風と電車
@highredin
一
団地、畑、小学校、少し影の入った駅。都会の快速列車は、トラブルで遅れた時間を取り戻そうとするかのように、引っ切り無しに僕を運んで行く。不思議だ。駅にしか止まらないなんて。列車はそれ以外の場所を足速に過ぎ去るしかないのだ。だから時々こうやってトラブルでも起こして、線路の途中で一休みするのだろう。その間に普段見れない景色を眺めでもしなければ、きっとやってられないのだ。自分を動かす小人たちが忙しなく動くのを、停まったまま悠々と眺めなければ。
「ただいま…線は15分の遅れを…ご迷惑をおかけしまして…においでのお客様は…」
早口で紡ぎ出される今日何回目かのアナウンスは車内の乗客を巻き込んで急かしているかのようだ。でも、昼過ぎの乗客にはまるで届いていない。
「えー、私は他人が着たかもしれないのなんてやだなあ」
結婚式へ向かうような服を着て、前に座っている女性2人が会話を弾ませている。斜め前には子どもをあやす両親。いつもの人達。
「お待たせいたしました。次は…」
途端に幾人かが立ち上がる。それまでアナウンスなど何処吹く風、という調子だったのに。僕はいつも感心してしまう。電車が止まった駅の近くに並ぶ植えられた木々。僕にはそれが、どれも同じように見えた。
「もうちょっと、早く出た方が良かったかな」
ぼうっとしている僕を弘樹が引き戻す。振り向くと、眉を顰めて時計を睨んでいる。
「大丈夫だよ。ただの家族会議だ」
僕はあまり考えずに言う。考えたくないのかもしれない。
「遅れたらまた鬱陶しい説教だよ」
弘樹は窓の外を見て言う。顔は見えない。
「説教させた方があっちの健康にもいいよ、きっと」
「ふーん」
それで会話は終わる。行き場を失った僕の視線は、車内広告をつたっていく。乗客に移る。最後に窓の外の景色だ。くるくると変わっていくそれは、やっぱり見ていて楽しい。それに何より、裏を考えなくて済む。風景は、そこにあるだけだ。
「着いたよ」
弘樹の声で僕は立ち上がり、電車の外へ出る。僕らが一緒に住んでいるアパートの最寄り駅から快速で25分、目的の駅は冬の装いで溢れていた。空を覆う雲は、真新しい地下鉄のホームに敷き詰められたタイルのような色をしている。まるで遠くへ行こうと、見えない誰かがそこに立っているかのようだった。僕はそこから雨が落ちてきはしないかと細目で見つめたが、音も感触も、目の前に流れる線も、何も無かった。しかしそれでいて色の鈍い、産まれたばかりのような雲は、僕らの上にゆっくりと蓋をしていた。
「……きっと金属みたいな味がするんだろうな」
「何が?」
「雲」
「雲ね!」
弘樹はそれだけ言うと、駅前のコンビニに入った。僕は店の前のゴミ箱の近くに足を止め、行き交う歩行者を眺めていた。いつもの人達。
僕と弘樹が一緒に住むようになってから1年と数ヶ月が経った。弘樹は後から越してきた当初、僕が変わってしまったと言っていた。そう言われると、確かにそうなのかもしれない。しかし僕は、いつから僕が変わってしまったのか、思い出そうとしても分からなかった。それにそうだとしても、僕はどうすればいいのだろう。
大学に入ってから僕は1人の時間が多くなった。それは自分自身考えられないことのようで、同時にひどく当たり前のことだと感じた。高校生の時の友達とは1度も会っていないし、これから会うこともないと思う。転勤族だったというのもあるけれど、クラスの中で、誰かと繋がらなければ居場所の無いような狂気じみた圧迫感が、高校生や中学生の僕をそそのかしていた。しかしそれは、大学では忽然と姿を消していたのだ。実際、僕は高校ではよく遊びに出掛けていた。カラオケ、バーベキュー、誰かの家でゲーム、ファミレス。そんなありきたりな、でも今となってはありきたりでない日々を送っていた。今はどうかって?ただぼうっとしているのだ。時々ソーシャルゲームに手を伸ばし、すぐに飽きて辞める。勉強もそこそこ。外に長い時間出るのは、
「おーい、」
こいつの友達が家に来る日だけだ。その時、僕の部屋は「開かずの間」となるらしい。同じ家の中での距離感は、徐々に作られていった。
「"会議"のお店、こっちだっけ?」
弘樹は尋ねる。暇を持て余している僕は専ら家族への連絡係を任されていた。弘樹はあまり父親、母親と連絡を取らない。
