三章 僕の話 その二

「今、暇?」

「え、はい」


 月曜日の昼休み。早めにお弁当を食べ終わっていた僕に上月さんが突然声をかけてきた。

 資料室以外で話すのは久しぶりで、まして上月さんの方から話しかけてくれるのは珍しく、つい声が上ずる。後ろ手に手を組んで、座ったままの僕を見下ろす彼女の目は鋭く、自分が知らず知らずのうちに何かしてしまったのかと身構えてしまう。


「読んでほしい本があってさ、今日は放課後時間ないし、今のうちに渡しとくね」

「あ、はい。ありがとうございます」


 彼女が背中に隠していた本は文芸書であることを加味しても分厚く、持った瞬間にずしりとした重さが感じられた。


「どのくらいで読めそう?」

「この厚さなら……二日でなんとか」


 正直、かなり強がった。

 それを見透かしたかのように、彼女は唇を吊り上げる。


「そう、じゃ金曜までに二冊はいけるね」


 そう言って、背中に隠していたもう一冊の文芸書を僕の手に持たせる。


「……すみません強がりました。金曜までには一冊読めるか怪しいです……」

「だと思った、少しずつでいいから読んでみて。作品の方が早く進みそうならそっち優先してもいいから」

「はい。ありがとうございます」


 小さく頷いて自分の席に戻る上月さんを見送って、借りた本を机の中にしまう。

 もうすっかり僕の演技は見抜かれているようで、これから下手に嘘をつくことは彼女の信頼を損ねる結果にしかならないだろう。


「例のお勉強の話?」


 どうやら隣の席まで聞こえていたらしい。もそもそと小さいお弁当箱をつついていた秦さんが可愛らしく首をかしげている。

 生返事を返しつつ、ふと思い立って尋ねてみた。


「秦さん、僕ってそんなに嘘つくの分かりやすい?」

「何か嘘ついてるの?」

「いや、そういうわけじゃ……」

「じゃあ、なにか嘘ついてみて?」


 少し考えて、呟く。


「僕は……不良です」


「確かに下手だね」と言って秦さんはくしゃっと笑った。



***



「竹原、これ書きなおした方がいいと思う」


 いつも通りの小説指導。どうやら彼女の指導はワンランク上に上がったらしく、内容はより専門的になっていった。今回の文は個人的にはうまく書けていると思っていたのだが、どうやらそれは思い込みだったらしい。


「何度も言うけど、ペース良く書けてるのは良い事なの。より物語に没入できているってことだから、寄り添った書き方ができるようになるしね……でも、竹原はちょっと入り込みすぎてる」


 少し間をおいて、ため息交じりの一言。

「自分と重ねてるの」という彼女の言葉が狭い資料室に響く。




 主人公である見習いピエロは、元々孤児だ。頼れる親類はなく、唯一拾ってもらった先代ピエロにすがることで生きてきた。芸を覚える他に道はなく、見捨てられれば容易に死に絶えることは子供であっても理解できていた。

 だからこそ人一倍に努力し、教えを請い、血のにじむような努力を繰り返してきた。

 しかし、努力と結果が必ずしも釣り合うとは限らない。

 主人公には、才能と呼ばれるものが全くなかった。

 満足に芸も覚えられないうちに先代が急死し、一人で舞台に立たなければならなくなった主人公は、周囲からも見限られ始める。

 理想の中で華麗に跳ぶ自分と、ままならない現実との剥離に苦しめられながら、主人公は自分だけの芸の形を見つけていく。




「……っていう展開だから、苦しみにフォーカスを置くのは良いの。この作品で一番おいしい部分だから。でも、竹原のこれは……読んでて、不快な気分になるの」


 言葉を選ぼうとしたのだろう。眉に皺を寄せる彼女はとても苦しそうに話す。


「もちろん、私はこの話の最後に救いがあるのは知ってる。お客さんとかサーカスのみんなに認められて、大団円になることも分かってる。でも、この不快は多分、そんなことじゃ癒されない」

「苦しみのディテールが細かすぎる……ということですか」

「うん。そこはこの話の一番の魅力だと思うけど、同時に、やりすぎたら致命傷にもなる。大事な部分なの」


「申し訳ないんだけど」と前置いて彼女は話す。


「私も完全にここまでは良いってラインを引けるわけじゃないの。だからかなり曖昧な表現になっちゃうんだけど、少なくとも今のこれは娯楽小説とは言い辛いよ」

「……わかりました」


 ほかにもいくつか実用的なアドバイスをもらって、その日はすぐに解散することになった。

 帰り際、カバンを手にした上月さんに尋ねられる。


「あ、そうだ、あの本どうだった? ほら、月曜に渡した」

「ああ、面白いです。まだ全部は読めていませんけど……なんとなく、僕の書いてるものと似てますね」

「うん。そういう本を選んだからね。なんか得られるものもあるんじゃないかと思って……あ、別に真似してかけってわけじゃないからね?」

「ええ、分かってます。大丈夫です」


 彼女は「あ、そう」とそっけなく返事をすると、そのまま資料室のカギを返しに行ってしまった。 

 一人になると、急に外の騒音が騒がしく感じられてくる。蝉の鳴き声と管楽器の音色が協奏しているのを聞きながら、足早に帰路に就いた。




***




「苦しみのディテールか……」


 日曜日、深夜一時。上月さんに言われたことを反芻しながら、執筆を続ける。

 金曜日の小説講座から三日も経っているというのに、僕はまだ話の続きが書けないでいた。

 うまく書けているつもりだった。緻密に、丁寧に感情を描けたと思った。しかし、それは僕の勘違いだったらしい。

 確かに、主人公になり切ることは出来ていたのだと思う。だが、読み手がどう感じるか、なんてことはこれまで考えていなかった。

 不快にならないように、傷つけすぎないように。

 辞書を片手に、最適な表現を模索する。

 しかし、直せば直すほど、自分と一体化していた主人公が剥離してしまうようで、なかなかうまく進めることが出来ないでいた。

 だんだんと、秒針の音が大きくなってくる。


「なんか……無理だな……これ」


 スランプ、なんて言葉を使えるほど小説を書いたわけではないが、どうにも今の自分では答えにたどり着けないような、そんな確信が心の中に蟠っていた。

 ため息をつきながら背もたれに体を預けると、机に上に置かれていた本が目に着いた。挟んでいた栞をとって読み始めるものの、数ページも行かないうちにまた栞を挟む。


「……今日はやめておこうかな」


 きっと経験値が足りないからなのだろう。没にはしたが、いくつかの案は出ているのだ。上月さんと話せば足りない部分を一緒に考えてくれることだろう。

 携帯を開いて上月さんにその旨をメールすると、急激に眠気が襲ってきた。どのみちこの時間帯に返事を期待するのも難しいだろう。そう考えて布団にもぐりこむ。

 

 結局、僕がそのメールの返事を聞けたのは火曜日だった。

 週明けの月曜日、上月さんは学校を休んでいたからだ。

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