二章 私の話

 週明けの月曜日。朝練が終わって、教室の自分の席で新刊を読んでいた私はやけに低い声で現実に引き戻された。


「おはようございます」

「……おはよう」


 本を読んでいるときに話しかけられるのはあまり好きじゃない。親しい人にしか言っていないから彼が知らないのは当然だろうけど。


「で、何? 今日は金曜日じゃないけど」


 ワスレナグサの栞を挟んで本を閉じる。

 彼――竹原に小説の書き方を教えているのは、金曜日の放課後だけだ。別にそれ以外では関わらないと決めているわけではないけど、なんとなく資料室以外で話すのには躊躇いがあった。


「これ、返します」


 彼がバッグの中から取り出したのは、私が貸した『春の抵当』。上城優雅のデビュー作。


「え、読んだの?」


 少し驚いて問いかけると、彼は小さく頷いた。


「へぇ……どれくらいで読んだの?」

「……九時間弱です」

「……一気に読んだの?」


 またもや頷きを返す。次にいくつか控えていた疑問を差し置いて、私の口はおかしな質問をした。


「どうだった?」

「……」


 我ながら不明瞭な質問だと思う。何がどう、なのか。やはりこの話題になると私は少し冷静ではなくなってしまう。

 眉に八の字を作っていた竹原は、苦虫をかみつぶしたような表情で立ち尽くしているが、沈黙に耐え切れなくなったように口を開く。


「まだ、言葉に出来ません」

「……そう」


「でも」と彼は続ける。


「とても綺麗な話だと……思いました」

「……そう」


 そう言って、私はぷいと顔を背けてしまう。

 ――自分で質問をしておきながら、この反応はどうなのよ。

 そう思わないでもなかったが、やはり素直に褒められると少し照れくさくて、彼の顔を見ることができなかった。

「ええっと……」と言い訳を考えているうちに、何人かのグループが教室に入ってきてしまう。

 少しどもりながら、早く会話を切り上げようと要点だけ話す。


「えと、わかった。じゃあ、自分の小説の方は?」

「そっちはまだです」

「金曜までにかけそう?」

「多分……」


 煮え切らない返事ではあったが、実際に書くのは彼だ。それに、読書ペースの遅い彼が、たった一晩で一冊を読んできたのだ。そこには何かしらの変化があったと期待してみるべきだろう。


「わかった。じゃあ頑張って」

「はい。本、ありがとうございました」


 私に向かって深々と頭を下げる。彼のつむじを眺めながら、こういうことは教室でやらないように後で取り決めようと決意した。



***



「昧、彼氏でもできたの?」

「え?」


 放課後。部活の休憩中に、横に座ってペットボトルを傾けていた岬が話しかけてくる。


「や、なんかそういう噂を聞いたから」

「あー……うちのクラスの子から聞いたの?」

「ん? いや陸部の女子」

「え?」


 てっきり朝の様子を見られていたことからそんな憶測が広がったと思っていたが、どうやら違うらしい。


「なんか先週の放課後に、男子と一緒に資料室から出てくるの見たんだって」

「なるほど……それは困った」


 私と竹原の密会は、絶対に知られてはならない……というような大仰なものではないが、誤解させたままというのも竹原に悪い。

 岬は信用できる相手だ。何を考えているのか分からないところもあるが、少なくとも誰かを弄って喜ぶような人間ではない。それに、私にだけこっそりこの話をしてくれたのも、彼女なりの配慮あっての事だろう。


「やっぱ違ったんだ」

「うん。えーと……竹原がやりたいことあって、私がちょっとそれに詳しかったから教えてる感じ。金曜の放課後だけね」

「へぇ」

「だからその……」

「ん。それとなく否定しとく」

「ありがと」


「んにゃ」と言って岬は離れていく。

 学校という空間は、常に人の噂が飛び交っている。皆がそういう甘ったるい話が好きなのはしょうがないことだと思っているが、そういった話には尾ひれがつきやすい。出初めに潰しておけばなんてことはないが、又聞きの又聞き、なんて段階になっていったらもう真実なんてどうでもよくなる。