「そう、その信号を右」
「ん」
ぎりぎり遅れない時間だが、両親はもう着いているだろう。僕らは足を速める。
「弘樹は九州に帰ったのはいつだっけ?」
「どうかな、去年は1回は戻ったはずだけど」
「確か2月か3月じゃなかった?春休みに」
「そんな気がする。どうでもいいけどね」
店の前に着く。手をかけて横にズラすと、がらがらと木の中のガラスが揺れる音がして、扉が開いた。
「いらっしゃいませぇ、何名様でしょうか?」
「すみません、先に来てるのが2人居るはずなんですけど……」
「えー、そうですね、えぇっと……上谷様でございますか?」
「はい」
「では、ご案内致します」
店員さんに連れられて中のテーブル席に入る。そこには既に僕の両親が座って居た。
「久しぶり、特に弘樹は1年ぶりくらいか」
「んー、もうそれぐらい経つんだね」
「こうちゃん、ちょっと痩せたんじゃない?朝ごはん食べてるの?前も言ったでしょ」
「うん、食べてるよ。大丈夫だから」
座ってから矢継ぎ早に質問を向けられるのは弘樹だ。やっぱり次男というのは得なポジションだと思う。構ってもらい、心配してもらえる。長男というのはなかなか人に好かれないのではないか。そんな風に感じたことも少なくなかった。単に自分の性格によるものかもしれないが、性格だって、人間関係や環境に左右されるというし。
「今日は好きなもん頼めよお」
「あら、おごってくれるの?」
「いやいや、お前も出せよ」
笑いながらふざけあっている両親は、もう何を食べるか決めたらしい。
「はい、メニュー」
そう父親が言い、「ありがとう」と弘樹が受け取る。僕はこういう時は、早く選んでしまう。
「この、デミグラスソース秋のきのことハンバーグ、ってやつにする」
だってファミレスなんて、どれを選んでも同じだ。出来合いの味。弘樹は少し悩み、ピリ辛チョリソーとサイコロステーキにする、と言った。
「それじゃ、頼むか」
父親はウェイターを呼びつけ、料理を伝える。
「かしこまりました」
ウェイターが奥に引っ込むと、父親がこちらに向き直って、「裕樹、もう怪我はいいのか?」と尋ねた。
「うん、もう大丈夫だよ」
ぼくは事も無げに答える。1ヶ月前に自転車で転んだ大したことない怪我だったから、もう治っていても当然なのだ。しかし、離れたところ、見えないところでの怪我に、親というものはとても心配するらしい。前に読んだ小説に、そう書いてあった気がする。
「俺、水とってくるよ」
「おお、悪いな」
弘樹が席を立った後で、
「あいつも気が利くようになったな」
「ほんとねぇ」
両親が笑いあっている。そういえば、この前の飲み会の時も僕は先輩の取り皿に料理を盛ることを忘れていたっけ。うーん、面白くない。
「はい、お待たせ」
弘樹がお盆に載せた水を持ってくる。端っこには袋に入った温かいおしぼりもあった。
「おっ、ありがとな」
親はそう言うが、僕は黙って頷きつつ受け取る。
おしぼりの袋を開けると、ふわっと蒸気が立ち昇る。僕はいつもこの蒸気が、楽しそうに上の空気を押し退けつつ、消えて行くさまを眺めてしまう。それはとても誇らし気に見える。役目を終えた熱が皆の祝福を受ける為に、湯気となってその姿を一瞬現わすのだ。僕とは違う生き物のようだった。
「おいおい、相変わらずだな、裕樹は。まだ料理、来てないぞ」
「…うん」
僕は時々、家族以外からも色々なことでからかわれる。だからといって僕の、例えばすぐにおしぼりの袋を開けてしまう理由を、皆に言ってしまうのは好きではなかった。僕の目だけに写る熱や光や風の映像を、他の誰にも渡したくなかった。それにもし、誰かに話して笑われでもしたら、瞬く間に僕の中で崩れ去ってしまうかもしれない。それは、どうしても避けたかった。
「で、どうだ。最近は?お前ら、彼女とかは出来たか」
「えーっ、出来たならお母さんに教えてほしいなぁ」
「まーた始まったよ」
両親の定番の質問に、弘樹はいつものように答える。僕はただ、「はは…」と笑った。僕の方は、普段話す相手すら居ないのに、本当に期待してるのだろうか。全く分からなかった。
「俺が大学生の頃は、もっと2人より元気に動き回ってたぞ」
「あら、それどういう意味かしら?」
