一章 私の話

「いってきます」


 誰もいない玄関に向けて呟く。毎日やっていることだ。返事が返ってくることはないが、別に虚無感もないし、感傷もない。ただいつもの癖で言っているだけだ。

 カギを閉めてバッグに入れる。ちょっと前まではポケットにいれていたのだが、一度通学中に無くしてしまってからは、こうしてバッグに入れるようにしている。

 腕時計を見ながら早歩きで学校に向かう。陸上の朝練は自主参加だが、大会が近いのだ。少しでも体を動かしておきたい。スクールバッグの取っ手を肩に寄せて、さらに歩調を早める。

 中学から始めた陸上は、高校に入ってからも続いている。むしろ高校に入ってからの方が真剣に取り組んでいるといってもいい。

 が、しかし、自分でも何で陸上を続けているのか時々わからなくなるのだ。

 いい記録が出た時はうれしいし、走って汗を流すのも爽快だ。でも、私が続けたい理由はそういう事ではない、というのもわかってしまうのだ。

 ただ、グラウンドのトラックを見たとき、スタートラインに立った時、練習がなくなった時、そういう時に「走りたい」と思えるくらいには、私はきっと陸上が好きなんだと思う。

 カンカンとやかましい音を鳴らしながら遮断機が下りる。この踏切を超えれば学校はすぐそこだ。

 もう一度腕時計を確認。この時間なら余裕をもって着替えられそうだ。


「お、はようございます」


 いきなり後ろから掛けられた声に。思わず「うお」と声を漏らしてしまう。もう少し距離を置いて挨拶してほしかったと思いながら「おはよう」と不愛想に返した。

 彼はクラスメイトの男子だ。名前は竹原亮。普段はあまり話さないし、数か月前までは挨拶すらしたこともなかった。

 彼と話すようになったのは先月からだ。あるきっかけがあって、それから金曜の放課後だけ、二人で話す時間を取っている。


「今日もいつもの時間で大丈夫ですか?」


 相変わらず、何を考えているのか分からない顔だな、と思いながら私も返事を返す。ちなみに彼の方が十センチ程身長が高いので、私が見上げる形だ。


「あー……多分。遅れそうになったらメールするから」

「分かりました」


 並んで電車が通るのを待ったが、それっきり会話はなかった。どういえばいいのか、そう、私達は「かみ合わせが悪い」のだ。水と油ほどはっきり分かれているわけではないのに、何かを共有できるほど近くにいるわけでもない。「不可侵」という言葉の方がしっくりくるかもしれない。

 しばらくして、遮断機が上がる。私は「じゃあ、朝練あるから」とだけ言って、返事を待たずに速足で学校へ向かった。別に沈黙が辛かったとか、そういうわけではなく、ただ早く朝練に向かいたかっただけだ。



***



 部室ではすでに部活仲間が一人着替えていた。更衣室を開けるとその子と目が合う。


「おはよう。今日は早いね?」


 声をかけてきたのは新村岬にいむらみさき。私と同じ短距離で、中学から一緒に走り続けている。クラスが違うため、親友、と呼べるほど部活以外で関わりがあるわけでは無いが、それなりに気兼ねなく話せる仲ではある。


「うん、おはよ。いつもこんな時間じゃない?」

「いや、いつもより十五秒は早い。結構縮めて来たねぇ」


「どこ競ってんのあんたは」と軽口を返しながら着替える。

 朝練の常連は私達二人だけだ。まぁ朝練といっても軽く流して、負荷の軽いメニューをこなすだけだから、参加する人間はもともと少ない。

 シューズを履いて、グラウンドに出る。早朝のこの時間、校舎の影のせいで、グラウンドは光と陰がちょうど真っ二つに分かれる。私はいつも影の方から走ることにしている。新村も一緒だ。

 柔軟をしながら新村と他愛ない話をする。


まい、今日の放課後予定ある?」

「ん? なんで?」

「今日はグラウンド、後半サッカー部に渡すからさ、早く帰れるじゃん。ちょっと雑貨屋寄りたいなって」

「うーん……ごめん。今日は予定あるから無理だわ」


「そっか」と、さして残念でもなさそうに話す新村の表情は読めない。竹原ほどではないが。この子も何を考えているかよくわからないところがある。

 そして私たちはスタートラインに立つ。早朝の涼しい風が前髪を揺らして、グラウンドに薄い砂埃を起こす。隣で新村が髪をポニーテールにするのを待って、私たちは走りだした。

