二
「にしても、」
帰り道の中、僕の方は見ずに、弘樹が言う。僕はというと、また、流れる景色を見ていた。夕陽を差した、行きと逆回しのそれは、季節が冬のはずなのにどこか暖かみを帯びていた。地上から一段高い電車の高架越しに見える大きな看板に、ネオンの明かりが点く前に帰れるのは、どことなく嬉しかった。高校生の頃は友達と帰るときに散々見てきたが、最近では本当に見る機会が無い。買い物も日が落ちる前に済ませてしまうのだ。高校生時代には殆ど縁が無かった夕方から夜までの、家での時間。それが僕の中で、「大学生」らしさを担保する一つの象徴になっているらしかった。言うまでもなくこれは、一般的な大学生とは真逆なのだが。
「大学院行くなら行くで、どうして言わなかったのさ」
さっきよりは落ち着きを取り戻した弘樹だが、やはり少しイラついているようだ。
「だって、聞かなかったし」
先ほどと同じ答えを言う。便利な言葉だ、と思う。弘樹はそれ以上何も聞かない。聞いても無駄だと思ったのだろう。距離感は既に作られていたのだ。
もっとも、僕自身が大学院に行くという事を真剣に考えていたのかは、少し疑わしかった。いつもぼんやりと、「こうしたいな」と思うことはよくある。が、それが僕の中に明確な形を作るのには、かなりの時間がかかる。誰かに決意を示すことがきっかけになったり、あるいは申込書に記入してはじめて、「ああ、やっぱり僕はやりたかったのか」と思うこともある。どうしてなのかと考えてみたこともあるが、いまだによく分からない。実現できるのか、周りに受け入れられるのか、そういった不安が、決断から遠ざけるのだろうか。いや、それだけではないはずだ。特に他人と比べてみると、いつもそう思う。僕の周りの皆は、次々と選んでいく。不安なんて誰もが感じているのだ。なのに、どうして。その違いを、上手く言葉には出来ない。
瞬く間に早回しの風景を見せてくれる電車の中で、僕の思考も、過ごしてきた瞬間を堂々巡りしていた。バイキングのように眼前に並べられた記憶の中で、もう何度も反芻した1つを採って、僕は目を瞑る。
*
「しかし先輩も大変なポジションになりましたね……」
自らの革製の靴をワックスで磨きながら後輩の1人が言う。学校中の全ての運動部のためにまとめて置かれたロッカー群の前に、高校生の僕は2人の後輩と座っていた。自分と後輩の1人は水洗いした後に乾燥させていたステッキをロッカーにしまい、もう1人の後輩が靴磨きをするのを見ていた。僕ら山岳部にとって登山靴は生命線だ。僕らの多くが持っているナイロン製の靴は確かに安価で使いやすく、最近のものは防水機能にも優れている。しかし、革で出来ている登山靴は微細なレベルで足に馴染んでくるし、斜面でも安定していて足への負担も軽くなる。持っている人は後輩といえ、やはり羨ましかった。不思議と、磨かれている登山靴も誇らしげに見えた。
「うん、まあ、そう言ったって部長や副部長になる当人達の方が、絶対大変だからね。俺は何ともないさ」
僕は同じ学年である2人の顔を思い浮かべながら返す。3人とも登山や部活に対する考えは少しずつ違うものの、お互いに尊敬していた。
「ま、来年はお前らの代なんだから色々考えとけよ」
後輩へのフォローも忘れずに付け足す。へへ、と笑う後輩の隣で別の後輩も話しかけて来る。
「はい。でも上谷さん、なかなか無いですよね。上谷さん以外の2人が立候補して、どちらか選ばなきゃいけないなんて。もし同じ立場だったら胃が痛くなりそう……」
「ははは。まあ、俺らの学年への勧誘が甘かった、2個上の先輩には色々言いたいけどね。俺らの代に3人しか居ない分、後輩のお前らにも迷惑かけたからな」
「いやいや、早いうちから部の運営任せてもらったんで。ありがたいっす、俺らは」
「そうっすよ、気にしないでくださいよ」
たとえ本心ではなかったとしても、後輩達がそう言ってくれるのはありがたかった。僕も少し笑って、すぐそばのグラウンドを眺める。他の運動部員が、その中でめいめいに掛け声を出していた。相変わらず太陽は上空にあったが、9月の後半にもなり、残暑が少し弱まりつつある。そのせいか、練習中の部員の表情はどことなくやる気に満ちていた。
「早く、どっちにするか決めないとな……」
僕は伸びをしながら言う。
「まだ決めてないんですか」
「ああ、最後まで悩むよ。きっと」
「あー……、やっぱりそうですよね」
