スピンオフ 湖上の駅

増田朋美

湖上の駅

湖上の駅

久子には帰るところがなかった。

と言っても、半年くらい前なら、まだあったかもしれない。主人の栄蔵さんが生きてさえいてくれれば。その時は、まだよかった。もし、自分の発言に、義母や義弟が文句を言ったとしても、夫である栄蔵さんがいてくれれば、少し取り合ってくれることもあったから。

今日もそうだった。板長に、最近お料理が痩せてきていないかと発言したら、昔からこれですよと言われてしまった。タイミングの悪いことに、ちょうどそこへ大女将、久子にとっては義母の、川野重子が入ってきて、久子さん、板長に文句をいってはなりませんよ、ときつく叱りつけた。本当は、もっと豪華な料理でなければお客さんは来ないよと言いたかったけれど、それは許されなかった。代わりに、千頭駅へ行って、お客さんを連れてくるように、なんて、変な命令を出されてしまったのだった。

「今日は悪いねえ。わざわざこっちまでついてきてもらっちゃって。」

金谷駅へ向かう東海道線の中で、杉三は水穂に言った。

「いいよ。気にしないで。皆この時期は用事があって忙しいのが当たり前だし、暇人と言えば僕ぐらいなものでしょう。体さえよければついていくよ。杉ちゃんが運の強いの、よく知ってるんだし。」

水穂は、そう笑って返したが、以前、久留里線に乗って旅行した時よりも、かなり体がだるいなあとは感じていた。この時期は、年始の準備で、旅行に行く人も少ないから、こういう風にして、客を獲得しようという、大井川鐡道の魂胆なのだろう。それに、あの鉄道会社は、先日の大地震のせいで乗客が激減し、経営破綻の危機に瀕していることも聞かされている。だから、SL列車の乗車券を、福引の景品として用意したのだ。それをショッピングモールで、ひきあてたのが杉三である。

「何かあっても、同じ静岡県内だから、すぐに帰れるよ。心配しないで。SL列車に乗るくらいで、何もないところだしね。」

「そうね、あたしも調べてみたけど、それに乗るだけで、もう帰っちゃうお客さんが多いのよね。テーマパークも、店もなにもないし。」

隣の席に座っていた、由紀子が付け加えた。

「すみません由紀子さん。わざわざ、駅員の仕事を休んでもらってしまって。」

水穂が、由紀子に対して申し訳なさそうに言ったが、

「いいんですよ。岳南鉄道は、比較的休みがとりやすい職場ですから。あたしは、無断欠勤なんて一回もないから、有給休暇といったら、すぐ承諾してくれたわ。」

と、答えるので、岳南鉄道も相当な田舎電車なのである。休みを取りやすい鐡道会社なんて、利用者が少ないということだから。

「でも、今回の大井川線はもっと田舎電車だと聞いているし、あたしは田舎電車のほうが自分にあっていると思うから、こういう旅行は好きだわ。」

と、いうか、最もうれしかったのは、憧れの人物がすぐ近くにいて、一日を共にできるということだった。杉三が福引で引き当てたSL乗車券は、三人まで有効だった。取り合えず、水穂と杉三と二人でいくことは満場一致で決定したが、もしもの時のために、もう一人連れて行こうということになった。できれば歩ける奴のほうがいいということになったが、あいにく皆忙しくて相手にできそうな者はない。しかし、吉原駅で蘭たちが、スマートフォンでそのことについて話していたのを偶然立ち聞きしてしまった由紀子は、蘭を呼び止めて事情を聴き、それなら私が!と、立候補してしまったのだ。

と、言うわけで、今回は、杉三と水穂、そして由紀子の三人で、大井川鐡道SL列車に乗ることになったのである。

「ほんとによかったなあ。わざわざ手伝い人雇わなくても済んだじゃないか。こんなにかわいいやつが付いてきてくれたんだぜ、やっぱりイケメンは得だな。」

イケメンか。でも、以前あった時に比べると、水穂さんはずいぶん白髪交じりになって、少しばかり老けたなという印象を与えた。老けたというか弱ったというほうが、確実なのかもしれなかった。

