第7話死出の旅
来る日も来る日も微熱に侵されつづける体を起こして、まだ見ぬ海を思うとき、その彼方からたどりつく廃船にあなたの魂が収められたアメジストが人知れず眠っていることを思う。カメオをあしらった古いオルゴールの匣の中で朽ちるのを待つあなたの魂は、舵を切るすべももたず、いずれ船が沈むのを待つばかり。生前、クリスチャンでもないのにグレゴリオ聖歌を口ずさんでいたあなたは、神の御手を差し伸べられることもなく、病んだ重苦しい体を私のように引きずって船へと乗りこんだ。死出の旅となることをはじめからわかっていたあなたは、私に時折手紙を書いて寄越した。曰く、鴎の歌っている唄の歌詞はいささか時代遅れであることや、船があてもなく航行困難区域を延々とさまよっていて、嵐は激しさを日ごとに増し、目指すべきこの世の果てにはたどり着けそうもないこと、今日のディナーがエスカルゴのアヒージョであったこと、静物画を描く画家と知り合ったものの、彼の操る言語は常人には理解しがたい体系で成り立っていて、意思の疎通がはかれないこと、休日になるとはじまるチェリストの演奏が拙くて、独りよがりであることなど。あなたはおおよそ幸福とは云いがたい日々を送っていたようだった。差出人には名前のみが書かれて、船籍も不明だったため、私は手紙を返すすべがなく、何通ものあなたの手紙が抽斗からあふれた。それらを捨ててしまうことも燃やすことにもためらいを抱く余地はなかったのだけれど、それから二年が経ち、やがて三年、五年と経つにつれて、私は遺された手紙を幾度も読み返すことになった。つづられた文言を一語一句違えずにそらで云えるほどに繰り返し読むうちに、あなたの声が私のこころによみがえり、私はその時ようやくあなたの魂に触れられたのだと気づく。そうして飢えた子どもが日々わずかな糧を得て永らえているように、病苦をやり過ごしながらあなたの言葉を糧として生きる私を、あなたは笑うだろうか。あなたは終始不満げな様子を隠そうともせずに、ブルーブラックのインクを費やして文字をつづっていたが、中にはあなた自身の詩も含まれていた。散文詩と呼ぶにはいささか具合が悪いそれらの詩の数々にこころなぐさめられた晩もあった。おそらくあなたという人は文字を操るにはあまりにも純粋すぎたのだろう。言葉の数々は次々と花開いては消えてゆく。それを惜しむようにふたたび万年筆を手に取るが、あなたの言葉は一処に留まっていられずに、文脈を超え、言葉の定義を超え、世界というものを崩し、手折り、歪曲させながら展開してゆく。文章の結末を求めることと、世界の終末を望むことは同義であって、あなたの魂が沈みゆく廃船の中で永遠に眠りにつかない理由も、あなたがそれらを希求しなかったという一点に尽きる。私は抽斗から今一度手紙の束を取り出して、それを何度も数え直す。十、十一、十二、十三。きっちり十三通の手紙を抱えて、トランクに放り込み、私はトレンチコートの襟を正して街路樹の色づく世界へと踏み出す。宝石商で店主に値踏みされながら、アメジストのブローチをあがない、錠をかけたトランクに収めて屋根裏部屋へ帰ると、本棚の奥の隠し戸の奥に放り込んだ。そう遠くない未来、私が死の床につくとき、身寄りのない私とともにあなたの魂が寄り添ってくれることを願う。
なぐさめの抱擁 雨伽詩音 @rain_sion
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