我こそは猫神 後編

⚫️作者の視点は本当に客観的なのか

 

 一人の人間(もとい猫)としてこの世界に生きている限り、どんなに客観的に公平であろうとしても自分の好みや哲学、生き方が反映されたフィルターを通して世界を見つめているという事実。個人の経験や知識をもとに創作するとなればなおさらである。


 そういう点で、『信頼できない語り手』の効果はなにも読者に驚きを与えるストーリーとしてのどんでん返しに限らない。

 いち人間(もとい猫)である語り手のフィルターや思い込みを信じすぎないように読者に警戒させることで、一人称視点の作品にも客観性を持たせることができるかもしれない。


 例えばポーンがどんなに「我こそは猫神である」と自負していても、他の人から見たら「こんなんで猫神なんてちゃんちゃらおかしい」ということもあるかもしれない。


 三人称視点なら今綴ったように問題なく書けるが、一人称の語り手の場合、語り手は自身のことを客観的には見られない。そこで周りの登場人物や状況とのズレを発生させることで、読者に「おや?」と思わせることができるのである。確かな腕があれば……。

 そう、確かな腕があれば可能なはずである。ポーンにその確かな腕があるかどうかは別として。ここでポーンは最も重大な事実に気づいてしまったのだった。


『そもそもこの手法は理数系が得意またはミステリ畑の人のが向いている』ということに。


 どうして今になってこの事実に気づいてしまったのだろう……。意気込んで長編を執筆しはじめた日が遥か遠いことのようだ。いや実際遠いけど。ポーンは久々に肉球で狭い猫の額をぎゅっと抱えた。


 なぜならポーンは行き当たりバッタリで数字が苦手、石橋は叩きもせずに勘だけを頼りに進む派である。


 つまり好みではあるが、実際に自分が執筆する際にはまったく向いていない手法と言える。長編の残りの執筆には手こずりそうだ……。ポーンは覚悟を決めた。


 参考までに信頼できない語り手の作品をいくつかあげると、まず有名なのはアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』。

 ポーンはこの話を頂いたレビューで初めて知ったほどミステリには疎いので、作品名をあげるだけに留める。


 他のレビューについてもそうだけれども、ポーンは恥をさらしながら書く効用の一つとして、もしかして誰か自分より詳しい人たちがレビューで知識や経験を共有してくれるかもしれない。そしたら自分も勉強になるし、何より今後偶然たどり着くかもしれない悩める作者の参考にもなるかもしれないと思ったのである。

 結果、想像を越える素晴らしいレビューと嬉しいことに応援してくださる皆さまにも出会えたということに、ポーンはただただ感謝しているのである。ああ、めっちゃ嬉しい……! ありがとうございます! と。


 

 さて、閑話休題。



 信頼できない語り手を駆使する最近の作者としてはカズオ・イシグロが挙げられる。らしい。。『日の名残り』や『私を離さないで』等わりと有名作品である。

 ポーンも映像作品としては知っているものの、原作の語り手や語り方を意識して読んだことはないので詳しいことは何も言えない。


 芥川龍之介も語り手の客観性を疑うという視点は強く出ていて、『藪の中』が有名である。これは黒澤明監督の『羅生門』(1968年)の原案にも取り入れられている作品なので、興味がある方はポーンの拙い説明よりも映画を観た方がはるかに分かりやすいかもしれない。


 反対に信頼できる語り手の魅力とは何であろうか。



⚫️信頼できる語り手の魅力


 ウィキ先生によれば、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』における語り手イシュメイルがそれにあたるらしい。

 確か細田守監督作品『バケモノの子』で出てきたなとポーンは思ったが、いかんせん映画(ジョン・ヒューストン監督『白鯨』1956年)で観たことはあるものの原作は読んだことがないので何も言えないのであった。ただ作品自体に聖書や神話・伝承などの要素が入っている分、信頼できる語り手としての要素は強いかもしれない。

 さらには細田監督の作風自体がポーンのなかでは信頼できる語り手かつ明快なローコンテクストよりであるので、これまた相性が良いであろうとポーンは納得した。


 ポーン自身は曖昧さを好むハイコンテクストよりの信頼できない語り手になりがちだが、反面、光と闇がスッキリとわかれた明快な世界、神話の息づく澄みきった空気感のある作品にもとても強く惹かれる。それ故の『猫神への道』だったのであるから。


 世界を見渡し光と闇をハッキリと分けるからこそ描ける物語があると、ポーンは思った。

 ポーンにとってはまさに神話の世界がそれにあたるのだが、その神話の系譜にあたるものとして、ハイファンタジー(現実の世界ではなく架空の世界のファンタジーとして定義される 出典:Wikipedia)が挙げられるだろう。


 有名なのがJ・R・R・トールキンの『指輪物語』である。


 神話の息づく世界、しいては人ならざる者も存在し得る世界の作品というのは、常にポーンに問いかけてくるのである。


 人間として、いかに生きるべきか? と。


 そんなポーンの記憶に残る信頼できる語り手『指輪物語』の忘れられないシーンがある。


 その昔、指輪を付け狙うどうみても敵の存在にしか見えないゴラムを叔父のビルボ・バギンズが倒し損ねたという話を聞いた際の、フロド・バギンズと魔法使いガンダルフのやり取りである。

 またこのシーンは二つの意味を持つ"Pity" (残念・惜しい/情け・慈しみ)という単語の名翻訳としても有名である。

 以下、ポーンから見た神視点の魅力を伝える名シーンとして『指輪物語』瀬田貞二さんの名訳を引用し、猫神への道を終えることとしたい。



  ◇



「……ビルボがあの機に、あの下劣なやつを刺し殺してくれればよかったのに、なんて情けない! 」


'……What a pity残念・惜しい that Bilbo did not stab that vile creature, when he had a chance! ' 


「情けないと? ビルボの手をとどめたのは、その情なのじゃ。無用に刺さぬ、これが情、慈悲じゃ。フロド、されば、彼は十分に報われたぞ。悪の害を受けること少なく、結局そこから逃れえたのは、かれが指輪の所有者となった時にそういう気持ちがあったからじゃ。情があったからじゃ」


'Pity残念・惜しい? It was Pity情け・慈しみthat stayed his hand. Pity情け, and Mercy 慈悲  : not to strike without need. And he has been well rewarded, Frodo. Be sure that he took so little hurt from the evil, and escaped in the end, because he began his ownership of the Ring so. With Pity情け・慈しみ. '



出典:

J.R.R. トールキン(1954)

『新版 指輪物語<1>旅の仲間 上1』瀬田 貞二・田中 明子訳、評論社文庫、1992

「二 過去の影」 p.134


J.R.R. Tolkien(1954)

“The Fellowship of the Ring: The Lord of the Rings, Part 1” Harper Collins Publisher London, 1999.

‘The Shadow of the Past’ p.78



  ◇



 大変長くなりましたが、最後までお付き合いいただき誠にありがとうございました。改めてお礼申し上げます。


 ご愛読ありがとうございましたm(_ _)m

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猫神への道 数波ちよほ @cyobo1011

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