暫くすると、金谷駅に到着した。平日であったため、比較的大井川線の利用者は少なかった。SLに乗るためには、ここからではなく、次の新金谷駅へいかないと乗れないので、とりあえず普通電車に乗り換えて、新金谷駅に向かう。

ほとんどの客はSL列車目当てであり、ここで降りてしまって、引き続き電車を利用する人は、あまりいなかった。それに、この新金谷駅はアナウンスがないので、ほとんどの合図が駅員の声で行われているのが、一つの見せ場とされていて、多くのカメラマンが写真を撮っていた。

新金谷駅に到着して数分後、SLがやってきた。降りた客は、お目当て通りそれに乗っていって、杉三たちも乗り込んだ。客車は昔ながらの古臭い客車で、よく都内を走っている電車よりも、かえって座り心地はよかった。食事に関しては全く問題はなく、車内で弁当も買えるし、おやつとして、SLもなかというお菓子も売られていた。時折年配の車掌さんが、いい声で歌を歌ったり、ハーモニカを吹いたりして楽しませてくれたので、退屈することはなかった。SLは、新幹線に比べると、格段にのろいが、それでもずっと楽しめるようになっていた。

車掌さんと杉三が、二人そろって、

「あーかーい、りんごにくちびーるよーせーて。」

なんて、歌いだしたところで、水穂は眠ってしまい、わからなくなった。

数分後。

「おい、千頭駅に着いたぞ!出るぞ!」

と、杉三に揺さぶり起こされて目を覚ますと、そこはもう千頭駅のホームだった。

「も、もう?」

随分早いなと思ったが、確かに駅の表示板にはせんずと書いてあった。由紀子に支えてもらいながら、列車を降りた。杉三は、駅員に手伝ってもらいながら、列車を降りた。帰りは、SLではなく、普通電車で金谷駅に戻ろうということになっていた。

「次の電車まで時間ありますから、すこし駅前広場をあるいてみましょうか?」

由紀子がそういったが、疲れていてそれどころではなかった。隣にSL史料館というものがあって、多くの客はそこへ足を運んでいたが、そこで何かしようという気にもならなかった。どこかカフェテリアで休みたいと言ったが、そのようなところはどこもなく、仕方なく、駅の近くにある展望台に行って、体を手すりに捕まえて立ち、大井川を眺めるしかなかった。一方の杉三のほうは、展望台近くの屋台の焼き鳥屋で、焼き鳥を買っていた。


「右城くん。右城くんでしょう。どうしたの、こんなところで。」

と、いう声がして、思わず振り向くと、中年の女性が立っている。あれれ、だれだろうと思いながら、一生懸命返答を考えていると、

「私よ。久子。ほら、小山久子よ。あ、もう忘れてるかしら。同じピアノ専攻だったんだけどな?」

と、彼女は続けた。そういえば大学時代に小山久子という女性がいたのは覚えているが、今の彼女はその時の面持ちはほとんどないような気がした。

「最も、今はこっちに嫁いだので、小山ではなく、川野久子ですけどね。」

水穂は、それでもまだ黙ってしまっていた。

「思い出していただけなかったかしら?その顔ですから、間違いなく右城くんだなとわかって、声を掛けてみたんですけど。大天才と言われていた人には、平凡な女子学生なんて、忘れてしまうかしらね。」

残念そうに、彼女は、がっかりして、元居た場所に戻ろうとした。しかし、後姿を見ると、衣紋を抜いた彼女の首周りに、大きなほくろがあったため、水穂にも、この人が誰だかわかった。

「待ってください。確か、教官に反抗する不良学生と呼ばれていた、」

これを聞きつけて、焼き鳥屋から戻ってきた杉三が、

「へえ、桐朋にも劣等性がいたんかいな。こりゃあ、面白いぞ!」

と笑い出した。

「杉ちゃん、そんなこと言ったら、失礼よ。それは謙遜して言っているの。桐朋は桐朋よ。すごいところなんだから、不良なんていないわよ。」

由紀子が注意したが、杉三はさらに笑った。

「いいのいいの。私は、不良学生と呼ばれたことは事実ですよ。それにしても、右城君がここに来たなんて珍しい。もしかして、お忍びで観光に来たの?演奏会にしては、ここは田舎過ぎて、コンサートできそうな場所はなにもないわよ。」

