いばらのとげが抜けるとき

シャガ

いばらのとげが抜けるとき


 ルカという、そろそろ二十三になる男がいました。ルカはただのルカでした。孤児院の出であったからです。

 ルカは書き物をして生計を立てていました。小国レイヌに一つきりの印刷所で発行される雑誌にやっと定期で載るようになったこのごろ。ルカが求め始めたのは、日々の、炊事だの洗濯だの買い出しだの掃除だのという雑事を一手に引き受けてくれる、ずばり家事使用人でした。

 むうん、とルカは顎に指を添えて悩みました。生計を立てているといっても、原稿料から毎月人件費を出すとすれば、雇えるのは当然一人っきり、という程度の稼ぎでありました。

 注文はそう多くつけるつもりもないんだけれど、と言い訳がましいことを自覚しながらルカは思いました。塵だの埃だのはそう気にしないけれど、紙やら散らばりやすいものが多いから整頓をこまめにしてくれる人がいい。あとは料理がうまいと嬉しい。洗濯は……まあ、別に、男一人暮らしのことですから気にしません、こまめにしてくれなくたって。ルカの生活の大半は書くことです。快楽のように書き、排泄のように書き、呼吸のように書く生活さえ維持できるなら、最低限のこと以外はどうだっていいのです。過去に何があろうと、外見がどうであろうと。

 次の日、ルカは世話役のいる斡旋所に朝早く足を運びましたが、求めているメイドにかかる賃金の相場を聞いて頭を抱えてしまいました。譲歩出来得る限りの予算に足らないのです。

「もっと稼ぐことだね、旦那。それか、他に手がないでもないが……」

「なに?」

「仲介料を払ってくれるんなら、仲立ちの手紙を書いてやるよ」

 夕方に出直しておいで、そう言ってさらさらと書きつけた紙を受け取ったルカがそれを読むと、首を傾げてしまいました。

「酒場?」

 酒場は日没前後に開店するので、その頃を見計らってルカは再び街へやってきました。酒場のマスターであるヨシュアとは昔からの馴染みでしたが、ルカはまるきり下戸であったので酒場にはあまり縁がありません。酒場に用事があるのは、酒飲み以外は荒っぽい冒険者ぐらいのものです。

「やあルカ。景気はどうだ」

「やあヨシュア。それが全く弱ってる。人材派遣所から手紙を預かってるから、まず読んでくれないか」

 そういって手紙を突き出すと、ヨシュアはじっくりとそれを検めました。最後まで読んでしまうと、ちらりとルカに探るような視線をよこして。

「安く使えるメイドが欲しい、と」

「……まあ有り体に言ってしまえばそうだ。ここを案内されたのは……あれなのかな、裏技的な何かがあるのかと思って」

「裏も当然裏だが、伝手がないでもないぜ」

「いくら?」

 ヨシュアが屈強な体を縮めてこそりとルカに耳打ちしました。破格も破格の賃金の額にかっと眼鏡越しの目を見開いたルカが食らいつくより早く、

「だが――何を見てもうろたえるなよ」

 ヨシュアが低い声で念を押すので、気圧されたルカはこくこくと子供のような仕草で何度も頷きました。


 先方に使いを出すのでしばし待てとヨシュアに言われるまま、ルカはカウンターで立ち飲みしながら待ちました。慣れない酒場の雰囲気にまごつきながらソフトドリンクを半分にした頃、背後から声をかけられます。

「ルカ?」

「――ヒュウ?」

 その青年は、同じ孤児院出身で四つ年下のヒュウでした。ヒュウは、ルカが成人して独り立ちするのと同じタイミングで修行のために教会を離れて魔法の修行に打ち込んでいましたので、以来それほど頻繁には会いません。けれどヒュウは有名でした。炎の魔法の使い手として軍入りして以来、魔物を駆逐する勢い猛々しく、入隊から三年ほどとは思えぬ厚遇を受けていました。下賜された緋色の肩掛けがそれを証しています。