 この日は結局、私達以外の朝練参加者はいなかった。



***



「これ、どうですかね」


 その日の放課後、埃臭い資料室で竹原が見せてきたのは、またしてもプロットだった。先週あれほど言ったのに、こいつは本当に小説を書く気があるんだろうか。

 少し苛立ちながら「あのね……」と諭そうとすると「待ってください」と竹原に止められる。


「あの、最後まで見てもらっていいですか」


 私はきっと不機嫌な顔になっているのだろうなと思いながら『小説用』と書かれたノートをめくる。前回から新しく加えられた内容の、その最後のページには小説があった。

 小説といってもプロローグの序章と言った方がいい感じの、どちらかというと少し長めの詩みたいなものが震えた文字で書かれていた。


「……これは?」

「前回、ボツにされた案の一つ……の、導入です。自分なりに書いてみたんですけど、どうにもそれ以上思い浮かばなくて……あの、それでも僕は先に書いた方がいいんでしょうか」


 竹原と目が合う。茜色の西日を跳ね返すその瞳を見れば、彼が真剣に話していることは分かる。

 私は深呼吸して、話し始める。


「もし、良いプロットが出来たとして、実際、書かないことには作品にならないんだよ? そこは分かってる?」

「はい」

「そう。なら書き続けるしかないでしょ。良いプロットをもらえば、すらすら書きだせるようになるなんて、そんな技術、君にないだろうし」

「これを……ですか」

「他に書きたいものあるんだったらそれがいいけど。あるの?」

 竹原はふるふると頭を横に振る。まぁ当然だろう。

「じゃあこれ書くのも並行してやろうか。プロット出しも今まで通りで」

「えっ、全部ですか」

「……嫌ならいいけど」


 彼は少しだけ悩んでいたが、少しすると「やってきます」と先ほどと同じ目で話した。

 この日は、彼が書きやすいように、先週のボツ案のプロットを詰めた。

 資料室を出た別れ際、私は彼に伝えた。


「とりあえず、次は三千文字くらいかな。目標があったほうがいいでしょ。書いてきてよ」


 彼は「三千……」と呟きながら資料室のカギを返しに向かった。彼は放課後一人で郷土資料を探すという名目で資料室のカギを借りている。そこを彼の小説勉強会に利用しているというわけだ。

 なぜわざわざ学校で、と思われるかもしれないが、私達はお互いの家に行くほど仲がいいわけではないし、毎週ファミレスやカラオケに気兼ねなく行けるほどお小遣いをもらっているわけではないし、こそこそ外で集まってあらぬ噂を立てられることを望んでもいなかったのだ。学校であればただで使えるし、放課後の資料室ならばまずもって誰も入ってこない。何より資料室のカギを貸し出している教諭が年配の女性で、あまり詳しく理由を話さなくてもカギを貸してくれるのだ。

 彼がカギを返しに行くと、一足先に私は帰る。別に並び立って歩くのが嫌というわけでは無いが、特に話もしないのに一緒に帰るというのも変な話だろう。サッカー部の掛け声を聞きながら、一人で校門を出た。


***


 午後10時。自室で文庫本を開きながら舟をこいでいると、玄関の開く音と、控えめな「ただいま」の声が聞こえた。

 いつも通りだ。私は素早く自室の電気を消して布団にもぐりこんだ。

 階段を上る足音がする。私の自室に近づいてくる。続けて控えめなノックの音がする。ゆっくりとドアノブを捻る音がする。


「昧……もう寝ちゃってるか」


 声の主は少しだけ気落ちしたようにつぶやくと、そのままドアを閉めた。

 気配が無くなったことを確認して、暗闇の中で目を開ける。サイドテーブルに乗せていたを引き出しにしまって、再び布団にもぐりこむ。

 今日は、よく眠ることが出来そうだ。

 無意識に握りしめていた拳を解き、蝉の声を聴きながらまどろみに身を任せた。

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