第4話 綱渡り

 トランポリンが置かれた広場にジャズが流れ出す。私は、トランポリンで華麗にジャンプを決める若者達を見下ろしていた。


 今いる場所は足場の高いところだ。ここで十八番の綱渡りをする。だが、ただの綱渡りではない。洗濯物を干す縄を綱渡り用に置き換えて、綱にはシャツや靴下などの障害物がいくつかぶら下がっていた。


 若者がトランポリンで芸を披露し終わったとき。それが私の出番だ。


 合図はがらりと曲調が変わる音楽で、住宅に張り巡らされた綱を抜き足差し足で渡っていく。そのとき、私のいる綱の上にいる透が仲間に合図を送って民衆を騒がせる。下のトランポリンに落ちて来いという挑発のサインだ。そのサインに私は応じ、トランポリンに落ちたところを警官が取り巻くという大まかな流れになっていた。


 今日も成功させよう。そう意気込んでいた私は、昨日までの些細な違いに気付いた。


 いつもより綱の幅が狭い。このままでは定位置に着かないうちに足を滑らせてしまう。


 そんな悲観的な思考はすぐに掻き消された。これが双子のいう嫉妬が具現したものだと思うと挑戦状を叩き付けられた気がした。とりあえず、このまま演技してみたらどうかと楽観視する自分もいた。


 一体、何が自分を進ませるのか。

 使命感。自分の体裁。十年やってきた綱渡り師としての意地。さまざまなことが脳裏をよぎる。

 いや、どれも違う。その答えは目の前の客席にあった。

 固唾を呑んで舞台を見入る観客の期待を裏切りたくないのだ。そして、仲間の頑張りに答えたいという純粋な気持ちが私を前へ進ませるのかもしれない。

 透が自分の異変に気付けば、民衆が私にトランポリンへの着地を促すサインを早めに出してくれるだろう。そんな結論を出した私は、緊張を押し殺して一歩踏み出した。


 いつもの感触を頼りに重心を保つのは、思いのほか神経を使う。焦りが出るものの、踏み出したからには何とか定位置には行きたいと己を鼓舞した。だが、その思いとは裏腹に、戻ってしまいたいという気持ちもある。


 汗が出ないだけまだ良かった。そのおかげで場違いなほど頭が冴えていた。本来は焦って雑念が入るところだろうが、今は不思議なほど落ち着いている。


 遊び心が込められた洗濯物は残酷なほど行く手を阻み、平衡感覚を鈍らせる。だが、どれほど不安定な足場であっても、止まることは許されないのだ。進まなければ足の震えが綱に伝わり、ただでさえ制御しにくい綱がますます扱いにくくなる。


 私はふと微笑んだ。簡単に進ませてくれない綱だが、観客には十分すぎるほどの緊迫感を伝えているだろうと。専門学校時代から培う度胸と経験を持つ私でも、今日の綱にはてこずっているのだから。


 あと少し。あともう少し。

 ここまで来れば定位置に行きたい。


 足取りがいつもより速いため、透が下に合図を送ったようだ。民衆は早い段階で歓声を上げ、私にトランポリンへ落ちるよう指示を出した。

 私はトランポリンに着地すると、勢いよく体が跳ね上がる。三回転して綺麗な着地を見せた私に、観客は大きな拍手をした。


 その後、待っていましたとばかりに警官達が集まってくる。

 警官に包囲されると、自分が悪いことをしていなくてもぎくりとする。制服の影響だろうか、威圧感が醸し出されている気がするのだ。実際、警官の衣装は肩章に飾緒、詰襟といった軍服的特徴をいくつも備えていた。


 一人の警官が、荷物を渡すように促した。潔く渡した鞄の中を皆が覗き込む。

 誰かが慌てたように鞄を逆さにする。予想していなかった空の鞄に、警官達は驚きふためいた。

 そこへ、別方向から私とそっくりな風貌と着こなしをした人物が歩いてきた。ただ、こちらはどこか快活そうな印象がある。鞄にはありとあらゆるものが詰め込まれているようで、いびつな形になっていた。


 ちらちらと後ろを伺っていた若者は、警官の視線が自分に向けられていることに気付いて走り去っていく。

 警官は私への詫びがないまま若者を追い掛ける。

 民衆も警官の後に続き、広場には私のほか誰もいなくなった。だが、しばらくすると先ほどの若者が戻ってきた。鞄は今やはち切れんばかりに膨らんでいたが、持ち主の表情も笑いが止まらなくて仕方がないという顔つきをしていた。


 私は若者に手を振って、笑顔でハイタッチを交わした。

 周囲を見回して頷き合うと、若者が指を鳴らした。

 パチンという音を合図に、二人の周りに煙が吹き出る。ちょうど私達の姿が見えなくなるくらい。

 煙が収まると、私達の姿は消えていた。その瞬間に警官と民衆は戻るも、今度は肩を落として去って行く。

 ブザー音が鳴り響いた後、会場からは拍手が鳴り止まなかった。

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