 ルカは隣の席にヒュウを誘いました。人待ちの間の暇つぶしです。

 ヒュウは、ルカには到底口にできない度数の高そうな酒を注文しながら聞きました。

「今も何か書いてるのか」

「うん。雑誌に連載してるんだ」

「へえ、図書館で名前なんか見たことあったかな」

「……まだ本にはなってないよ、おあいにく様。それにペンネームを使ってるから名前も違う」

「ここで何でそんなもん飲んでる」

 ノンアルコールの飲み物を指されて、ルカは人待ちをしているいきさつを話しました。ふうん、とヒュウが相槌を打ったのち。

「都市部じゃ妖精も精霊もあまり見かけねえしな。うちには修業時代からの付き合いのブラウニーがいるけど」

「ブラウニー?」

「妖精だ。洗濯掃除してくれるぜ」

 ルカは身を乗り出しました。

「それ、僕にも使えない!?」

「無理だな」

 ヒュウがにべもなく断言して、そんな、とルカが情けない声をあげると。

「安く済む『裏口』の手を使いたがるやつに紹介はできない。家事手伝い妖精も信用社会だ。虐待なんかけしてせず、妖精や精霊が尽くすに足る善良な心持ちの人間であると断言できなきゃな。……そっちの場合その二点はともかく、報酬の新鮮なミルクや蜂蜜を長期的に安定して供給できるか? 割と家計に響くぜ、日々のことだから」

「……じゃあ今の僕は正式な紹介をしてもらうには足らない人間ということだね」

「もっと稼ぐことだな。それか『裏口』の紹介に甘んじるか」

「……原稿料の単価はそう上がらないから、量を稼ぐしかないよ。そのためには日々の家事を請け負ってくれる人がどうしても必要だ」

「じゃ、裏だな」

 気をつけろよ、となにやら忠言するくせヒュウの言い方はあまりに何気ないものでした。ルカもうっかり聞き流しそうになって、何を? と一拍遅れて問い返します。

「どんなのが来るかしらねえが、人間に近い女のなりした妖精や精霊は要注意だ」

「……どうして?」

「時々いる。ホレタハレタをやらかすやつが」

「まっさかぁ……」

 ヒュウの言いたいことを察して遮るほどの勢いでルカが吹き出すと、ちらりとヒュウが目線をよこして続けました。

「そして、懇ろになったくせ余所で不貞を犯して、殺されるやつが」

 ……まさか、と呟きながらルカが冷や汗を垂らしていると、近づいてくる気配に気づいたヒュウが顎でしゃくってみせました。待ちかねていたヨシュアの登場です。

「裏口に回れ。静かにな」

 声をひそめたヨシュアにそう促されて、ルカは慌てて立ち上がりました。

「……じゃあ、ヒュウ」

 別れの挨拶代わりに簡単に言いおくと、ヒュウは酒を傾けながらひらひらと手を振ってくるだけでした。


 ……“人間に近い女のなりをした”――

「カンナ、です」

 鈴を鳴らすような声と、ヨシュアの掲げるランタンの明かりに浮かび上がる姿にルカはごくりと喉を鳴らしました。ヨシュアからたったいま紹介された家事使用人候補である「彼女」は、声や言葉の調子はまったく人間らしいものには違いありません。

「びっくり、しましたか」

 おずおずとうかがうような目でカンナはルカに聞きました。ルカは正直に答えます。

「……すこし」

 カンナという少女は、人間らしい背格好で、また粗末な衣服を纏ってはいましたが、茨の棘と緑の肌に覆われていました。肩先まで伸ばした髪も緑色です。見るからに人ではありません。『いくらかは』人であったとしても。何と混じり合ったか詳しくは不明ですが、植物との関わりは間違いないでしょう。

 彼女は誰が見ても、亜人の一種でした。

 この小国レイヌの中に、彼らのテリトリーがあるらしいことはルカもおおよそは知っていました。けれど大抵は人目を忍んで生活していることも。

 立会人のヨシュアの重々しい表情の手前、ルカはなるべく動揺を押し込めました。カンナも口元は微笑んでいるけれど、表情はどことなく不安げです。

「あたしは、茨の精と人間から産まれました」

「……茨」

「はい。十八歳です。文字は読めます。料理と洗濯ができます。もちろんお掃除もするけど、たびたび棘がぽろぽろ落ちてしまうの……ごめんなさい。なるべく拾うようにします。踏んだら痛いから」

 それだけ言うと、カンナは改めて口の端を挙げて、ぎこちなく笑顔を見せました。カンナの自己紹介はそれきりのようでした。ヨシュアの目に促されて、今度はルカが口を開きます。

