二章 僕の話

 まだ六月だというのに、煌々と照り付ける日差しは今にも僕を溶かしてしまいそうだ。温暖化なんて気にしていなかったけど、こうも暑くなるものなのだろうか。

 学校ではまだクーラーは使用禁止らしく、教室のいたるところから「あちぃ……」「死ぬ……」とうめき声が聞こえてくる。さながら野戦病院だ。


「何でこんなに熱いのかねぇ……」


 僕に話しかけてきたのは右隣の席の女の子。机に突っ伏して、短めのおさげと両腕をだらりとぶら下げている。


「温暖化ですよ。温暖化」


 僕も下敷きで顔を扇ぎながら軽口を返した。


「あっ……風ちょうだい……」

「はい」


 顔の辺りを扇いであげると、彼女はとても緩んだ顔で「おほー」と呟いた……きり、動かなくなった。そのまま扇ぎ続けていると、今日最後の予冷が鳴る。教師が教室に入ってきて、集っていた生徒たちも散り始める。


「ありがとぉー……」


 机から顔を上げた彼女は、だるそうにノートを準備し始めた。僕もそれに倣う。

 ふと、視線を感じた。

 見渡すと教卓の前の席、最前列から僕を見ている人がいた。上月さんだ。

 目が合うとすぐに前を向いてしまった。短く切り揃えられた髪がさらさらと軌跡を描く。

 何か話したいことがあったのかもしれないが、もうすでに授業は始まろうとしているし、今日の放課後は小説指導の予定だ。何かあればその時に聞いてくるだろう。

 すぐ横の中庭からは、気の早いセミの独唱が響いて、校舎からは授業開始のチャイムが鳴る。


「はい、じゃあ日直。号令」

「きりーつ……れい」


 お願いしまーす。と、暑さにうだる生徒達の挨拶が教室に響いた。



***



「お願いします」


 少し時は経って夕暮れの放課後。上月さんと二人だけの資料室で、僕は暑さを堪えながらノートを手渡した。無言でノートを受け取った彼女は、いつも通りのポーカーフェイスで読み進めていく。

 彼女も部活から戻ってきたばかりで頬は上気しているが、脇に挟んだ保冷剤と、先ほどからぼりぼりとかみ砕いている氷のおかげか、僕ほど苦しそうにはしていない。僕も首にかけていたタオルで顔をぬぐって、水筒を傾ける。中身はもう残っていなくて、いくつか雫が落ちてきただけだった。なにやらばつが悪く感じて、彼女にばれないようにそっと水筒を戻した。


「うーん……」


 読み終わったらしい彼女が、眉間にしわを寄せてノートを閉じる。


「ど、どうでしたか」

「……うーん」


 反応は芳しくない。それほどまでにひどかったのだろうか。


「竹原って現国の成績よかったりする?」


 口元に手を当てながら、思案顔の彼女は質問する。


「えっと……一年の学期末では百点でした」

「……マジ?」

「ま、マジです」

「……すごいね」


 いまいち彼女の言わんとしてることがわからなかったが、とりあえず「ありがとうございます」と返しておく。

 机を指で叩きながら、一つ一つ言葉を選ぶように彼女は話し始める。


「ええっとね……まず、文法とか文章の作り方に関しては問題ないと思う」

「はい」

「でもね……うん、これ小説じゃないわ。脚本だね」

「……小説ではない……と」


 ガクっと肩と首から力が抜ける。最初から完璧なものが書けるとは思っていなかったが、真正面から言われるとさすがに来るものがあった。

 そんな僕の様子を見てか、慌てたように彼女が付け加える。


「ああ、いや……必ずしも悪いことじゃないよ。初めて小説書くなら、そもそも日本語出来てないってことの方が多いし、まだ全然マシな方だって」


 気を使ってくれているのだろう。しかし、僕は純日本人だ。日本語上手いよ、なんて言われても苦笑いしか出来ない。

 だが、いつまでも気落ちしているわけにもいかない。言われた通りの初心者なのだから、練習、改善、研鑽を続けていくしかない。


「改善は……どういう風にすればいいんですか」

「ん……ちょっと待って」


 彼女は床に置いていたバッグを漁ると、そこから何冊かの本を取り出した。


「これ、読んでみるといいかも」


 目の前に積まれたのは、数冊の文芸書。タイトルはどれも聞いたことがない。


「ざっと読んで、解決するべき問題は二つあると思う」


 腕を組んでピースをする彼女。決して小さくないそのふくらみが強調されて、僕は机の木目に視線を移した。


「一つに、文章が冗長なこと。書くべき事と書かなくても良い事、この区分けを自分の中で持たないと、いくらページあっても足りなくなるよ……で、二つ目。単純にすごくつまらない。正しい文章だけど……正しいだけ。何かの説明書読まされてる気分に……ってねぇ、聞いてる?」

