感触が一気に這い上がってくる。
ああ、駄目だ。これは駄目だ。
シャワーの勢いを強くして、耳をふさいでうずくまる。固く閉じた瞼には止めどなくお湯が流れていく。
外の音に気をとられたのが不味かった。子供の声を聞いてしまったのも不味かった。そしてなにより人の幸せを気取ってしまったのが一番いけなかった。
浅い呼吸を繰り返して、なんとか普通を取り戻そうとする。異常が牙を剥いて、私の体を好き勝手にしようと暴れまわる。
おかしい。
普通じゃない。
汚い。
恥ずかしい。
逃げ出したい。
「勝手なこと言うなよ!」
床を叩きつけながら異常から心を取り戻そうとする。つま先から頭のてっぺんまで、全ての血管がミミズみたいにのたうち回って叫び出す。目を瞑っているはずなのに視界は白と黒を何度も行き来して目が回りそうになる。
「選べる立場じゃないんだよ! 分かれよ! いい加減!」
呪詛を吐いて、胃液も一緒に吐き出す。ついでに自分の胸を痣が残りそうなほどに殴り付けて、そうまでしてやっと、異常はおとなしくなった。
ふらついた足を支えながらお風呂場を出る。
荒い呼吸を整えながら着替えると、そのままの足で固定電話まで歩き、学校に休みの電話をかけた。最初こそ緊張したものの、何度も休むほどにそのハードルは低くなっていった。
溶けるようにソファに倒れこむ。異常と戦った後は酷く疲れるのだ。
(スマホ……は、部屋か……)
気怠さと微睡みの海に漬かりながら船を漕いではいるものの、昨晩、体の芯に何度も刻まれた不快感からか、なかなか眠りにつくことは出来なかった。
いつもなら、スマホでニュースでも見て暇つぶしでもするのだが、生憎スマホは自室においてきてしまったままだ。少なくとも換気が終わるまで、あの部屋に入りたくはない。
どこからか漂ってきた紫煙の残り香を消すため、消臭スプレーをリビングに吹きながら、適当にテレビをつける。
朝番組が陽気なエンディング曲を流して、コメンテーターが笑って可笑しな事を言う。スタジオのみんなが笑う。では今日も行ってらっしゃい。次に始まるのはゴシップ多めの情報番組。汚職に、浮気に、お掃除の裏技。スタジオでも実践してみましょう。
ため息と共にテレビを消す。ソファに沈み込んだ体はさっきより重たくなった気がした。時計を見ても、シャワーを浴び終わってから一時間も経っていない。遅い秒針の音だけが、広いリビングを這い回る。
昔、まだスマホも持たせてもらえなかったころ、私はいったい何をして時間をつぶしていたのだろう。
小学校低学年の頃は、まだ外で遊んでいた気がする。確か、近くの公園の遊具で転んで怪我をしたのだ。お父さんが血相を変えて飛びついてきたのを覚えている。
高学年になってからは専ら読書に励んでいた。お母さんの影響もあったが、何より面白いと思える本に出合えたことが大きい。その時の本も押入れを探せばまだ残っているはずだ。
中学生になってからは……
「……あれ、まだあるのかな」
ふと思い立って、キッチンへと向かう。床にある取っ手を掴み、埃っぽい床下収納を何年振りかに開ける。
誰にも見つかりたくなくて、隠した場所がここだった。自分の部屋に鍵はついていなかったし、常に持ち歩くのは危険が大きすぎた為だ。
お母さんが、もう使えないと言っていたホットプレート。その鉄板とヒーターの隙間に、一冊の大学ノートが挟まっていた。どうやら見つかってはいなかったらしい。
深呼吸をして、ノートを開く。
タイトル『未定』。
主人公である「私」は一人の大学生だ。幼いころから本を愛し、執筆を始めたのは小学生のころから。大学生になっても講義の傍らに小説を書き続け、成人を迎えたところで出版社から声がかかる。若くして抜群の才能を持っていた彼女は、デビュー作の発売と共に一気に知名度を上げた。少なくとも時の人、と呼ばれる程度には。
そのペースは他の作家に比べて大幅に遅かったものの、彼女はその後も作品を書き続けた。三十路に差し掛かる頃には愛する伴侶も得て、子宝にも恵まれた。
しかし、幸せは長く続かなかった。
才能の枯渇だ。
一日中考えて、頭の中を総ざらいして、気分転換を挟んで、それでようやく一行書くことができる。そんな日々が彼女の精神を蝕んでいく。
つらい時期ではあったが、夫や娘の支えもあって、何とか本を出すことができた主人公。それはデビュー作からの世界観を引き継いだ、シリーズ三冊目の本となった。
ノートの終盤に差し掛かったところで、後ろのページが空白であることに気付く。文庫本にすれば八割ほどは書けているだろうが、この話の続きが書かれることはない。私はそれを知っている。
お母さんに小説の書き方を教えてもらったのは、中学に入ってすぐのころだった。長く読んでいたシリーズものが終わってしまって、どうしてもその終わり方に納得がいかなくて、続きを書きたくなったのがきっかけ。
プロットの書き方から、展開の緩急、アイデアの出し方まで、およそ必要なことはすべて母から教わった。そうして書かれた作品は、誰の目に触れるわけでもなかったが、私の人生で初めて書いた物語となった。
お母さんのように、作家になりたいと思っていたわけではなかった。ただ好きで、書きたいと思っていて、それを形に出来ることがうれしくて、小さい頃の私は物語を書き続けていた。
ノートを閉じた手が震える。
この本は、私が書いたお母さんの自伝だ。作家として大きな節目を迎える年に、プレゼントしてあげようと、お父さんから話を聞きながらコツコツと書き続けたもの。
「ま、渡せなかったけどね……」
独り言をつぶやいてノートを再びしまう。
読んでいる間にいつのまにか時間がたっていたらしい。近くの小学校から昼休みのチャイムが漏れ聞こえてきた。
冷蔵庫の中を物色してろくな食べ物がないことを確認すると、パジャマの上にパーカーだけ羽織って外へと出る。
帰ったら少し手の込んだご飯を作って、昼寝でもしよう。起きたら竹原の小説も添削して、金曜に向けてアドバイスをまとめておこう。
そんなことを考えながら歩いていると、つい寄り道をしてしまっていた。
薄汚れた河川敷。あの日、竹原と初めて会話をして、小説を教える約束をした場所。あれから時間は経ってしまったが、あの時の想いだけは今でも変わらず胸にある。
ふと、思い出してしまう。竹原が私のカバンを間違えて持って帰ってしまった日の事を。中に入っていた「お守り」の事を知られたくなくて、急いで竹原を追いかけた。
出迎えてきた母親も、家から出てきた彼も、傍目に見ればおかしいところはなかった。ただ、あの時見えた彼の首筋には、くっきりと赤い手形が浮かび上がっていた。
誰かにやられたのか、自分で絞めたのか、ならばなぜそんな事になっているのか、無神経な質問が飛び出しかけて、慌てて口を閉じた。
誰にだって、踏み込まれたくない事情というものはある。
少しだけ自嘲して、スーパーへの道へと踵を返す。
空は快晴。夏の足音がすぐそこまで迫ってきていた。
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