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エピローグ(1)
ワイズマンが去った後、僕たちはひと言の言葉もなく、ただただ立ち尽くす。
「エカテリーナ様、ご無事ですか?」
そこにマーリャが駆けてきた。
エカテリーナはここぞとばかりに、殊更明るい口調で応じる。
「おお、マーリャ、そちらはどうなった?」
「片づきました。今はおとなしくしております」
見ればマーリャは、服は汚れ、いたるところが擦り切れ、その顔には疲労の色が見えるものの、大きな怪我はないようだった。
礼儀正しい生徒を演じつつ心の中ではエーデルシュタイン学院の教育をバカにしていたイリヤとヴァシリーサでは、常に何かを学ぼうとしていたマーリャには敵わなかったということだろう。
「どうしますか、イリヤとヴァシリーサは? やはり学院か当局に?」
「そうだな……」
エカテリーナはしばし考える。
「ふたりには自主退学の上、ツバロフに帰らせる」
「よいのですか、それで……」
マーリャの声には少なからず驚きの声が含まれていた。
当然だろう。公女の護衛という立場でありながら、その殺害を企てたふたりを咎めず、解放すると言っているのだから。
「
エカテリーナは、少なからず巻き込まれた身である僕に問いかけてくる。
だが、僕は彼女たちに背を向け、あえてそれに返事をしなかった。
「ララ?」
首を傾げるアラシャに僕は、唇の前に指を一本立ててみせる。「静かに」のゼスチャだ。
「どうやら都合のいいことに、あちらには聞こえておらぬようだ」
「わかりました。では、そのように。それから……」
と、マーリャはわずかに言い淀んだ後、意を決したように口を開いた。
「私の処遇もお願いいたします」
「うん? お前が何かしたか?」
「私は、今のエカテリーナ様のお姿は認められぬと、公然と異を唱えました。しかるべき処分が必要かと考えます」
どこまでも真面目なマーリャに対し、エカテリーナはそれを一笑に付した。
「くだらんな。個人の思想を皇族や国家が縛ることなどできぬわ。そんなことを言い出したら体制への不満を口にしたもの皆、断頭台に送らねばならなくなる。……自分のことは自分で決めよ」
突き放すような態度のエカテリーナ。
しかし、マーリャは視線を落とし、押し黙る。
「決められぬか。ならば
「……かしこまりました」
恭しく
「ほう、言ったな? 言ったからには最後までつき合えよ?
「はい……」
どうやらあちらも一件落着のようだ。
そこで周りがにわかに騒がしくなりつつあることに気づいた。派手に戦ったからな。悪魔の姿を目撃したものも多いだろう。そろそろ騎士団が駆けつけてくるころだし、急に静かになったことで様子を見にくる人もいるかもしれない。
僕たちは早々にこの場から退散することにした。
§§§
当然だが、今回の件は校内に残っていた生徒や教職員、付近の住民も目撃していて、大騒ぎになった。人的な被害がほとんどなかっただけで、ことの大きさは先日の一件以上だ。
その唯一の犠牲者がヘルムート・アッカーマンだ。
ただし、ヘルムートは犠牲者であると同時に、今回の事件の首謀者でもある。それを知っているのは僕たちだけだ。正直に公表するかは、今はまだ決めかねている。
翌日、アラシャ・ベルゲングリューンが僕の研究室を訪れた。
学院は、前回と同じく休講となった。むしろ惨劇の舞台だっただけに生徒の動揺は大きく、今回は長引くかもしれない。
そんなところにきているのは、きっと僕たちくらいだろう。
「お邪魔するわね」
ノックの後、そう言ってアラシャが這入ってきた。その彼女を、僕はチェーン付き眼鏡のレンズ越しに見る。
「どうしたの?」
アラシャは首を傾げ、問うてきた。
「本当に灯子なのか?」
「ええ、そうよ。その名前を知っていることが何よりの証拠じゃなくて?」
「確かにね」
正直、昨日ほどの感動はなかった。たぶん降矢木由貴也の人格が前に出ていないからだろう。
だが、それならそれでいろいろと疑問が出てくるのだが。
「説明してくれるのか?」