久子がそう質問すると、

「いえ、僕からしてみたら、なぜ久子さんがここにいるのか、そのほうが不思議ですよ。」

と、答えが返ってきた。

「あ、そうよね。大天才と呼ばれた人から見ると、桐朋生がこんなところに来たなんて、おかしな話か。私、旅館に嫁いだのよ。今は、旅館の若女将よ。時折、お客さんにピアノを弾いて聞かせてあげたりしているの。だから、ピアノを弾くおかみさんと呼ばれることもあるわ。」

「そうですか。」

それを聞くと、久子さんのほうが、ピアノを生かした道に進んだような気がした。あれだけ担当の教授と相性が悪くて、教官に反抗する学生と叱られてばかりいた彼女が、ちゃんとピアノを使って生活している。演奏家となるだけが、音楽の道ではないなと改めて思うのだった。

「そうですか。なんだか僕のほうが負けてしまったような。」

がっくりと落ち込むと、由紀子がそんなことはないとそっと肩を叩いた。

「かわいい人じゃないの。こんな人連れて、もしかして、秘密の関係でもあったの?」

「ああ、違います。この二人はそういうきたない関係ではなくて、ただの友達なんです。単に、手伝いに来てくれただけで。彼女は、今西由紀子さんで、」

「僕は影山杉三、杉ちゃんと呼んでくれよな。」

説明すると、杉三が、横入りしてでかい声で言った。

「右城くんが負けてどうするのよ。あれだけ天才だと言われて、教授たちを唸らせる人には、負けるなんてできやしないわよ。」

と、久子は笑った。と、同時にある考えを思いついた。

「ねえ、右城くん、今日はどこか泊まるところはあるの?」

「いえ、ありません。このまま普通電車に乗って、帰ります。もう、疲れてしまいました。」

水穂は正直に答えた。

「あら、泊まったほうがいいと思いますよ。一日くらい休んだほうがいいんじゃありませんか?三人分泊まれる部屋なら空きがあるし、お安くできるわ。どうぞ自由に使ってちょうだいよ。うちに家族も喜ぶわ。」

「予約をしなきゃいけないのではないですか?」

由紀子が、そう聞くと、

「いいえ、この辺りでは、めっきり過疎化が進んでしまって、こうして千頭駅までお客さんを呼ばないと、人が来ないんです。」

つまり、彼女は客引きをしていたのである。

「どこにあるんですか?お宅の旅館は。」

「はい、接岨峡温泉駅の近くですよ。奥大井の一番の秘境です。そんなところに嫁いだなんて、おかしいかもしれないけど、今はそこが私の家なの。」

彼女がそう説明すると、

「へえ、面白そうじゃないか!寄らせてもらうぜ!」

と、杉三が言った。

「大丈夫かなあ、、、。」

水穂はまだ不安そうな顔をしたが、

「水穂さん、どこかで休ませてもらったほうがいいわよ。もう、顔色よくないから。こういうときは、親切にしてもらったほうがいい。」

由紀子に言われて、しかたなくそうすることにした。

「じゃあ行きますか。接岨峡温泉駅は、ミニ電車と呼ばれる電車でいくのよ。」

久子に案内されて、三人は井川行きの、電車乗り場に行った。いわゆるアプト式と言われている、小さな電車で、随分頼りない印象の電車だった。それに、坂道が非常に多くて、常にぎーぎーがーがーとけたたましい音を立てた。大変な古い電車で、駅に停車すると、一々車掌さんが、ドアを開閉してくれるという一風変わったサービスもあった。途中駅はすべて、森の中を走る、無人駅で秘境駅という感じの駅であったが、

「間もなく奥大井湖上駅に到着いたします!」

と、車内アナウンスが流れると、乗客たちはおおーと声を上げて、持っていたカメラやスマートフォンを構え始めた。

「ここがこの路線で一番名物駅の、奥大井湖上駅なの。その名の通り、湖の上の小さな島に、駅が立っているのよ。写真家の皆さんは、血が騒ぐそうよ。」

久子にそういわれて、杉三は窓の外を見た。

電車は小さなトンネルを抜けた。そこは広大な湖が広がっていた。それを分断するかのように、電車は走っていった。そして、まさしく中心にある小さな島の上で、停車した。駅近くに小さなコテージのようなものがあって、そこから湖を見ようと、電車を降りていく客も多くいた。また、そこから千頭駅へ戻り、近隣の旅館に泊まる人も多いため、反対車線に戻っていく客も少なくない。