「はいぃ!」


 顔を上げると、吊り上がった彼女の瞳が待ち構えていた。話は聞いていたのだが、ずっとうつむいていたので、不真面目な態度に見えたのかもしれない。

「まったく……」と呟きながらも彼女はいくつかの助言をくれた。


「文章の取捨選択は、とにかく読んで書いて慣れていくしかないと思うから、それ読んできて。で、今日の分も書き直しね……えーと、同じ文章量で……ここまでね」


 返してもらったノートには、プロットに新しく印が追加されていた。ここまで書いてこいということだろう。


「あ、もちろんそこの本読んだ後に、だからね。じゃないと意味無いし」

「はい……でも、これどれを読めばいいんですか?」

「え、全部だけど」

「……一週間だと一冊読めるかどうか……」


「え……」と彼女が目を見開く。これは多分信じられないようなモノを見る目だろう。

 続けざまに質問が飛んでくる。


「……最近読んだ本とかある?」

「歴史小説を……」

「文庫? それ、何日ぐらいで読んだ?」

「……二週間です」


 彼女は「うーん……」とうなりながらパイプ椅子に背中を預ける。しばらく天井を眺めていたかと思うと、先ほどと同じようにピースサインを作った。


「一冊貸すから、これを二日で読もう」

「うーん……」


 今度は僕がうなる番だった。今まで二週間で読んでいたものを二日で? 単純な速さで言えば約七倍だ。そんなことが可能なのだろうか。


「とりあえず今日から学校での休み時間と、今まで家で執筆に充ててた時間、全部使って読んでみて。その進み具合で判断するから」


 言うが早いか、机の上に一冊本を残して、彼女は荷物をまとめだす。僕もその本をバッグに入れて、二人で資料室を出た。


「じゃあ」

「はい。ありがとうございました」


 軽く会釈をしてから彼女と別れる。

 グラウンドの方からはサッカー部とおぼしき元気な声が聞こえてくる。パートごとに分かれた吹奏楽部の散発的な音色と合わさって、それは放課後の学校の空気を作っている。

 歩きだして頭に血が巡り始めたのか、今日最後の授業の事を思い出した。始業の前、上月さんは僕の方を見ていたのだ。資料室では小説の事以外聞かれなかったし、いったい何の用事だったのだろう。

 正直に言えばとても気になるが、本人が話さない以上、それは言いたくないことなのだろう。

 誰にだって、踏み込まれたくない事情というものはある。

 僕たちの関係は小説の指導者とその生徒というだけだ。深入りをする必要はないし、彼女だってきっとそれを望んではいないだろう。

 職員室に行って鍵を返す。担当の教師は今出払っていたらしく、特に何も言われることはなかった。嘘をつかずに済んだので、少しだけ気が楽だった。


***


 お風呂から上がった後、早速読書を始める。母は寝室でまだ起きているだろうが、読書をするだけなら特に咎める事もしないだろう。

 火照った体を扇風機で撫でつけながら、彼女から借りた本を適当に取る。タイトルは『春の抵当』だ。作者は『上城優雅』と聞いたことのない作家。

 椅子に深く座ってハードカバーの表紙を開くと、誰かの略歴に続けて短い序章。

 どうやら、これは恋物語のようだった。一人の女性が、どうやっても振り向いてくれない男性に向けて書いた手紙。それを追うことで物語が進んでいく。

 文章に繊細にちりばめられた言葉を一つ一つ拾っていく。


 立ち上がりは鮮やかに色付く世界を魅せてくれて、ページを捲るごとに、行を追うごとに波は激しくなって、それは僕を捉えて決して離さない。

 そのうちに、強い雨に晒されてささくれた僕は周りの支えもあって自分を見失わなくて、贖えない罪の重さに押しつぶされそうになりながら、誰かの意志の中で自分が生きているのなら貴方には分からないでしょう誰でもない自分はいくつかのヒントとそれに交じる答えをみんなで共有して黒い黒い黒い海に浮かんでいこうと歪む心はゴロゴロ鳴くのだけど「選択を間違えた」死につながるこの道の向こうで待つのは誰なのだろうか。なおも熱くて凍えて震えて砕けた私は一体何なのでしょう。一粒の愛は粉に挽かれて怪物に飲み込まれ理解を示すより早く溺れて落ちて崩れてミントの香りが手に取るようにジジジジと起こされて未来と矛盾に反転する光が反射する水晶を叩き割る動機に結ばれてにべもなく呟かれ手繰り寄せた荒廃に誰もかれも私の事を見ていないくせにそう「誰?」救いを求めてはいけなかったと気づけない私は、


 撓み切った心は、けたたましい電子音に晒されてやっとその輪郭を取り戻した。

 こんな遅い時間に誰か電話でもかけてきたのだろうか?

 携帯を開くと、画面には『アラーム6:30』と表示されている。こんな夜更けに鳴るとは壊れてしまったのだろうか。

 アラームのせいか、母が寝室から顔を出す。


「ごめん、起こしちゃった? なんか携帯鳴っちゃって」

「……? いつもの目覚ましじゃないの?」


 眠たげな目をこすりながらキッチンへ向かう母を横目に「えっ」と呟いて部屋の時計を見る。年代物の振り子時計はきっちり六時半を示していた。

 しばらく携帯を握ったまま呆然としていたが、すぐに朝食の準備を手伝わなければならないと体は勝手に動き始める。

 テーブルの上を片付けるため、置きっぱなしの文芸書を手に取る。裏表紙を開いたままの文芸書は、触ってみるとまだほのかに熱を持っていた。

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