三章 僕の話 その一
揺れる柳の葉音をバックに、蝉のコーラスが鳴り響く。
七月。僕の住んでいる町の気温は、今年初めての真夏日を記録した。
教室の中はまだ冷房が効いていて過ごしやすいが、ひとたび外に出れば滝のような汗が全身を濡らすことになるだろう。
「午後から体育だよ……外出たくないねぇ……」
「そうですね……」
僕の右隣に座る女子生徒。
もともとクラス内でもあまり交流のない僕だから、友達なんて夢のまた夢だと思っていただけに、こうして日常的に話す相手がいるというのは素直に嬉しい。
秦さんは茶道部に所属していて、お茶を
今は昼休み前の最後の休み時間。いつも通りに秦さんと雑談をしていた。彼女は二つ結びのおさげを机に垂らし、机に突っ伏したままくぐもった声で話す。冷たい机から涼を得るために彼女が考え出した会話スタイルだ。
「そういえばさ、竹原君って昧ちゃんと仲いいの?」
「えっ……どうしてですか」
「んーん? なんかそういう話聞いたから」
「ああ……」
そういう噂があることは知っていたが、面と向かって言われたのはこれが初めてだった。
六月の上旬頃、小説指導が終わって資料室から出てきたところを、どうも誰かに見られていたらしいのだ。上月さんもこのことは知っていて、「とりあえず何かを教えてあげてる体で統一しとく。小説のことは内緒で」とメールで釘を刺されている。
不自然にならないように、努めて冷静に答える。
「えっと、実は秘密で上月さんに教わっていることがあって……内容は言えないんですけど」
「へぇー。勉強とか?」
「そう……ですね。そんな感じです」
「おおーなんか良いね。秘密特訓! って感じで」
「そうですか?」
「そうですそうです」
首をよじってこちらを向いた秦さんは、顔の筋肉の支えが無くなっているかのように、くしゃっと笑う。
「なんか丁寧だよね。竹原君は」
「丁寧……?」
「うん。だって同い年の子でそんな風に話してくれる人いないもん」
動揺しながら「ありがとうございます」と返すと「そういうとこだよ」と返される。
それから少しもしないうちに、午前中最後の予鈴と共に立ち回っていた生徒たちがそれぞれの席に戻っていく。
僕は次に始まる授業のノートを準備しながら、ぼんやりと、次の期末テストの勉強もしなければなぁと考えていた。
***
空調のない資料室。僕と上月さんはお互いに首にタオルと保冷剤を巻いて向かい合う。
「うん……書くのも速くなってきたね。プロット決まってればすぐ書けちゃうタイプなのかな」
「はい、書くときに迷うこともなくなってきました」
数あるプロットの中から、僕が選んだのはとあるサーカスでの話だった。
先代のピエロが急死し、表に立たざるを得なくなった未熟なピエロが主人公。
ずっと前に一度だけサーカス公演を見たことがある、というだけの理由で思いついた話だったが、書き始めてみると何故だか親近感がわいて、勢いに乗って書き進めることが出来ていた。
「ん。詰まってるなら後回しにしようかと思ったけど、これなら間に合いそうだね」
「間に合う……ですか?」
「そろそろ目標を決めておこうかと思って」
彼女はそういうと、桜色のケースが付けられたスマートフォンの画面をこちらに向けてくる。
書かれているのは見知った出版社の名前と、期日を表しているらしい日付。そのどれもが半年近く先の物だ。
「新人賞に応募してみよう。ネットで公開して……っていうのも考えたけど、分かりやすい目標があったほうがいいでしょ?」
ごくり、と喉が鳴る。
まだ書き始めて半年も経っていない僕が、そんなものに応募してもいいのだろうか。
「大丈夫。文章はしっかりしてるし、ちゃんとしたストーリーもできてる。並み以上の評価はもらえるよ」
「たぶんね」と明後日の方向に視線を向ける彼女。
「頑張ります……」と呟くことが、僕に出来る最大限の強がりだった。
風を取り入れる為に開けた窓から、サッカー部の掛け声が響いてくる。
「あ、そういえば、夏休みって暇?」
上月さんが思い出したように話し出す。
「特に予定はないです」
「だと思った。私、陸部の大会あるからちょっと忙しいんだよね」
「あ、なるほど」
あと数週間もすれば夏休みだ。彼女が毎日朝早くから練習しているのは知っている。それだけ部活に入れ込んでいる人の時間をわざわざ割いてもらうわけにはいかない。
この小説指導もお互いの同意あってのことだ。僕だけの一方的な思いで彼女を縛り付けたくはなかった。
「えっと、メールで進捗を報告するので……」
「え?」
彼女の手には、いつ取り出したのか、手帳が開かれていた。
「や、会って話した方が絶対にいい。文面考える時間がもったいないし、一人だとサボるから」
「サボ……らないですよ」
「まぁそうかもしれないけど、竹原は本当に分からない部分は隠そうとするから、会って話さないと私が分からないんだよね」
「ええ……」
思わず自分の顔を触る。そんな悪癖が僕にあったのか。
「それに、添削もしなきゃダメでしょ。いちいち内容をメールで送るのは非効率すぎ。添削箇所を返信するのもめんどくさいし。私が空いてる日でどこかに集まろう」
彼女が手帳とにらめっこをしながら話す日付をメモしていく。お互いの家からちょうど同程度の距離に図書館があったので、夏休みの間はそこに集まることになった。
「秋までには完成させて、そこから校正いれて修正して……年内に投稿を目標にしとこうか」
その確認を最後に、僕たちは資料室を出る。思わず周りを見渡すが、誰にも見られてはいないようだった。
「じゃ、また来週」
「はい。ありがとうございました」
定型的な挨拶を交わして、それぞれの帰路につく。
執筆は順調だ。何か突飛な障害でもない限りこのまま書き続けられるだろう。楽観的に考えるのはまだ早いかもしれないが、変に気負うよりはよほどマシだ。
軽い足取りで歩いていると、カバンの中からチャラチャラと金属音がする。それを持っていたことを思い出して、家までの道から外れる。
錠、というものに興味を持ったのはまだ幼稚園の頃だった。
その形状に興味を持ったのか、機能に興味を持ったのかは覚えていない。ただ、母が言うには、日がな一日おもちゃの宝箱を開けたり閉じたりしているだけで幼い頃の僕は満足げだったらしい。
それから十年以上経った今も、僕は未だにこの執着にも似た志向を手放せずにいた。
自宅から少し離れたところにある河川敷。ちょうど橋の下の陰になっている部分に、今の僕の宝箱はあった。光が当たらない隙間に隠しておいたが、どうやらまだ誰にも見つかってはいないらしい。
ほっと胸をなでおろしながら、その中に新しい錠を入れる。箱の重さからしても二、三キロはあるだろう。自分でもよく集めたものだと思う。
もっとも、以前持っていた分に比べれば、若干見劣りはするのだが。
箱をもとの場所に戻すと、橋の下の陰に座り込む。それほど疲れていたわけでは無いが、この姿勢の方があの日の僕に近いのだ。
そのまま目を閉じて、記憶の引き出しをひっくり返す。
上月さんと初めて話したあの日。
ずぶ濡れになって、凍えそうなほど寒かったあの日。
そんな自分に反抗するみたいに、熱くてしょうがなかった心臓の鼓動。
パズルのように散らばった記憶を一つ一つ確かめる。
いったいあの日、僕は何を考えていたのか。
ポケットの中でバイブが鳴る。
時間切れを知らせるそれを手早く切って、隣に置いていたスクールバッグを肩にかける。
今日も、答えは見つからなかった。
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