「私たちは、もうちょっと先まで乗るのよ。人はがらっと減るけど、よいところだから、気にしないでね。」

久子が言うと、杉三はにこやかに頷いた。やがて、駅員の合図とともに、電車は再び動き出して、湖の上をガタゴト走っていった。

「どう、綺麗だったでしょう?奥大井の秘境。一台名物よ。」

久子が水穂に言ったが、応えようとしなかった。SLに比べると、格段に粗末な電車になってしまったため、ぎーぎー軋んだり、急カーブで大きく曲がったりして、振動がもろに体に伝わってきて、文字通り、不快そのものだったのである。そんなわけで、湖上の景色を眺めるなんてことは、まるでできなかった。

「おい、お前もしっかりしろよ。先手、酔い止くらい飲んでおけよな。」

と、杉三が注意したが、それも聞こえているかは不詳だった。スマートフォンで路線図を調べていた由紀子が、

「もうちょっとだから、頑張って。あと一駅で到着よ。」

といい聞かせているのに、久子はちょっと腹立たしくなった。確かに、この駅の次の駅は、接岨峡温泉駅であるが、客に先にそういわれてしまうと、なんだか嫌な気持ちになってしまう。

「間もなく、接岨峡温泉駅に到着いたします!」

車内アナウンスが聞こえてきて、車掌さんが、杉三たちを手伝いにやってきた。やがて、電車は、駅に到着した。まず先に、杉三が、手伝ってもらって、電車を降りた。

「水穂さん大丈夫、歩ける?」

由紀子が、水穂にそっと声をかけると、何とかして立ってくれた。由紀子に支えてもらいながら、何とか電車を降りていく水穂を、複雑な目つきで久子は見つめていた。

「で、駅からどうやって行けばいいんですか?」

由紀子に聞かれて、

「あ、ああこちらです。いらしてください。歩いて五分くらいです。その名の通り旅館川野屋という、古ぼけた旅館ですけど。」

と、答えを出して、自ら先導を取らなければならないのは、何とも皮肉な気がした。

「どうぞ、こちらです。」

と言って、歩き出したが、大変に狭い山道で、さほど長い距離でないのにも関わらず、やたら長く感じられた。

「ほら、もうちょっとよ、もうちょっとだから、頑張って!」

「歩けない僕よりも、歩ける水穂さんのほうが心配なのはなぜだろう。」

由紀子や杉三に後押ししてもらいながら、何とかして水穂は坂道を上った。

「しっかりして、転ばないように!」

由紀子にそういわれるほど、歩きはふらついていた。終いには転倒してしまいそうになるので、

「ほらほら、もうちょっとよ。お願い!」

と、言われるほど、何とも凄惨であった。


やがて、一つの建物の前にたどり着くと、

「ここです。とりあえずお入りください。家族には、電車の中で、メールで連絡しておきました。もう、部屋も用意してありますから。」

と、久子は言ったが、さいごの一文は確証はなかった。それでもそういってしまいたくなるほど、この人は綺麗な人であり、この光景は凄惨だった。

「はれえ。古ぼけたと言っていたが、こりゃあ高級旅館じゃないのか?」

と、杉三が言うほど、結構きれいな建物だった。確かに大型の新しい旅館という感じではなく、古くてくたびれていたが、威厳をもってデーンと立っていた。

入り口の前では、着物姿の一人の老婦人と、同じく着物姿の中年男性が立っていた。老婦人は大女将さんであることは確かだが、中年男性は何に?

