我々は言葉の世界に生きている、とぼくは思っています。我々は言葉を食い、言葉を飲み、言葉を呼吸していると。
この小説ほど、それに自覚的な小説はないでしょう。いささかペダンティックなほどに列挙される言葉、言葉、言葉。その連なりが垣間見せる「もうひとつの現実」。我々は言葉の世界を生きている──つまり、言葉に象られた存在なのだと、その瞬間に気づきます。そして、それはまた、言葉に呪われているということでもあるのでしょう。我々は否応なく母語というものに紐付けられ、そこから離れることができない。異国の言葉は、いかにそれに慣れ親しもうと、どうしようもなく「オリエント」な雰囲気を感じさせてしまうものである。そのことを、この小説を読むたびに思い知らされるのです。
この小説の登場人物たちは頻繁に議論を交わします。命のやりとりの最中ですら! それはときに、戦闘そのものよりスリリングです。議論の応酬の中で、世界がその相貌を変え、これまでになかった姿を露わにする──その一瞬のなんと戦慄的なことか! それは、SFの根源的な楽しみのひとつであり、またエスピオナージの魅力の根幹をなす要素でもあります。奔放なまでの「議論戦」に、だからぼくはどうしようもなく喜びを感じてしまうのです。
また、この議論の応酬は、我々がいかに言葉の世界と分かちがたくあるものなのかということも教えてくれます。言葉なくして議論なく、言葉なくして思想もない。何かを語るためには、まず言葉がなければならない。
はじめに言葉ありき。
そこで気づくのです。言葉は──冗談抜きで──我々を殺すこともできるのだと。我々が、言葉の世界を生きるという前提に立つならば。
だから思うのです。この小説は、優れた「言語アクション小説」であると。言語を武器に、敵と、そして世界と切り結ぶ、痛快無類の娯楽活劇。こんな面白い小説を、読まずにおく手はないというものです。