「あの、ルカといいます。……僕は朝食を食べないんだ。だから食事は昼と夜に用意して欲しい。掃除や整頓もこまめにしてくれると助かる」

 言葉を続けるにつれてカンナの表情が安堵に綻んでいくのを眺めながら、ルカはもう心に決めていました。カンナが安心した通り、ルカはもうカンナを雇う心づもりでいました。

「あと洗濯は、まあ、」

 ルカは、間借りしている共同住宅の近所の井戸に集まる奥さん連中のかしましさを思い出しながら、曖昧に言いました。

「たまに……折を見て、してくれたらいいや、洗濯は」

「……じゃあ、じゃあ、雇って下さるんですね」

 目を輝かせながら確かめるカンナに頷いて見せて、ルカはちらりヨシュアに目をやりました。

「この場で早々決まるとはな。……よかったな、カンナ」

「はい」

 ヨシュアに優しく言われて、カンナは嬉しげに目を細めます。彼女の肌や髪を彩る緑色という人間にはない色や、こめかみ辺りをびっしりと覆う棘につい目がいきますが、穏やかな表情をしていると人間らしい風情をしているといえました。じきに慣れる、とルカは自分を納得させます。

「……決め手は? こうも早く結論を出したのには理由があるのか?」

 ヨシュアに聞かれ、カンナも関心を示して視線を向けてくるのを感じながら、ルカは正直に言いました。

「僕、専業作家になる前は印刷所で働いていたんだ。だから知ってるんだけど……茨はインクのもとになるんだ。僕の稼業からすれば、彼女の出生は縁起がいいよ」

 決め手といえば、それかな。ルカが頭の後ろをかきながら言うと、ヨシュアは苦笑しつつも納得したようでした。お前らしいよ、と。

 カンナはカンナで、何か神々しいものを見るような目でルカを眺めていました。ころりころりと何かが足下に落ちて、見るとそれらは棘でした。バラ科を思わせる形状の、小さくも鋭く、刺さればいかにも痛そうです。

 確かにたびたびぽろぽろ落ちる、と自己申告はありましたけれど。目を丸くしてルカが目をやると、カンナは恐縮したように肩を縮めて弁解しました。

「うれしかったり、ほっとしたりすると、取れてしまうの……ごめんなさい」

 カンナは慌てて身を屈めて、棘を一つ一つ拾い上げていきます。両の脚を揃えて膝をつくそれは、ぎこちないけれど女性らしい柔らかな所作でした。特異な外見に目を奪われる一方で、ああ女の子なんだな、とルカは素直に思いました。ルカはその所作を、この先何度となく目にすることになります。


 立会人のヨシュアが認めたので、ルカは次の日からでも来て欲しいと申し出、カンナはそれに応じました。

 翌朝。初出勤のカンナは、肩から下げるタイプの前掛けをつけていました。使い込んだ風合いからして、彼女の仕事着なのでしょう。僕の前にもどこかで働いていたのかな、とルカはちらり思いました。

「ルカさん、まず何したらいいでしょう」

 あまりかしこまった調子のカンナに、ルカは慌てて手を振りました。

「あの、ルカでいいよ。敬語もなし。仕事以外は、気楽にしてくれていいんだ。僕もメイドさんなんて初めてで、慣れなくてさ」

 ころり、と棘が落ちました。カンナの表情が和らぎます。初出勤で彼女も緊張していて、ルカの言葉にそれがほどけたのでしょう。慌てて棘を拾い、カンナは仕切り直すように背筋を伸ばしました。

「……じゃあ、ルカ。あたし、何したらいいかな。まずご飯にする?」

 砕けた口調にルカもすこし笑って、「うん、お願い」と答えました。

 その日はルカが買い置きしていた食材があったので、それで食事は済みました。けれどルカの月々の食費などたかが知れていて、カンナは限られた食材でよく工夫してくれました。昼食の席、ほこほこと湯気を上げるスープ皿から漂う美味しそうな匂いに目をみはりながら食卓についたルカは、隣の書き物部屋で書き散らしやメモの類を整頓しているカンナの背中に向かって「すげえ! うまそうだね!」と思わず叫びました。

 カンナは手元を止めず首だけルカの方を振り返りながらはにかみ、耳がじんわり色づいているのが見て取れます。明らかに誉め言葉に慣れていない風情に、こんなに美味しいのに、と一口匙をすくって口に入れたルカは不思議に思いました。

 昼食の食器を片づけたカンナが今度は夕食を仕込むというので、その間にルカは書き物机に向かいました。カンナの仕事は静穏なもので、ルカはいっそう集中できました。集中しすぎて、日没が近づき手元が暗くなってようやく目を上げたほどです。気づけばカンナは書き物部屋の入り口に立っていました。前掛けを畳んで持ち、どれほどそうしていたのでしょう、じっとルカを待っていたようでした。ルカは慌てて椅子から立ち上がります。