「あの人が、君の旦那さん?ちょっと若すぎやしないか?」

杉三に聞かれて久子は、

「あ、はい。義理の弟と一緒にやっているの。旦那の栄蔵は、半年前に亡くなったから、その弟の弁蔵さんが急遽あとを継いで。」

とだけ答えた。ということはご長男のお嫁さんとしてここに来たのだろうが、長男の姿はない。結構複雑な事情があるようであった。つまりこの家で、彼女はひとりぼっち。あとで意味が分かる。

「ようこそいらっしゃいました。女将の川野重子です。どうぞ、ごゆっくりくつろぎくださいませ。」

親切なおばあさんと言った感じの、老婦人が、杉三たちを迎えてくれた。

「あ、飛び入りで申し訳ありません。私たちは、若女将さんのお勧めで来させてもらいました。今西由紀子です。こちらは、磯野水穂さんと、影山杉三さん。」

由紀子が代わりに自己紹介すると、

「あれ、右城さんでは?」

と、中年男性が言った。

「あ、結婚して磯野に改姓したのを、若女将さんがしらなかっただけです。ちなみに、水穂さんは、若女将さんの同級生だったんだって。だから、知らなかったんだよ。」

杉三が急いで説明すると、なるほど、珍しいなと言いながら、弁蔵さんは納得してくれたようだった。

ところがこの時、疲れ切った水穂は、地面に座り込んでしまった。

「おい、しっかりしてくれ!もう、とにかくさ、形式的な挨拶は良いから、すぐ部屋に連れて行って休ませてもらえないだろうか!」

「はい、姉の連絡で部屋は用意しました。すぐにご案内しますから、来ていただけますか?」

弁蔵さんがなかなか雄弁にそういった。

「おう、ついでに一枚でいいから、布団しいてもらえないかな。もちろん、布団を敷くにはまだ早い時間なのは知っているが、こいつが本当に疲れているみたいだからさ。」

「わかりました。じゃあ、僕が背負って歩きましょう。」

弁蔵さんは、水穂を背負ってくれた。

「皆さんのお部屋はこちらです。狭苦しいところですけれども、どうぞおくつろぎくださいませね。」

三人は、こうして旅館川野屋の中に入った。とりあえず長い廊下を通って、「なすび」と書かれている部屋へ案内された。どうもこの旅館は「ふじ」、「たか」、「なすび」の三部屋しかないようなのだ。それでも敷地がやたら広いのは、客室が広いためだろう。重子さんの指示により、若い仲居さんが手早くテーブルを動かして、布団を一式しいてくれた。水穂は、弁蔵さんと由紀子に助けてもらいながら、やっと布団に横になることができたのである。

「ありがとうございました。あとは、僕らで何とかするよ。」

杉三が、そう礼を言うと、わかりましたと弁蔵さんは納得した。

「でも、宿帳を書いてもらわなくちゃ。」

久子は、思わずそういったが、重子さんが怖い顔で自分を見たのでぎょっとする。

「そういうことは、私やります。」

由紀子が発言したが、重子さんはまず、休んでもらうほうが先であり、宿帳は後でいいと言った。とりあえず、晩御飯を持ってくるから、それまでよく休んでくださいねと、重子さんたちは言って、その場は解散した。


でも、久子にとって、恐怖はここからなのは知っていた。

「久子さん。やっぱりあの件は、私は反対よ。」

会議室へ戻って来るなり、重子さんがそう切り出した。

「どうしてですか。だって、ここの売り上げはものすごく落ちているじゃないですか。こんな和風過ぎるくらい、和風な旅館を好む人なんてどこにもいはしませんよ。」

「でも、お姉さん。お年寄りはこういう和風の作りが恋しくなるのではありませんか?」

弁蔵さんにそういわれて、久子はムカッと来た。

「いいえ、年よりはまず第一に、体力がなくて、こんなところに旅行に来たりはしません。若い人を呼ぶには、和風ではなくて、洋風にすることが必要です。」

「ですけど、湯治に来る人だっているんですから、そういう人にも考慮しなければ。」

「そういう人は今はいないわ!温泉なんて何の役にも立たないもの。治療をするのなら、病院だってたくさんあるし、温泉に頼る必要すらないわよ!」

「久子さん、私たちは、日本の伝統がどんどんなくなってしまうからこそ、そのままの形で残すべきではありませんか。だから、この旅館は西洋化しませんよ。」

重子さんが強く言うのが癪に障った。

「だけど、あたしたちは、売り上げも減少の一途ですし、もう赤字経営もいいところじゃないですか。だったら、そういうお洒落な旅館に路線変更してもいいと思うんです。もう、潮時じゃないですか?どうですか?」

