第2話 不安要素

 今回の「chaseチェイス」の舞台は、近年稀に見る三ヶ月以上続く公演だった。その脚本は、とある泥棒を何人もの警官が追い掛けるという分かりやすい話だ。


 エアポケットの舞台は基本、台詞が存在しない。歓声以外声を出さないため、国内外の客が楽しめることで好評だった。また、空中ブランコやトランポリン、綱渡りなど人気の要素は必ず二つだけ入れていた。


 私が着ているのは主役の泥棒の衣装だ。泥棒といっても、灰色や黒色などの暗い色彩の服ではない。白シャツに深紅のネクタイを締め、クリーム色のベストと黒のズボンを身に付けていた。それに帽子と大きなショルダーバッグを合わせた、お洒落な格好になっている。


 千秋楽で肩に力が入る中、薫がおずおずと訊いた。


「美紗。集中しているところ悪いんだけど……。話し掛けていいかな?」

「うん」


 珍しく神妙な表情を浮かべる薫に違和感を覚えながら、私はぎこちなく頷いた。


「団長との仲、悪くなってないよね?」

「えっ? どうしたの? 急に」


 薫の小声に合わせて、私もひそひそ声で聞き返した。

 なぜそんな思考になったのかという疑問が渦のように回っていると、双子は詳細を話し出した。


「某大道具さんの話によるとね……」

「大道具さんの中にいる、とある女性が団長に恋してるみたいで」


 何となくだが、真相が読めてきたぞ。

 透と付き合う前からも、ごたごたに巻き込まれることは多々あった。小さなサーカスから入団してきたことで、当初は風当たりの厳しさに苦労した。今回もちょっとした悪口が拡散されたのだろうか。


 大きな溜息をついていると、二人は交互に話し出した。


「ほら。私達みたいに、劇場で演技している人なら誰だって知っているけど」

「または舞台装置の運営に携わる方々でも」

「ただ、ツアーの公演に同行する人が全員そうかっていうと、案外知らなかったりするみたいなんだ」

「その女性はいつも同行する人じゃないみたい」

「そうそう。急遽、今日だけ来ることになったらしいね」

「しかも、さっき美紗と団長の関係を知ったらしいから、色々と気を付けてという警告です」


 一通り双子の話が終わると、私は二人に訊いた。


「一体、何に気を付けろと……?」


 抽象的すぎて分からない。そもそも、薫と霞が二人で一人分の会話に相当するように話すため、最初に聞いた話が忘却の彼方へ押しやられてしまう。

 霞は、私の不安を一掃するかのような静かな声で問い掛ける。


「リハで気付かなかったところに、欠陥があるかもしれないでしょ?」

「それで『音羽なら何とかできると思うが、怪我の可能性を伝えておいてくれ』って、さっき葛西さんから言われたんだ」


 回りくどいことをせずにさっさと火種を消してほしいと願うのは、贅沢なことなのだろうか。


 怪我の可能性というのは、天井から何かが落下するような舞台装置の不具合のことだ。そこは、私なら何とかできると断言するよりもパフォーマーの安全を確保するべきだと思う。


 名前を伏せた意味がないと霞に叱られている薫を見て、私の頬は緩んだ。慰謝料は葛西に請求しよう。


「……つまり、嫉妬からくる装置の不備に気を付ければいいのかな?」

「大正解!」

「さすがだね! 美紗!」


 いや。こんな状況でおだてに乗って舞い上がるほど、私はお気楽な人間ではない。むしろ、絶望で気が遠くなる。


 今回は自身初の主役に抜擢されている。最初で最後の晴れ舞台となることは全力で避けたい。


「最初から事件が起きないようにすることはできないの?」


 その問いに二人は即答した。


「難しいと思う」

「女の心理ほど読めないものはないからね」


 私ががっかりしていると、霞は気の毒そうに言った。


「役者で気付いている人は、団長と美紗以外の全員なんだけどね」

「じゃあ、透に言いなよ。透なら、何か対処してくれるんじゃないかな?」


 二人は何かを含んだように頷き合った。


「だって……ねぇ」

「うん。……あ、そろそろ開演間近だから定位置に付かないと」


 話が一方的に終わったため、私は溜息をついた。


「どうしていつも同行しない人が今日だけ来たの? 代役か何か?」

「鈴木さんがぎっくり腰になったみたい」

「仕方ないよ。もう、おじいちゃんなんだから」


 薫はそう言って一人頷いた。失礼極まりない発言だが、周りの人は苦笑いを浮かべつつも共感していた。


「そっか。頑張ってきてね」

「うん。応援ありがと」

「……美紗と人間軟体ができれば良かったのに」


 私は微笑しながら手を振った。


「面白そうだけど、私は硬いから難しいと思う」


 二人の人並み外れた柔軟力は、五歳から二時間ほどの練習を週五回以上続けてきた努力の賜物だ。

 双子が舞台袖に移動すると、私は自分の手のひらを見つめた。

 自分が出せるだけの力。

 ほんの少しの力でもいい。どんなにはかなくても、それは化学反応のように連鎖していく。

 今日もその力を信じて頑張ろうと胸に誓っていると、ブザー音が鳴り響いて開演を告げるアナウンスが流れた。一気に緊張が高まる中、幕が上がった。

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