「ご、ごめん」

「ううん、集中していたから。夕食はできてます。こっちもちょっとだけ掃除しておきました。じゃあ……今日はこれで帰るね」

 ありがとう、とルカは心を込めて言いました。そして、おそらくこれは遠慮がちなカンナのことを励ます意味で、ルカの方から「また明日」と付け足しました。案の定カンナはほっとしたように、またころりと棘を転がして、また明日、と答えてその場を去りました。棘を落としたことに気づかなかったようで、ルカは床に落ちたそれをそっと拾い上げます。

 それを手のひらに転がしながら、じわじわと爽快感がこみ上げました。上げ膳据え膳で、食器の片づけもしなくて済み、書き物机の上や引き出しの中がすっきりして……ルカはいっそ感動しました。人手があるというのはなんてラクなんだ、と。『裏』の手とはいえ、亜人とはいえ、誰かを雇えるほど稼げるようになってよかった、と心底から思いました。家事が減れば、それだけ執筆に時間をかけられるようになるのです。

 手に乗せた棘を試しに軽く握り込んでみると、当然痛みが走ります。カンナの仕事ぶりや人柄の印象を思い起こして、ルカはぼんやりしました。おびただしい数の棘を持つ彼女は、常にこちらの表情をうかがいながらおずおずとした微笑みをたたえて、まるで他人の棘におびえているようで……

 日が沈み、真っ暗になりました。ルカの思考が切り替わります。ああ、ヒュウのように炎の魔法が使えたら、明かりを灯して一晩中でも執筆に費やせるものを。幼い頃から、ルカに魔法の素質は全くありませんでした。明かりの油も豊富に買える家計ではないのです。早々に寝てしまうことにしました。


 明くる日。拵えた昼食をルカに食べさせている間、木製のしっかりした机と椅子を磨いていたカンナは、ふと書き掛けの原稿に目を落としました。文字を追う視線は次第に熱を帯びて、身を屈めて原稿にかぶりつき、やがて原稿を両手で支え持って眼前に掲げるほど夢中になる有様でした。ころりころりころり、と連続した音を聞き、隣室でちぎったパンを飲み込む途中でカンナの様子に気づいたルカは、慌てて嚥下して声をかけました。

「カンナ、読んでもいいけど、汚さないでね……」

「――すごい!」

 カンナのはしゃいだ声がしました。初めて聞く声でした。ルカが呆気にとられるその短い間に、狭い部屋を横切ってカンナがルカのもとへ駆け寄り――迷いなく抱きつきました。腕や首もと、その他どこといわずざくざくと刺さる棘に、いってえ、とルカは叫びをやっと胸中に押しとどめます。そして、ぐさりとした痛みの他に、くにゃりとした柔らかい触感、ほのかな花の香り……。

「すごい、すごいわルカ! あたしこんなの初めて、こんな、こんな素敵なものが書けるなんて……」

「カン、カンナ、カンナ、痛い……」

 ルカが痛みをこらえてやっと声を振り絞ると、我に返ったカンナが飛び退きました。

「ごめんなさい!」

 打って変わって顔色を失ったカンナの様子に、怒る気も失せてルカは苦笑しながらひらり手を振りました。

「い、いや。……そんなに感激した?」

 カンナの恐縮をなだめるつもりで話題を振ったルカは、おや、とふと気づきました。カンナの顔立ちが先ほどまでと違って見えます。けれどカンナはルカの様子には気づかずに、ほっとした様子でこくこくと首肯しました。

「ええ、とっても……女神様の話ね。あたしも知ってる話だった。でも、ルカの文章だと、もっともっと素敵なお話になってた……」

 目を輝かせたカンナは見るからに陶然としていて、その直裁な反応にルカは照れ混じりの微苦笑で応えます。

「聖書のエピソードの編み直しなんだ。そういうのじゃないと、僕みたいな若造の文章は印刷してもらえないから……」

 言葉の途中で、ルカはカンナの何が変化したのか気づきました。彼女の顔から、こめかみから額までの辺りを覆っていた棘のほとんどが抜け落ちたせいで、受ける印象が変わったのです。それだけでずいぶん人間らしく、年頃の乙女らしく目に映ります。彼女の背後に目を凝らせば、いくつもいくつも棘が転がっていました。