「いや、ゆう、勘違いだ。そんな恐い目をしないでくれ」
父親は母親のことをゆう、と呼ぶ。「ゆうき」という僕の名前は母からとっているらしい。それについて僕から尋ねたことは無いが、名付けたのは父親だったと、父側の祖母から聞いたことがある。
「あんまり活発って感じじゃなかったと思うけど?」
「そうかなあ」
「そうよお」
両親は稀に口喧嘩もするが、あまり仲の悪い姿を見ない。お互いに適度な距離を知っているのだろうか。やっぱり、見ていて羨ましくはある。
「おーい、俺らを呼んだのはそれだけなの?」
一方、この弘樹と僕との距離はもう、どうにもならないかもしれない。
「おっ、自分から言うとは」
「いや、そりゃ言うでしょ」
「こうちゃん、部活はやってないんだっけ?」
母親が弘樹に尋ねる。
「やってないよ、FIだけ」
FIはFestival Iinkai、フェスティバル委員会の略らしい。要は学祭を企画するところだ。なんというか、ぶっちゃけて言うとセンスが無い。なんで中途半端に英語を入れようとするのか。
…とはいえ、同じ大学に居て何の団体にも入っていない僕が、そう堂々と言えたことではないのだが。
「FIは今どんな感じなんだ?」
「うーん、祭終わった直後だからまだちょっと忙しいかな。ヒラは休んでるけど」
「ほう」
「ヒラって役職の無い人達のことなの?」
「うん」
「なるほどな〜。はは、まるで会社みたいだな」
「あれ、こうちゃんは何だっけ、委員長?」
「いや、副委員長だよ。雑用が多くて」
「ははは、2番手ってのは何でもそうだな。誰に似たのか」
そういう父親は、20人程度の従業員を受け持つ副工場長だった。
「最近は新規開拓の出張が増えたけど、経費は10円単位で申告だぞ。いや、部下に指導する立場は面倒だな」
「あら、いつもとっても楽しそうじゃない。帰りは遅いし、ん?」
「ううむ。えーっと、さて、料理はまだかな……?」
父親が誤魔化し気味に言うと同時に、鉄板に乗った幾つかの料理がこちらに向かってくる。
「お待たせしました。サイコロステーキのセットのお客様」
「はい」
弘樹が受け取る。
「和御膳のお客様」
「あ、わたしです」
母親がウェイターの方を向いて、肘から手を挙げる。
「カキフライ定食のお客様」
「ありがとう」
「ハンバーグのセットのお客様」
「はい」
「以上でお揃いでしたでしょうか」
「はい、ありがとうございます」
父親が答えると、ウェイターは「いつも」のように微笑んで、紙の丸めた伝票をテーブルの筒の中に入れた。
「いただきますをしなさいね」
これは母の役目だ。
「……きあす」
いつもよく聞こえないのは弘樹だ。
4人がいっせいに食べ始める。ハンバーグステーキを選択してよかったようだ。どこのレストランでもこれを選んでおけばハズレはない。アタリもその分、ないのだけれど。
「で、裕樹はどうなんだ」
「うーん、特に何もないかな」
「こいつ、いっつも家に居るよ。外に出るの極稀に、って感じだし」
弘樹、また余計なことを。
「そうかあ。裕樹は何かやろうという気はなかったのか?」
「うーん……」
「まあ、何にでも興味を持つってことは大事だぞ」
「うん……」
その「何にでも」の具体例を挙げるとするなら、たとえばどこのファミレスでも美味しいハンバーグ以外に興味を持ち、他の料理を選んでみるということなのだろうか。いや、もちろん違うのだ。そもそも、そういう意図で父親が言っていないのは分かっている。当たり前だ。
だいたい、そんなファミレスでの選択といったような事に父親は興味がないだろう。同じように、僕は大学での課外活動に興味が持てなかった。どれを選んでも大して変わらない。父親がもしファミレスでの料理を選ぶことについてそう思っているなら、僕もサークルだか部活だかを選ぶことに対してそう思う。何人かの人が集まって、部活やサークルといった看板をこしらえてパッケージ化するのだ。出来合いの味。
ならば、僕は何に興味があるのだろう。今は、自分の隣にあるレストランの窓から見える景色にすごく興味がある。それはこの景色を見た人間が、どうして「寒そうだな」と感じるのか、ということだったり、窓の高さや位置はどういう景色を見せたいという建築家の思いに依るものなのか、ということだったりする。下の道に見えるあのサラリーマンが何時に会社を出て何時に戻っていくのだろうか、ということでもいい。