部長に立候補した北島と五十嵐は、どちらも登山部員としての技術は高く、それぞれ、部の運営についても確固たる考えを持っていた。それだけに、悩んだ。また、どちらを選んだとしても僕が立候補しない以上、もう片方は自動的に副部長になる。お互いに尊敬できるとはいえ、考えの違う人を支えていくというのは、なかなか一筋縄にはいかない。2人も、立候補してからは部の運営について何度も話し合っており、時々僕も一緒に話した。そういうこともあって、2人は僕に決めてもらいたがっていた。文字通り、第三者の意見がほしい、と。
「お前らはどうだ。部長はどっちが良いとか、あるのか」
「え、いや、俺らはそういうの、無いっすよ」
「はは、まあ、言えねぇよな」
「うーん、ていうか、北島先輩はリーダーシップっていうか、皆を引っ張っていきますし、五十嵐先輩は、すごく良い人で憧れますし…」
「うん、そうなんだよね。両方とも良いところがあるよね」
「難しいっすよねぇ」
そう言いながら、靴を磨き終えた後輩が、それをロッカーにしまうために立つ。
登山部のロッカーには、部員が抱負を書いたホワイトボードが磁石でくっつけてあり、北島の欄には「克己」、五十嵐の欄には「全力で楽しむ!!!」と書かれていた。
*
「次は……お降りの際は……」
はっと顔を上げる。気が付くと、電車は最寄りの駅に着いていた。
「降りないの?」
「いや、行く行く」
弘樹に返事をして立ち上がる。
陽は、もう地面の向こうに隠れようとしていた。
駅から家までの帰り道は、特に何も話さなかった。というのも、弘樹が友達に電話をかけて話していたからだ。僕はといえば、今日の夕食は何を作ろうかということで頭がいっぱいだった。家に居ることが多い僕は、弘樹の分も含めて、家事の大半をしていた。
しかし家に帰ると、弘樹はすぐまた出かけていった。
「委員会の仕事、まだあるんだよね」
「今やらなきゃいけないの?」
「何事も、早め早め、だろ?」
「ま、そうだけどさ」
僕は多めのクラムチャウダーを作るつもりでいたのに。
「頑張れよ」
僕がキッチンから玄関に聞こえるように大きな声で言うと、ただ扉の閉まる音だけがした。
そして3時間後、余ったクラムチャウダーの入った鍋はラップをかけられて冷蔵庫に収まっており、僕の身体はベッドの中に居た。夢は、見なかった。
次の日、大学の教室で僕は欠伸をしていた。寝た時間は長いはずなのに、逆に眠くなってしまう時はないだろうか。今、僕はまさにその状態にある。早めに寝て、遅く起きる。鍋の中のクラムチャウダーを見ると昨日より減っていたが、1限のある弘樹とは顔を合わせなかった。
家から大学までの道のりも、ひどく長く感じた。家からは3つの交差点を曲がり、大学前の並木道を通ると門に着く。交差点の1つ目と2つ目は信号のタイミングが微妙で、少し小走りをすれば2つ目を青で通ることができた。僕はどんなに落ち込んでいようと、身体が疲れていようと、この小走りを辞めたことは無かった。高校を卒業し登山部と別れ、走る機会が無くなってしまったけれど、これぐらいはどんな時だってやれる。本当にちっぽけな、他人からは小馬鹿にされるような、意味の分からない、プライドとも言えないようなことだった。そもそも、3000mを超える山だって登ったのに、たった300mくらいの平坦に何を求めているのか。それでも今の生活の中で、あの時を思い出すことができるきっかけは、これぐらいしか無かった。僕は、高校の日々から、距離を置いていた。
教室の前の方で女子が集まって何かを話している以外は、ほとんど人は居なかった。早めに教室に入り席に着く僕の癖は、ずっと変わっていない。次第に人が入り、賑わってきたが、あえて僕のすぐ隣に座る人は居なかった。というのも、ここは僕の学科の奴らがいつも陣取る位置とは離れているのだ。彼らは窓側の前でもなく後ろでもないところに座り、僕は扉側の後ろだった。遅れて来た人や僕と同じように1人で座る人が、その辺りには多かった。
お喋りの声が、教室に拡散して弾ける。シャボン玉のようで、窓から入る日光に照らされ、きらめいていた。「ガヤガヤ」という擬音語があるが、少なくとも今、僕にはそう聞こえない。声が消える時は打ち上げ花火の残り火のように見えて、それにも音が付いている気がした。