 ――うれしかったり、ほっとしたりすると、取れてしまうの

 あー、と意味のない声を上げながら、ルカはぽりぽりと頭を掻きました。初めて会った時の彼女の言葉が本当なら、ルカの文章を読んで受けた感動も本物なのでしょう。……そんな風に自分の文章が受け入れられるのは、ルカには久々のことでした。嬉しいけれど、いささか照れてしまいます。

(孤児院の頃のこと、思い出すな……)


 幼いルカは、物語の空想をするのが好きでした。教会の蔵書から子供向けの本を引っ張り出して読んでは、夜寝そべる間、頭の中で自分の物語として取り込み直すのでした。

 ルカの父親は旅人でしたが、途上で病を得、五歳のルカを伴って小国レイヌの教会にたどり着くなり見る見るうちに衰弱していきました。若くして教会と孤児院の長であるルロイ神父は彼を寝台に寝かせ、薬を調合し、根気強く励ましましたが、芳しくありませんでした。ルカが未だただのルカであるのは、神父が何度耳元で聞いても、自らと我が子の姓を口に出す力も残っていなかったからです。

 彼は一つの弦楽器のみを息子に残して、息絶えました。

 ルカは毎日毎夜嘆き、けれどいつまでも悲しみが癒えないので、やがて空想で紛らせることを覚えました。神父が毎日少しずつ孤児たちに物語る聖書のエピソードの中に、女神が死者を蘇らせるものがありました。ルカは蘇る死者に父の姿を重ねました。そうすると時々、夢の中で父に会えるのです。

 これを神父に語って聞かせると、着想元があるとはいえ、物語として順序よく組み立てられていて、独創性もあるのに神父は感心しました。そして、書いてみなさい、とルカに促しました。紙と筆記具を与えられ、聖書のエピソードを巧みに改変しては、神父を喜ばせました。孤児の仲間たちにも語って聞かせると、おもしろい、もっと聞かせて、と口々に感想が飛びます。ルカが作家を志すきっかけでした。

 他にも、父がたった一つ残した弦楽器を弾くのにも慰められました。まだ幼い孤児仲間のヒュウが気に入って何度も演奏をせがむので、腕は上達し、長じるにつれて記憶の中の父が爪弾く音色に近づいていきました。ルカはこうして父の喪失につきまとう悲しみを徐々になだめていきました。懐かしい記憶です。……思い出せばとらわれてしまいそうで、長いことなるべく押し込めていた記憶でした。

 でも、過去を詳らかに思い起こしても、心は穏やかです。ルカは少しぼんやりしました。


 ルカは書き物に夢中になると食事が疎かになります。度が過ぎて空腹で目を回すまでぶっ通しで書いたこともあって、でもカンナが来てくれた今はそんなこともありません。それから二、三日、美味しい食事でくちくなった腹具合で書く文章は、時間をかけて丁寧に練り上げることができました。

 仕事に満足すれば視野も開けて、勤め始めたばかりのカンナに世間話を振る余裕も出てきます。カンナは、昼食に同席するよう誘っても断るので、それがどうしてなのか聞きました。

「まかないだと思って、自分の分も作ってもいいのに」

「あたし、朝と晩しか食べないから……」

「へえ、僕と同じだね。一日二食なんだ」

 ルカもカンナも共にやせっぽちです。

「カンナは一人暮らしなの?」

「いいえ、……伯母さんと一緒に住んでるの。伯母さんの分の食事を用意してからここに来ているわ」

「あぁ、だからあんなに料理が上手なんだ」

 ……その伯母は人間なのか、亜人もしくは茨の精なのか、と聞くほどデリカシーがないわけではないルカでしたが、ちらっとそんなことを思わずにいられませんでした。

 カンナの日々の掃除は細やかでしたが、仕事を終えて去ったあと、必ずいくつか棘の取りこぼしがありました。その棘を拾い上げては、ルカは思うのです。喜びや安堵で棘が落ちるなら、その逆は? ……ルカの原稿を読むなり涙ぐむほど感激してルカに抱きついてきたあの日、いくつも棘が抜け落ちたことであらわれたカンナの乙女らしい表情は、明くる朝にはもう棘に覆われていました。同居の伯母のことを話した時の隠しきれない顔の翳り。初対面の時から感じさせた、他者に対する遠慮と怯え。ルカ、と些細な用事で呼ぶ時の、「どうか怒らないで」と縋るようなおずおずとした響き。