やっぱり、外部からの意見は通りにくいのかなと思いながら、久子は発言した。

「いいえ、無理なものは無理なんです。それではきっと、本来のものはなくなってしまうと思うの。」

重子さんは、やっぱりそこは譲らず、強く言った。こういう発言は久子は嫌いだ。役に立たないものに願いを託すなんて、不利益にもほどがある。

「お姉さん、これはお母さんのほうが勝っていると思いますよ。それに、お姉さんは日本の建物はよくないばかり言ってますけど、きっとそっちのほうがいいっていう人も少なからずいます。それに、外国の人は、日本的な建物を見て喜ぶでしょ。」

女にとって、男が母親の意見に同調することほど、嫌な場面はない。たとえそれが正論であっても、イライラしてしまうのだった。

「だったら、今日来たお客さんに聞いてみましょうか!ああいう人たちであれば、絶対にここは不便だと愚痴を漏らすはずよ!そして、もっとバリアフリー化してくれとか、要望を出すはずよ!昔の建物は、健康な人だけのために作ってあるけど、今はそうじゃない人もああして旅行に行きたがる時代なんだから!」

久子はもうムキになって、あの三人の客に賭けてみることにした。あの客なら、少なくとも、日本の伝統的な建物に、文句を言うこともあるはずだ!これでうちの建物は不便であると、証明できる!

そして、一人ぼっちの自分に味方してくれる人が、現れてくれるかもしれなかった。


「おう、うまいなあ。このヤマメの塩焼き、最高だよ。ウナギのかば焼きもまたうまいし。」

比較的、簡素な川魚中心の夕食だったが、一つ一つの味はよかった。

「うーんまあそうね。あたしは、もうちょっとがっつり行きたいなと思ったけど、でも、たまに食べるんじゃこういう食事も悪くないわ。」

由紀子は若い女の子らしい、正直な感想をもらしたが、

「でも、あたしは我儘はいわないし、ちゃんと完食する。といっても、なんというのかわからない料理ばっかりだけど。」

と言った。

「ああ、わからなかったら、教えてやるから、何でも食べろや。」

そうやって、正直に言っても、何も批判しないのが杉三のいいところである。もし、高慢な年寄りだったら、いまどきの子はそういうこともしらないのか、なんて難癖をつけ、嫌味を言うことが多い。

「水穂さんいいんですか?せっかく持って来てくれたんですから、何かたべたらどうですか?」

そう、声をかけたが、水穂は布団に横になったまま、

「いえ、全く食べようという気にはならないので。」

と答えるだけだった。

「あそう。じゃあ、君の分の、ウナギのかば焼き、食べちゃうぞ。置きっぱなしは、旅館の人にも失礼になってしまうからな。」

といって、杉三は、ウナギのかば焼きにかぶりついた。なんだか嫌だあなと由紀子は思ってしまう。

「いつもこうなの?杉ちゃん。」

「だって仕方ないじゃないか。ここはルームサービスがあるわけでもないしさ。肉も魚も、水穂さんにとっては、爆弾を突き付けられたようなもんだよ。」

「そうか。もうちょっと、融通が聞けばいいのにね。」

杉三も、由紀子もあーあとため息をついた。

と、同時にまたせき込む音が聞こえてきた。

「また始まったか。寒くなってきたんかな。」

「加湿器でも貸してもらえないかしら?」

といって、由紀子は周りを見渡したが、それらしきものはなかった。

「失礼いたします。」

がらっとふすまが開いて、重子さんと弁蔵さんが入って来る。

「あ、そうか、もう片付けの時間だった。ごめんなさい、まだ食べ終わってないの。もう少し待ってくれませんか。」

由紀子が急いでそういったところ、

「おかみさんよ!こいつにさ、何か食わしてやってもらえないかなあ。何も食えないのは、本当にかわいそうだからさ。」

顔にご飯粒をくっつけて杉三が言った。しかし、ご飯粒に合わず、その顔は心配そうだった。

「わかりました。具体的に何を食べさせればよいのでしょうか?」

「おう、暖かいおかゆさんと、肉魚一切抜きで、みそ汁作ってくれよ。大根と人参と牛蒡をたっぷり入れてな。」

「わかりました。すぐに作らせますのでお待ちください。」

重子さんは本当に親切だった。杉三のした要求に対して、何も反抗しなかった。軽く一礼して、厨房に戻っていった。

しばらくして、久子が先ほどのお客さんに布団を敷きに、「なすび」の間にやってくると、ちょうど、盆を持った、重子さんと鉢合わせする。その上には、小さな茶碗が二つ乗っていた。

