エピローグ(2)
熱物理学のイベントを駆使してコーヒーを抽出するサイフォンを見ながら、僕は考える。
アラシャもまた、僕には今までの話を整理する時間が必要だと思ったのか、特に話しかけてこなかった。
(これで僕に起きた異変にだいたいの説明がついた)
おそらく胎児に戻す過程で封印したか消したかしたはずの、降矢木由貴也の記憶が戻りはじめたのだ。それにより後から作られたララミス・フォン・ハウスホーファーの人格や獲得した技能に影響が出たのだろう。降矢木由貴也の人格が前に出たり、魔術が使えなくなったり、だ。
僕が今かけているチェーン付きの眼鏡は、それに対する応急処置だった。
かけている間は、自分はララミス・フォン・ハウスホーファーであると認識するため。心的なスイッチだ。そして、降矢木由貴也の規格外に強力な魔力を抑え込む役割もあった。この
「アラシャ先輩も――」
僕はサイフォンを見たまま彼女に話しかける。
「記憶が戻りはじめたとき、やっぱり混乱したのか? 僕はずっと前世の記憶だと思っていた」
「いいえ。わたしは、ある日突然すべての記憶が戻ってきて、その瞬間自分が本当は叢雲灯子だとすんなりと自覚したわ」
「……」
ある日突然すべての記憶が戻ってきた?
断片的に記憶が甦ってきた僕の場合とはちがうのか? そう言えば、彼女にはアラシャ・ベルゲングリューンとして獲得した技能に衰えは見られない。実にすんなりと、且つ、高度にふたつの人格が融合しているように思う。
一年という僕と彼女の目覚めた時期の差も気になる。
普通に考えれば、叢雲灯子のほうが体の損傷が比較的少なかった。或いは、一年経過観察して、大きな問題がないから僕にも処置を施した、と考えるべきなのだろう。
だけど、それにしたって後から処置を受けた僕のほうが不安定というのは解せない。
(僕にだけ特別な何かが施された、か……?)
程なくしてコーヒーが出来上がった。
僕はそれをカップに注ぎ、砂糖とミルクとともにアラシャの前のテーブルの上に置いた。
「お待たせ」
「ありがとう。いただくわ」
僕も自分の分を用意し、それを持って執務机に戻る。
「それにしてもよく自分が灯子だと気がついたな。普通なら僕のように前世の記憶だと思うそうなものだ」
アラシャは口をつけていたカップをソーサーの上に置いてから答える。
「実はね、わたしには胎内記憶ともいうべきものがあるの」
「胎内記憶?」
稀に母親の胎内にいるときのことを覚えている子どもがいるらしいが、それのことだろうか。
「そう。タイミング的には胎児に戻されたときだと思う。研究員らしき男の人たちの声が聞こえていて、それを覚えていたの」
なるほど。十分にあり得る話だ。
そのときどんな環境にあったかはわからないが、本当に母胎に戻されたわけではないだろう。なら、外界のことは認識しやすかったはずだ。加えて、一度は高校生にまで成長しているから、人の声を単なる雑音ではなく、意味のある言葉として捉えやすかったにちがいない。
「小さいときはよくわからなかったけど、叢雲灯子としての記憶が戻ったとき、すべてがつながったわ。それで自分のことを調べはじめたの」
自分のこと。
21世紀の日本人であるはずの叢雲灯子が、なぜ今の世界に生きていて、容姿まで変わってアラシャ・ベルゲングリューンになるに至ったか――。
「でも、そんなの調べようと思って調べられるものなのか?」
「ええ」
アラシャは自信満々にうなずく。
「知ってる? その医療メーカーのすべてを引き継いだ組織の研究施設のひとつが、このバルトールにあるの」
そう言ってアラシャはいたずらっぽく笑う。
「……」
急にその先を聞きたくなくなった。まさかと思うが、その施設に忍び込んだりしていないだろうな。
「その中で由貴也もわたしと同じように、この世界で生きていることがわかった。でも、そこまでだったわ」
「そこまで?」
「ええ。わたしたちの体の保存と管理は、当然同じ場所で行われていた。そのほうが効率がいいものね。だけど、胎児への還元と覚醒は別々の施設で行われたようなの。バルトール支部はわたしの担当」
「別々に? わざわざ? いったいどうして?」
あまりの不可解さに、言葉が区切れてしまう。
「わからないわ。研究資料も施設同士で共有していないみたいだから、ここの施設を調べてもわかるのはわたしのことだけだった」
アラシャは
だけど、それなら僕にだけ何かが施され、その結果不安定になったという仮説に説得力が出てくる。
「仮にわたしの経過観察が目的でベルゲングリューン家に引き取られたのだとしたら、ララを処置した施設はヴィエナにあるんじゃないかしら。調べてみる?」
「必要があればね」
忍び込んだり、資料を盗んだりするのはご免被りたい。
だけど、必要があれば調べるのは本当だ。ヴィエナに僕の覚醒を手がけた施設がある可能性が高いことは、頭にとどめておこう。
「由貴也がどこへ移されたのか、今どうなっているのか――わからないまま、そうこうしているうちにララがわたしの前に現れた。時々貴方と由貴也が重なったけど、結局昨日まで由貴也である確証は得られなかったわ」
アラシャも僕と同じような症状に見舞われていたらしい。
僕もアラシャと灯子が重なった。でも、僕の場合、ここは異世界で、アラシャが灯子であるはずがないと思い込んでいた。一方、アラシャはこの世界が西暦世界と地続きであること、自分が叢雲灯子自身であることを知っていたから、僕が由貴也である可能性を確かめようとしたのだ。
「僕はアラシャ先輩に謝らなければならない」
「あら、わたしをずっと避けていたこと?」
「まぁ、それもあるけど――」
僕はチェーン付きの眼鏡を外した。
「オレは灯子を助けられなかった。あのとき、せめてオレが咄嗟に突き飛ばしていれば、灯子だけは助かったかもしれないのに。なのに、何もできなかった……」
「ねぇ、由貴也」
謝る僕にアラシャは優しく呼びかける。
「わたしも同じことを考えたことがあるわ。せめて由貴也だけでも助けてあげられていたらって。でも、考えてみて? ふたり一緒に事故に遭ったからこそ、今ここに一緒にいるのよ?」
「……」
「もしわたしが由貴也を助けていたら、どうなっていたかしら? わたしひとりがこの世界に目覚めて――そんなの耐えられなかったでしょうね。いいえ、もしかしらひとりでは意味がないから、重傷を負ったわたしはそのまま冷凍保存などされずに死んでいたかもしれないわ」
そして、21世紀の日本に、僕だけがただひとり残される……。
僕と灯子は、『
その僕にとって、灯子を失うことは片翼をもがれたような苦しみだったにちがいない。
「だから、それでよかったのよ。こうして千年のときを超えて、今また一緒にいるんだから」
「ああ、そうだな」
どんな思惑で生かされ、どんな意図をもって目覚めさせられたなんて関係ない。目の前に灯子がいる。それで十分だ。
きっとこれからこの世界でいろんなことが起こるだろう。
そもそも悪魔という脅威を抱え込んだ世界だし、ヘルムートが言っていたあいつらのこともある。
でも、灯子がそばにいるなら、きっと何とかなるにちがいない。
-第一部 了-
来世で逢いましょう。 -落ちた神童の異世界偽典- 九曜 @krulcifer
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