机の上にノートを広げて前回の講義を思い出そうとするが、朝からの眠気で頭が働かない。そうこうしている内に先生が入ってきて、少し強めに扉を閉める音がした。それで僕は、前回の講義の代わりに、水原のことを思い出した。怯えて伏せた目と結んだ口。あいつは、どうしているんだろうか。いや、辞めた。今は講義だ。しかし、集中しようとすればするほど、先生の言葉が頭から溢れ落ち、ついにはこの世で最上の音楽になってしまった。すなわち、子守唄だ。
*
鎖場は、登山のヤマ場の1つだ。ルートの中で切り立った岩場の他に登る所が無い場合、鎖が整備されている。上から下まで伸びていて、それを掴みつつ登れるのだ。7月の下旬、夏休みの始め。隣の県にある、2000m超えの山。僕と北島、五十嵐の3人で、岩の裂け目に手を入れ鎖を持ち、登っている人を見上げていた。
「誰が先に行く?」
「俺が行ってもいいか?」
「気を付けろよ」
五十嵐が目配せし、北島が名乗りを挙げる。僕は頷くだけだった。最後の人が登り切ったのを見届けて、北島は岩に手をかける。
最後に僕が登り切ると、五十嵐が息を整えていて、北島が何かメモをしていた。それは、こんな風に書かれていた。
「確実な判断。まだ足をどこに出すかに迷い。安定した箇所を正確に見分けるよう意識。」
登りを見上げる僕に北島の動きは完璧に映ったのだが、メモから察するに、彼にとっては納得のいかないものだったらしい。程なくして、後ろから来た登り組が止んでから彼は鎖場を降りていった。もう一往復。
「…あいつの体力、ホントどうなってんだよ」
五十嵐が言う。かなり登った後での長めの鎖場だ。それほど難しい部類のものではないが、やはり神経と体力を使う。北島は勿論誰よりも体力があると思う。でも、彼が本当にすごいのは、すべての一歩に気を配る点だ。小学生の頃から家族に連れられ山登りをしていたという彼にとって、一歩一歩の歩き方が後になって効いてくることは、その身体に染み込んでいた。僕らが軽視しがちな序盤の歩きやすい階段から終盤の岩場まで、どの部分に足を運べば最も体力を温存できるかにまんべんなく注意し続けて、気付けば誰よりも疲れていなかった。並大抵の集中力と経験でできることではない。僕と五十嵐は顔を見合わせた。
「写真撮っとくか」
言いながら、五十嵐はスマホで北島にピントを合わせる。岩から少しだけ身体を離しつつ、安定した降り方。素直に、羨ましかった。
「俺には真似できねぇなぁ」
五十嵐はそういうが、彼も体力があり、いわゆる運動神経の良い奴だった。2人は1年目の頃から先輩達を圧倒していた。北島はご覧の通りだし、五十嵐は細々としたことを覚えるのが上手かった。
「待たせてすまん」
往復を終えた北島が、手袋の土を払いつつ言う。
「いいよ。あ、写真撮ったんで。部のホームページに挙げるね」
「なんか、俺ばっかりのような気がする」
「気のせい気のせい」
気のせいではない気がするが、実際、北島のフォームは綺麗だ。写真を挙げて部の評判が上がればいい。それに、五十嵐の更新する記事は面白い。どうやったら文章で人をワクワクさせることができるのか、僕はまったく分からなかった。
「お、あれじゃね?」
「ほんとだ」
「お疲れ様、だな」
どうやら頂上に着いたらしい。何人かが写真を撮り合っている。少し遅い昼食を食べている人も居る。そこまで広いスペースではないが、頂上を示す標識と、小さな祠があった。
「登山口から6時間。まあまあだな」
「高校生にしては速いほうでしょ」
「途中で誰かが往復とかしてたからだな」
「「いや、お前やろ」」
ニヤリと笑う北島に、2人でツッコむ。ひとしきり笑った後で、3人の写真を撮った。2人に引っ張られる形で、僕も自己ベストを出せた。少し休んだら、下山だ。
登頂した時の気分の高揚は、大きく2段階に分かれると思う。まず、頂上の目印が見えてきた時。狭くなる空を眺め続ける中、視界の端っこに現れる柱、看板、あるいは小屋。ああ、やっと着いた。ゴールだ。無事、辿り着けた。「ほっとする」と言ってしまうと少し足りないのだが、そんな感覚に支配される。そして、頂上から景色を眺めた時だ。空がぐん、と開いて、頭の上には何も無い。叫び出したくなる衝動が身体の隅々から湧き上がってきて、全身で発して、全身で感じる。「僕は、ここに居るぞ!」と、世界の人たちに聞こえるように。もちろん、晴れていない時もある。それは少し残念だけど、視界を埋め尽くす白の中から、ぽつぽつと遠くの自然が顔を出すのを見て、街の中、山の外では眼に映らない何かを思い出す。