「あれ、どうしたのそれ。夜食でも頼んだの?あの変な人が。」

「いいえ。彼にとっては、これが大事なごちそうなんですって。あたしたちが出していた、

ヤマメもウナギも、何も食べないって。」

つまり、ご飯とみそ汁である。

「彼って誰の事?」

「あのね、若女将さんの同級生だったという、綺麗な人。」

思わず、衝撃が走った。

「お姉さん、なにやってるんですか。早く、あの人たち、布団しいてやってくれませんかね。」

弁蔵さんが、そう急かすのだが、久子は何も言えないでその場に立っていた。仕方ないなと、思い、弁蔵さんがなすびと書かれている部屋に入る。

「そろそろ、お二方のお布団しいてもよろしいでしょうか。」

「弁蔵さん、申し訳ないんだけどさあ、このテーブルを、次の間へ移してもらえないか?もちろん、ルール違反なのは知っているよ。でも、僕も歩けないし、できればこいつのそばに固まっていたほうがいいのよ。きっとこの部屋、誰か一人は次の間へ寝てくれるように設計されているんだろうけど、それなら、テーブルを、次の間へ移してもらって、僕ら、三人一緒になって、寝かしてもらえないかな?」

また、あの変な人が、むりなお願いをしているわ、なんて久子は思ったが、

「私からもお願いします。誰か見張をしたほうがいいと思います。」

という、若い女性の声も聞こえてきた。

「わかりました。それではそうしましょう。特に法律でそうしなければいけないというわけではないのですから、大丈夫ですよ。」

弁蔵さんは、そういって、座布団やいすを動かし始めた。久子もそれに続いて中に入り、テーブルを動かすのを手伝った。あの、憧れの人物は、布団に寝たままだった。

テーブルをどかすと、そこに布団を敷けるスペースができた。弁蔵さんが、次の間から、布団を取ってきて、そこへ敷いてくれたので、三人一緒に寝ることができるようになった。

「よかったな。日本間で。こうして、テーブルを動かせば、すぐに布団敷けるスペースができる。西洋間だったら、ベッドを置くスペースが必要になって、より窮屈になる。日本の部屋って便利だねえ。ある時は食事もできるし、ある時は寝ることもできるし。」

杉三がそういうと、由紀子もそうね、と頷いた。

「じゃあ、また、明日朝ご飯持ってきますので。」

座礼して出ていく弁蔵さんに合わせて、久子も急いで座礼したが、どうもこの気持ちは文章では表せなかった。


翌朝。

朝食を頂いたあと、杉三たちは手早く着替えて、接岨峡温泉駅へ戻っていった。水穂は自分で歩いていくと言ったが、重子さんは送ってやるようにと言った。三人は丁重に礼を言って、弁蔵さんの車に乗って戻っていく。

私、なにをしたのかな。

急にそんな気がした。

ここの不満をたくさん漏らしていくだろうなと思っていたが、それは全くなかったし、寧ろ感謝して帰っていったのだ。大女将の重子さんや、旦那の弁蔵さんにとても親切にしていただきました、という言葉を残して。

あの二人は、そんなに偉い人のようには見えないが、何をしたのだろう?

私が聞いた誉め言葉は、杉三が部屋の事を誉めただけである。

弁蔵さんや、姑がしたことはただ、当り前にやっているだけのことで誉めることではないこと。

そこまで思ってはっとした。

そうか、あの人は、そういう当たり前のことも、できなかったんだ。そういうことだったんだね。

お義母さんも、義弟も、当り前のことを見返りなしにやったから、感謝されたんだろう。それを、システム化して、取り上げてしまったら、当り前のことをしてくれることもなくなるだろう。

ここはなにもないけれど、そういうことができるひとがいるんだもの。

この旅館を、立て直しするのは、また、今度にしよう。

久子は突然そんなことを思った。

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スピンオフ 湖上の駅 増田朋美 @masubuchi4996

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