 人は自分の考えたいように考える。私はそれを痛いほどよく知っている。


 持っていたペットボトルが悲鳴を上げてつぶれる。それをゴミ箱に突っ込むと、頭を振って練習へと戻った。



***



「んー……」


 伸びをしながら、まだ明るい空を仰ぐ。夏至に近いこともあって、部活が終わった時間帯でも、まだ街灯は灯っていなかった。

 ぼんやりと空を眺めながら、ゆったりとした速度で歩道の端を歩く。

 なんとなく家に帰るのが億劫で、昨日新刊を買ったばかりの駅前の本屋に寄っていくことにした。


「あ」

「あ」


 お互いに声を出して見つめ合い、同時に口を抑える。

 こちらを見つめて固まっている彼の袖を引っ張って顔を寄せる。


「……何してんの」

「え、本を買いに……」


 そりゃそうだ。本屋なんだから。

 書店には先客がいた。文芸書コーナーで難しい顔をしていた竹原だ。


「あの、上城優雅さんの本を探してて……」


 狭い店内だと彼の身長と黒い学生服は圧迫感があり、そのせいか、文芸書コーナーに他の客はいなかった。


「多分だけど、無いよ」

「え」

「こういう立地の書店って入れ替わり激しいし。新刊しか置いてないから。あの人が最後に本出したの一年以上前だもん」

「……そうなんですね」


 しゅんと肩をすくめる竹原に、少し気になったことを聞いてみる。


「ていうか竹原、部活やってなかったよね? こんな時間まで何してたの?」

「ええと……」


 わかりやすく目を泳がせる彼。

「言いたくないならいいんだけど……」と助け船を出すが、彼はカバンの中に手を突っ込んで何かを取り出した。


「これを……集めてました……」

「……なにこれ」


 彼の手のひらにあったのはいくつかの南京錠。それぞれがわっかの部分でつながっており、少しおかしい言い方だが「キーホルダーホルダー」のような形になっていた。

 それぞれの錠に統一性はなく、大きさも材質も、錆の具合や損傷具合もバラバラだった。ただ一つ共通していることと言えば、そのどれもが激しく歪み、もう二度と鍵を嵌めることは出来ない状態であることだった。


「これ、何に使うの?」

「なににも使いません。ただ、集めてます」

「……ふーん」


 おかしな趣味。と心の中で呟く。まぁ彼がどんな趣味で会っても、どうでもいいことだ。彼自身もおかしいことだと思っているのか、耳を赤くしながらカバンへと壊れた南京錠をしまう。

 少し荒くなった呼吸を整えて、私と文芸書の棚を交互に見る竹原。


「えっと……その、上城優雅さんの作品って、他に置いてる場所とかってありますか?」

「んー……多分無いね。続編ももう出ないし。電子書籍か……どうしても紙の本がいいっていうなら、出版社に問い合わせるしかないかも」

「電子書籍……そうですか。ありがとうございます」

「ていうか、読みたいだけなら貸すけど。私あの人の作品全部持ってるし」

「……えっいいんですか!」

「一冊貸したじゃん……逆になんで駄目だと思ったの」


 話しながら、二人で書店を出る。スマホで時間を確認すると、まだ六時を少し回ったところだった。


「時間いいなら、このまま家くる? 結構近いけど」

「えっと……ああすみません。今日は無理です」


 同じようにガラケーで時間を確認し、歯噛みする彼。それを見て自分を顧みる。好きな作家に興味を持ってもらったことで、少し性急になりすぎていたかもしれない。


「いや、いいの。気にしないで。明日学校に持ってくるから」

「ありがとうございます」


 本当に時間がまずいらしく、周りをきょろきょろしだす竹原。引き留めるのも悪かったが、最後に聞きたいことがあった。


「ねぇ竹原。あの人の本、そんなに面白かった?」


 彼は少しの間、目をつぶって考え込む。集中している時に目を閉じるのは癖なのだろう。


「面白かったこともありますが……あんなに夢中に読めた本は、初めてだったんです。読んでいる自分を自覚できないほどに熱中できたのは」

「……そっか」


「引き留めてごめん」と言うと、彼は時間を思いだしたように「失礼します」と言って駆け出していった。

 彼の背中が小さくなって、黒い学生服がゴマくらいのサイズになったところで、私は誰にも聞こえないように話しかけた。


「だってさ。ファンが増えてよかったね。お母さん」

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