「センター、オブ、ジ、アアアア―――――――ス!!」
五十嵐が叫ぶ。よく分からないが、彼はいつもこうだ。北島も、黙ってはいるが、笑顔を浮かべている。今日は晴れていて日光を間近に感じるが、山頂のため気温は低い。だいたい15度くらいだろう。ゴツゴツした岩に座って、リュックから取り出したベビースターラーメンを食べる。パリポリと軽快な音が響き、ここでのこれは、どうしてこんなに美味しいんだろう、そう思う。
「あ、俺にも1個くれ!」
「五十嵐、お前いつもそう言うけど、自分で持ってこないのか?」
「お前からもらうのがいいんじゃんかあ」
「ん、旨そうだな」
「おい北島、勝手に取るなよ!」
「ありがとう」
「お礼言えばいいってもんじゃない!」
僕らの言い合いは周りの人に見られていたが、僕らは気にすることなく騒いでいた。綺麗だった。
普通に考えれば、登っていくよりは降っていく方が楽で、速いものだ。しかし登山となると、話はそう簡単ではない。足への負担は降りの方が大きいから、北島ではないけど、歩き方をかなり意識する。注意せずに急な斜面へ足を踏み出せば、たちまち滑って大怪我に繋がるし、登頂後には浮足立った達成感と疲労感が身体に纏わりつく。いくら気を付けても気を付け過ぎることはない。英語の授業で習ったような言葉を、僕はガムと一緒に噛み続けていた。
「次はこっちだ」
五十嵐が地図とコンパスを見ながら言う。分岐点が曖昧な箇所もあるので、人が途切れることがない登山道や、よほど低い山でない限り、山専用の地図が必要になってくるのだ。五十嵐は、道憶えがよく、地図を読むのが上手かった。夏山のシーズンということもあり道中には割と人が居たが、降りは、いつも幾らかの緊張感があった。
「今回は、思ったよりも速く帰れそうだな」
「ああ、天気にも恵まれたし」
「俺は自己ベスト出せたよ」
「まだ2回しか登ってないじゃん」
「それはまあそうだけど」
「成長はいいことだ」
「そうそう、そういうこと」
「おっと、こっちだっけ?」
「いや、こっちだったかな…」
「待って、この木、行きにあった。ほら、ネズミのマーク」
「某テーマパークかよ」
「俺、あそこの隠れ、結構見つけてんだよね」
「ひょっとして年パス持ってるのか?」
「そこまでは行ってねえよ」
「お、赤のテープあったぞ」
「あー、よかった」
「よかった、よかった」
目印の赤テープが道中の木々に貼ってある。親切な誰かか山の管理者かによって、僕らは比較的楽な登山をすることができる。迷う心配は薄かったが、万が一、テープとテープの間にある獣が作った道に入ってしまう危険性もある。一度遭難してしまうと、多くの大人に迷惑をかける。それは確かにそうだ。救助ヘリの出動費用は僕らのお小遣いの何万倍もあったし、保険に入っていてそれが払われるとしても、心配させてしまう人はたくさんになる。顧問の先生や先輩たちが、いつも言うことだった。教室に皆で座ってビデオを見せられた。僕らは、身体も大きくなって、登山スキルもずっと上達していた。山ですれ違う始めたばかりの大人なんかよりも、数倍登るのが上手い。それでも、事あるごとに子ども扱いされてしまう。僕ら3人の中で、それに一番納得が行かないのは、もしかしたら僕なのかもしれない。だって、北島と五十嵐は、僕よりずっと登山ができるのに、先輩や先生の言うことに実ににこやかに頷くから。僕は慌てて、それを真似しているというのに。でも、僕は最後まで、大人たちが僕らを心配しているのか、自らに降り懸かる災難を心配しているのか、分からなかった。
「いやあ、今日も楽しかったな」
舗装された道が出てきて、登山口まであと少しのところで、五十嵐が言う。
「そうだね」
「風呂、入りたいな」
「確かに。北島、毎回言うけどね。どうする?3人で銭湯でも行く?」
「いや、俺はいい」
「言い出したのにそれかい」
「僕も今日はいいかな…」
「えー、上谷は行こうぜええ」
「うーん、ごめん、今日は帰ろう。な?」
「行こうよー。……えー、じゃあ俺も帰ろうかな」
五十嵐は不満そうに言ってるけど、もう結構な時間だった。これから電車に乗れば、地元に着くのは7時か、8時くらいだろう。明日は、中学からの友達と遊ぶ約束もあった。夏休みは、忙しいんだ。
風と電車 @highredin
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