このスマイル、プライスレス。
レジ業務から、終業までの10分の間は、バックヤードのトイレ掃除の当番だったから、レジ当番を交代した。
バックヤードに戻る短い間に、何人もの先輩たちが、声をかけてくれて、またも半泣きになってしまった。
帰るまでに、謝ってお礼を言わないといけないと思って、ちょうどバックヤードに、何かを取りに行こうとしていた宇木さんを見つけて、呼び止めた。
一緒にバックヤードに入って、ロッカーとトイレの間の衝立の前で、宇木さんに頭を下げる。
「すみませんでした……」
しょぼんと肩を落として、下を見つめる。
宇木さんに合わせる顔がないと、思ってた。
「よく頑張ったよ、遠藤さん」
ぽんぽん、と、肩を軽く叩かれる。
思いもよらない返事に、顔を上げると、
「後ろでやり取り聞いてて、ハラハラしてたんだよね。でも、レジ業務はおおむね完璧に出来てた。……あんな風に怒鳴られてて、手も震えてたのに、頑張った以外の何物でもないよ。怖かっただろ、よく頑張りました」
と、宇木さんは優しく微笑んで、あたしを労ってくれた。
このスマイル、プライスレス。
宇木さんって、天使かと思うくらいに優しい。
目頭が熱くなる。
「今日はたまたま店長が居なくて、手の空いてるのが俺しか居なかったけど、ああいう時は、早めに社員か店長を呼ぶのが、正解。ま、今日のお客様はそんな暇、与えてくれなかったから、今日は今日で正解だね。どっと疲れただろ?」
確かに、極度の緊張と恐怖から抜け出して、どっと疲れた。
何かもう、帰ってベッドにダイブしたい気分だった。
あたしがそう言うと、
「ドリンク一杯おごるから、掃除終わったら声かけなよ。何飲みたいか、考えといて」
と、ニカッと笑った。
いつもの微笑みと違う、快活な感じのする笑顔だった。
終業時間を過ぎて、宇木さんがバックヤードに戻ってきた。
あたしもトイレ掃除を済ませて、衝立のところで待っていた。
今が一番、お客様が少ないから、終業後にドリンクを社員割引で飲めるのが、この時間のシフトの楽しみだった。
これから、お酒を飲んだ大人たちが、終電待ちで一休みする場所になるから、また混んでくる。
「お疲れ様です」
「お疲れ。何が良いか決めた?」
宇木さんに、エプロンを外しながら聞かれる。
「えと、コーラが良いです」
と言うと、
「分かった、ちょっと待ってて」
と言って、さっと売り場に戻って、さっと戻ってきた。
手には、コーラのMサイズが二つ。
「……買ってもらってしまってからですけど、おごってもらって良かったんですか?」
あたしが言うと、宇木さんは声を出して笑って、
「ははは……気にしないでいいよ。今日の労いの一杯ってことで」
と、またあたしの肩を、ぽんぽんと、叩いてくれた。
何だか嬉しくて、ちょっと笑ってしまった。
「あ、これセクハラね。ジョシコーセーに、セクハラ」
と言って、宇木さんがニヤッと笑った。
普段の宇木さんの、イメージからはほど遠いその笑い方に、天使発言を撤回するべきかと、一瞬考えた。
毎週土曜日と日曜日の、午後から夜にかけてが、あたしのシフトになってる。
試用期間の三か月を過ぎたら、宇木さんとはばらばらのシフトになるんだろうなと思ってたけど、意外とそうでもなかった。
何故かと言うと。
「え? 宇木さん、大学生だったんですか?」
今日もシフトがかぶってたので、思い切って、普段何をしてるのかと聞いてみたたら、そういう返事が返ってきた。
「何、意外? 俺が大学生じゃ、ダメだった?」
バックヤードの鏡で、服装をチェックしてた宇木さん、思いっきり苦笑い。
周りにいた、宇木さんよりも年上らしい先輩二人にも、苦笑いされてしまった。
「落ち着いてるから、もっと年上なのかと思ってましたし」
あたしも、エプロンの紐を巻きながら、その鏡をのぞき込む。
「宇木、何か勘違いさせることしてる?」
「え?! いや、何もしてないっす」
話の内容から、宇木さんが特別落ち着いてるわけじゃないことが、分かった。
ついでに、店の中の上下関係にも、なんとなく詳しくなって来た。
宇木さんは、アルバイトの中では、中堅くらい。
超下っ端で、ペーペーのあたし。
さっきの先輩二人は、中堅の中でも、もうちょっと偉いのかも。
「勘違いって何ですかー?」
鏡に向かって、前のめりになって、前髪を直すのに上目遣いになってるあたしの後頭部に、宇木さんが軽くチョップをかましてきた。
「そんなこと言ってる間に、そろそろ時間! 行くぞー。皆さんも、遅れますよー」
「いたっ。はーい」
あたしは、宇木さんの後ろについて、売り場に出た。
この日は比較的、クレームもなかったし、レジのミスもなかった。
あたしや宇木さんより、一時間後に入って来たバイトの同僚の、高校二年生の真奈美先輩と、
「今日は平和だー」
とか言いながら、バックヤードに戻ると、既に宇木さんともう一人、高校二年生の貴之先輩が、着替えに戻っていた。
「お疲れ様です」
「お疲れー」
「平和な一日でしたねー」
「そうだね。あ、この後カラオケ行ける人?」
年上の宇木さんが、その場の高校生三人を、カラオケに誘ってくれた。
「はーい!」
元気よく返事したのは、あたしだけ。
他の二人は、
「すみません」
とか、
「親が迎えに来ちゃってるんで」
とか言って、断られてしまった。
そっか。
自宅から、チャリで通ってるあたし以外は、バスだったり親の車が迎えに来たり、してるんだ。
……つまり、宇木さんとあたしの、二人だけでカラオケ?
「二人カラオケか。遠藤さん、寂しくない方?」
「寂しくないです」
むしろ、ウェルカムです。
行ってみたいです。
二人きりって、厳密な意味では、なったことないし!
しかも、いつもあたしの方が出勤時間遅いから、宇木さんの私服とかちゃんと見たことないし!
一人、心を躍らせて返事をしたら、
「じゃあ二時間、弾けて来ようか」
と、普段通りの宇木さんの笑顔。
「えー、二時間だけですか?」
あたしが、不満を顔と声に出すと、貴之先輩が、
「遠藤さん、どんだけ元気なの」
と、苦笑いした。
「バイトの後、カラオケで弾けるって、すごい元気に聞こえるよ」
真奈美先輩も、似たような顔をしている。
そして宇木さんが、
「だって、今から二時間以上歌ってきたら、俺、犯罪者になっちゃうよ? 迷惑条例か何かの、違反! 捕まっちゃうよ?」
と……。
それは嫌だ。
残念さと、しょんぼりが顔に出たんだと思う。
宇木さんは、あたしの頭をぽんぽんと叩いて、
「さっさと支度して、出ちゃおう。時間もったいないだろ?」
と、みんなを促した。
優しい、人懐っこい目が、三日月に細められてるのを見上げて、あたしは渋々、支度を始めた。
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