「ええ。わたしが知っていることはね。と言っても、そこまで強固に隠蔽されているものじゃないから、ララの興味がそちらに向いていれば調べられたと思うわ」
アラシャは僕を『ララ』の愛称で呼んだ。彼女もまた、叢雲灯子の人格が抑えられているということだろうか。
彼女は抱えていた数冊の資料をローテーブルの上に置くと、自分はソファに腰を下ろした。僕はいつも通り執務机に座っている。
「結論から言うわ。わたしもララも生まれ変わったりなんかしていない。死んですらいないもの。私はまちがいなく叢雲灯子で、貴方は降矢木由貴也よ」
「いや、でも……」
反論しようとした僕を遮り、アラシャは言葉を重ねる。
「今は西暦で言えば、3200年くらいかしらね」
「は……?」
思わず間の抜けた声がもれた。
「この世界が僕たちが生きていた世界と地続きだというのか?」
僕の問いに、アラシャは黙ってうなずいた。
「わたしたちが生きていた世界――便宜上、西暦世界と呼ぶけど、そのことは覚えてるわね?」
今度は僕はうなずく番だった。
もちろん、覚えている。
僕や灯子が生きていたのは、科学と魔術が共存した世界だ。
ただし、魔術といってもこの世界のものとはかなり性質が異なっている。
あの世界での魔術は、どこまでいっても才能の領域だった。ごくごく限られた人間だけが魔術を使え、それでもその多くが種も仕掛けもない手品レベルのものでしかなかった。しかし、ごく稀におそろしく強力で汎用性の高い魔術を使うものもいた。例えば、僕たちが通う学校のドイツ人教師がそうだった。
そして、僕や灯子も。
そう。僕たちはあの世界でも優秀な魔術使いだった。
つまりララミス・フォン・ハウスホーファーは魔術の素養を失い、初歩的な魔術しか使えなくなった。
一方で、降矢木由貴也としては、規格外に強力な魔術を使えるようになったのである。
「よろしい。それが今で言うところの先史文明時代ということになるわ」
つまり、先史文明時代=西暦世界、ということか
そう言えば、たびたび先史文明関係の資料の書架でアラシャを見かけたな。
「ララだって自分が使っている魔術が、
「いや、似ていると思っていただけさ」
先史文明時代に使われていた魔術を、
確かに調べれば調べるほど、それと似ている、系統としては同じなのだろうとは感じていた。だけど、降矢木由貴也が使うのは、あくまでも西暦世界の魔術でしかないはずなのだ。
もしこのふたつが同じものだと確信していれば、簡単な三段論法で結論が出せたかもしれない。
即ち――、
1.降矢木由貴也が使うのは
2.
3.故に、先史文明時代とは西暦世界である
となる。
「だけど、西暦世界と今の神聖暦の世界が地続きだというなら、魔術の性質があまりにもちがいすぎる」
この世界の魔術は、多くの人間が使える上、汎用性が高い。だけど、さほど強力ではない。一方、西暦時代の魔術は、才能を持ったごくごく限られた人間だけが使え、その力は手品レベルか、もしくは呆れるほど強力かの両極端だ。
「それだけじゃない。ここは僕たちがいた世界とは、似ても似つかない世界だ」
「案外そうでもないと思うけどね。……じゃあ、ここからはそれも含めて、順を追って話すわ。まずわたしたちが巻き込まれた鉄骨の落下事故――」
「……」
僕は我知らず、緊張に体を強張らせる。
降矢木由貴也の記憶は、見上げた空から鉄骨が落ちてくるところで途切れている。あの後どうなったのだろう? アラシャの言ったことが真実なら、僕たちはあれで死ななかったことになるが……。
「わたしたちはあの事故で大怪我を負ったわ。死んでもおかしくなような、そのときの医術ではどうしようもできない大怪我よ。だけど、わたしたちの体はすぐさま冷凍保存されたの」
「冷凍保存? 何でまた……」
確かにそれなら今でも生きている理由にはなるが。
「よく言えば、瀕死の重体のまま冷凍保存して、わたしたちの治療を未来の医学に託した。でも、穿った見方をすれば、わたしたちがもつ『
「なるほどね」
残念ながら、納得できた。
確かに僕と灯子の『
「さて、今度は世界情勢の話をするわ」
と、アラシャ。
「2200年、すべては東アジアの小国からはじまったわ。当時、その国は核開発と瀬戸際外交を繰り返していたの」