しかし、多くの人はそういった事に興味がないのだ。正しい興味。そんな言葉が僕の頭の中を巡って、喉が異様に渇いてしまう。そして僕は、テーブルの上の水をひっ掴んで飲む。
「裕樹、就活は大丈夫なのか?」
「……ぼちぼち。5社のインターンを受けたけど、入らない?って言われた」
「そうか。いいじゃないか。油断せずに、要領良くやれよ」
「うん」
「……ちなみに、最近は就職難だって言うじゃないか。弘樹、お前は大丈夫だと思うが、どんな感じなんだ。先輩とかは何か言っているのか?」
「うーん、でもできる人は普通に就職してるみたいだしなあ。サボってた奴がテンパってるのはよく見るけど」
「ああ、なるほどな」
「何でも早め早め、よね」
母親に頷く。
……ならば、僕が大学院に行きたいという事も今、ここで言った方がいいのかもしれない。いつも言おうとして、何故かタイミングが掴めなかった。この事だけでなく、言おうとしていつの間にか時間が過ぎてしまうことはよくあった。
「あの
「ところでさ、父さんは今、何か仕事以外でやってることあるの?」
今は、弘樹に阻まれた。これもよくあることだった。
「あー、あるある」
「なになに?」
「バイク乗ってるぞ。正確にはまた乗り始めた、ってとこかな?」
「あー、そういえば言ってたよね。昔よくツーリングしてたって」
「ああ、だが参った。久しぶりに乗ってみるとカンが鈍ってるもんだな。我ながら、呆れてしまった。実際に遠出して色んなところに行くのは、もう少し先だな」
「確かに、ちょっと太ったわよね」
「いや、そこじゃないよ裕子。合ってるけどさ」
ちょっとした笑い声。会話はひと段落。ここで言うのはなかなか至難の業じゃなかろうか。
「ねえ、」
「ああ、ごめんごめん、裕樹も何か言おうとしてたな。何だ?」
「えっと、実は大学院に行きたいなって」
「えっ」
最初に声を上げたのは弘樹だ。驚かれるんじゃないかと思っていたが、やっぱり驚かれた。
「お、おおー、いいんじゃないか?やりたいことがあるのはいいことだ」
父親は少し面食らったようだったが、笑顔のままで言う。
「んー、お金の問題もあるけど…、アルバイトはしてるの?」
現実的なのは、母親の担当だった。
「いや、してないかな……」
「だったらちょっとは頑張ってもらわないとねえ……」
「うん……」
「俺も初めて聞いたんだけど……」
弘樹はこちらを見てくる。
「だって聞かなかったし」
「理系だと大学院までいった方がいい、とは聞いていたがやっぱりそうなのか、裕樹?」
「……うん」
社会人になる気が起きないという訳ではなかった。しかし、周りの半分が就活、半分が試験勉強に分かれる中、就活をしているメンツよりも、残りの院試組、つまり大学院入試を見据えた連中の方が話しやすく感じた。人生において、どういう人達と過ごすかは極めて大事、とはよくいわれる。それに、馬が合う人達と同じ道だ。僕に適しているはずだと思う。
「試験はいつからなんだ?」
父親の質問に僕は答える。幾つかの大学院については少し調べていた。
「だいたい来年の夏か冬かな。うちの大学は内部進学試験があるけど」
「じゃあもうちょっと本腰入れて勉強するつもりなんだな?」
「……うん」
始めの動機こそあまりいい、正当な理由ではないかもしれないが、勉強すること自体は嫌ではなかった。ひょっとしたら院試組の人達ともっと話すことが増えるかもしれない。誰かと話すための、外からの理由がほしかった。
「いや、今回の『家族会議』を設けてよかった」
「ほんとねぇ、ちょっとびっくりしたわ」
そう言いつつ、両親は目を合わせる。弘樹はサイコロステーキを黙々と口の中に放り込んでいる。
やっぱり、もっと早くに言っておくべきだったようだ。とはいえ、言ったことは言った。僕は心中ほっとしていた。
そして話題は、それぞれが持つそれぞれの事へ移り、4人の間で渦を巻いて拡散していった。母親には再三アルバイトをするようにと釘を刺されたが、「家族会議」はとりあえずの幕引きとなった。
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