何となくどこの国か想像がついた。……まだそんなことをやり続けたのか。いや、一度は平和条約を結んだが、長続きせずもとの路線に戻ったという可能性もある。
「そのやり口に堪忍袋の緒が切れたアメリカは斬首作戦を決行。だけど、それが失敗に終わり――結果、世界中に核ミサイルが放たれたの。それをきっかけに世界各地でABC兵器を乱発するような、最悪の世界情勢となったわ」
「第三次世界大戦、といったところか」
尤も、第三次とはかぎらない。二百年近くの時間があれば、世界大戦の一度や二度、あってもおかしくない。
問いとも言えない僕のつぶやきに、アラシャは予想外の答えを返してきた。
「いえ、これこそが
「だって、悪魔との戦いでの犠牲者よりも、人間同士の戦争で失われた命の数のほうが遥かに多いんだから」
「……」
「もちろん、これはわたしが当時の文献を読み漁って比較したことだけど――普通に考えればわかることよ。先日の悪魔の襲撃事件で、どれくらいの犠牲者が出た? 両手で数えられる程度よ」
確か後で聞いた話では、八人の人が亡くなったとか。
「悪魔がいくら大量で侵攻してこようとも、それなりに戦えるものだわ」
ましてや当時は、今とちがって高性能の通常兵器が整っていた。各国には組織だって戦う軍隊もあった。
「でも、大量破壊兵器はちがう。一発の核で数千、数万という人間が抵抗すらできず死ぬのよ?」
どちらの犠牲者が多いか考えるまでもない、か。
「わたしが調べたかぎり、意図的に隠蔽、というか、ミスリードさせているのはこの一点ね」
「いったいなぜそんなことを?」
「人間の愚かさを隠したかったか、或いは、悪魔を強大に見せることで教会の権威を強めたかったのか」
アラシャは呆れ果てたような口調で言葉を紡いだ。
確かに悪魔が強大であればあるほど、それと戦った教会は偉大になる。復興の暁には、教会は大きな力をもつことになるだろう。
と、そこで僕ははっとした。
「そうだ。悪魔だ! 西暦世界に悪魔なんていなかった。あいつらはどこから現れたんだ!?」
僕の問いに対し、アラシャがひとつうなずいた。これから話すということだろう。
「ABC兵器が乱発される中、あるとき異変が起きた。……大量破壊兵器の衝撃で、この世界と地獄がつながったのよ。この世界の表現を使うなら、巨大な
「そして、ここからは僕もよく知る歴史になるわけか」
「ご名答」
つまり人類は教会のもとに一致団結し、悪魔どもを追い返し――そうして世界は教会を中心にして再編され、神聖暦がはじまった。
きっと人間同士で争っている場合ではなかったのだろう。皮肉なことに、ある意味では悪魔の出現が、戦争を繰り返す人類をひとつにまとめ上げたわけだ。
不意にアラシャが立ち上がり、執務机の上に一枚の地図を広げる。
ただ、少しばかり机の上が散らかっていたこともあって、彼女はむっと眉をひそめた。
「もう少し片づけたら?」
「いま調べものをしている最中なんだ。一段落したら片づけるよ」
そう言えば、アリエルにも同じような台詞を言った気がするな。要するに、僕の机の上はいつでも散らかっているということだろうか。
散らばる資料にかぶせるようにして広げたのは、この世界の地図だ。
「
「……」
僕はじっと地図を見る。
なるほど。確かにいくつか共通点がある。各国の特色も、僕が知る西暦世界のものと重なるな。
「ここ以外は?」
「アメリカがあった北アメリカと、中国があったユーラシア大陸はほぼ壊滅。アフリカ大陸と南アメリカは、バイオ兵器と化学兵器の実験場のようになって、今は人も住めない暗黒大陸よ」
「……」
何とも愚かなことだな。教会でなくとも隠したくなる。
「そして、人間が長きにわたる抗戦の末に悪魔を追い返したのがアラビア半島よ」
「なるほど。やつらを生まれたところに帰したわけか」
そう相づちを打ちながら、僕は地図を子細に見る。
この地図は西欧と中欧だ。おそらく教会による徹底抗戦の中心地だから、こうして復興することができたのだろう。ならば東欧は? 悪魔どもを封じ込めたアラビア半島と、この人類生存の地の境である東欧は、今どうなっているのだろう?
「この
アラシャの声で、考え込んでいた僕ははっと我に返った。
「まずひとつ、文明が一度中世レベルまで後退したこと。今はようやく産業革命といったところかしらね」
そこでアラシャは一拍。
「そして、もうひとつ。『生命の変革』とも言うべきものが起きたの」
「生命の変革?」
「ええ、そうよ。一番大きいのが魔術の素養ね。さっきララも言ったでしょ? この世界と西暦世界では魔術の性質がちがいすぎるって。じょじょに魔術の素養をもつ人間が増えはじめ、その一方で魔術自体は汎用性を大きくしつつ、その力は弱体化していったの」
「要は、魔術が広く浅く使えるようになった?」
対し、アラシャはうなずく。
「そういう認識でいいと思うわ。当時教会は、悪魔に対抗するために神が与えた力だ、なんて声高に叫んでいたみたいね。ほかにも細かいのを挙げたらきりがないけど、エカテリーナの
確かに。
「じゃあ、またわたしたちの話に戻るわ」
アラシャは再びソファに腰を下ろした。
「治療の目処が立たないまま二百年近くがたち――
アラシャは苦笑した。
「そうして僕たちはこの神聖暦世界に目覚めた?」
「そう。奇跡的にね」
「いや、それはおかしい」
僕はすぐさま反論を口にした。
「今の僕たちはいわゆる西洋人の特徴をもっている。生まれ変わりではなくて本人だというなら、容姿も当時のままのはずだ」
「戦争が科学を発展させる、とは昔からよく言われていることだわ。実際、
「わたしたちは、当時の超科学――
「……どうしてそんな面倒な工程を踏む必要が?」
「それはわたしにもわからないわ。そうしないと治療ができなかったのか、それともしうすることで旧世界の人間であるわたしたちを、この世界に適応させようとしたのか」
改めて、本当に奇跡的だと思う。当時の医療メーカーの全業務を引き継ぐ研究施設が未だにあり、僕たちを目覚めさせるという目的が千年以上も脈々と受け継がれてきたのだから。
文明が中世レベルまで後退しながらも、僕たちを保存し続けられたあたり、時間操作に関する魔術も使われていたのかもしれないな。
先史文明からの生き残りであり、貴重な『
「まずは十八年前にわたしが、そして、一年遅れでララが処置を施され、ファーンハイトの片田舎の夫婦に預けられた。その後、それぞれベルゲングリューン家とハウスホーファー家に引き取られたのよ」
「つまり、みんなグルだった?」
実の両親だと思っていた生みの親も、ヴィエナにいる養父母も。
「悪く言えば、ね。ある程度利害が一致した協力関係だったんじゃないかしら。ただ、わたしはどちらの両親からも十分な愛情を受けて育ったと思っているわ。……ララは?」
「……それは、僕もだ」
田舎の両親は、僕を実の子のようにかわいがって育ててくれた。ヴィエナの両親が僕を養子に迎えたいと言ってきたときの苦悩する姿は、今でも目に焼きついている。その養父母は、こうして僕をエーデルシュタイン学院に通わせてくれているし、将来は家督を継がせようとしている。
「なら、それは信じてもいいんじゃないかしら」
「そうだな。……遅くなったけど、コーヒーでも淹れるよ」
そう言って僕は立ち上がった。
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