 契約では、報酬は週給制でした。週末に現金を渡しても、カンナのどこか不安げな表情は晴れず、ルカが「来週もよろしくね」と言葉にして初めて安堵して緩み、そして棘を転がすのでした。まるで、今日限り来なくていい、と言われるのを恐れているように。

 実際に、そんなことを言われたことがあるのでしょうか。もしかしたら一度ならず、何度も。

 職業柄、想像は明確で写実的になる一方です。ルカの胸も痛みました。カンナが家事を一手に引き受けてくれるおかげで、ルカの原稿は捗っています。でも、家計はまだまだ綱渡りです。

(……もっと原稿料がもらえたら、いつまでも勤めてていいよって、言えるのに)

 そう言ってやれたら、カンナはどんな顔をするでしょう。安堵し、歓喜して、棘がいくつ落ちるでしょう……。


 ある日、ルカは正体の分からない曖昧な物思いに支配されて、日が高くなっても珍しく書き物が捗りませんでした。こんな時に手慰みにするのは、父が遺した弦楽器です。爪弾いては弦を調節して、やがて納得のいく音が出ると、指先は意識と無関係に旋律を追います。

 そばの台所ではカンナが昼の支度をしていましたが、旋律が響き渡ると、包丁の音が止んで、じっと聞き入る気配がしました。聞き手がいると思うと、ルカは爪弾く指先に自然心を込めました。魂の震え上がるような演奏ができるわけではないけれど、カンナもこの音楽を楽しんでくれたらいい、と思って。

 気が済むまで音を奏でても、それほど時は経っていないでしょう。音が止んでほどなくそっと書き物部屋をのぞき込んできたカンナの表情は、ルカが期待したほど純粋な歓喜に彩られてはいませんでした。ルカは少々落胆して、そしてそんな自分の心持ちに首を傾げました。

「恋の歌ね。あたしも、聞いたことがある……」

 少しばかり複雑な色をしたカンナのその面差しに、まあそう上手い演奏じゃないしな、と咄嗟に自分を慰めたルカは、続くカンナの言葉に呆気にとられました。

「――ルカは、恋をしているのね」

 思ってもみない言葉でした。ルカにはまったく心当たりがありません。だのに一挙に頬に血が上って、ばくばくと鼓動が踊り狂って弾むのです。図星を突かれたと表明しているようなものでした。待て待て待て。恋をしている? 誰が? ――僕が?

 頭の中の辞書がばらりとめくられその頁を指しました。恋。特定の誰かを強く慕うこと。切なくなるほど好きになること――

 刺さると飛び上がるほど痛い棘に痛々しく覆われた、けれど触れると柔らかな体。感動を極めると匂い立つ、かぐわしい花の香り。

 ……改めて思えば、翻って心当たりはありました。そんなの、一人です。たった一人きりです。

 絶句するルカに、努めて声を励ましたカンナが、お昼できたよ、とようやく言うのでした。


 その夕刻、帰路に着くカンナの顔色がひどいものであることに気づける人間はそう多くありません。瞠目し、警戒し、忌み嫌い、あざ笑っても、慮って気遣う存在など。

 ルカが恋をしている。そう気づいた今日より遙か前に――否、たぶん初めから――カンナはルカを愛していました。

 恐れていた日がきた、とカンナは痛みを堪えるように目を細めます。傷心に喘ぐ彼女の背に、あらゆる回想が追い打ちをかけました。

 同居する伯母の、正真正銘の人間である彼女から受ける皮肉は日々冷たいものでしたけれど、感激のあまりルカを抱擁した日の夜のそれはとびきりでした。人並みの娘みたいな顔して、まさかとは思うけれど。そう白々しい前置きをして。あんたの人生は、その棘だらけの皮膚と同じだと、まだ自覚が済んでいないのかい? ――愚かだねえ。

 ケチな給金しかもらってないんだろ、労働なんかやめちまいなよ。食わすだけは食わしてやるっていってんだから、感謝してひきこもってりゃいいのに。あんたなんか外を歩いたら、さんざに言われてるのくらいお見通しだよ。

 カンナの労働を反対する伯母の言葉は正しいものでした。市場で食材の買い物をしているだけで、へえまるでまっとうな人間みたいな食事をするんだな、なんて商人に囁かれることもあります。胡乱げな目つきで、霞でも食ってる手合いなのかと思ってた。気味悪いね、と迷惑そうに言われることも。

 なるべく人のいない時間帯を選んで井戸端で洗濯している時も、聞こえよがしなひそひそ声がするものです。まさか。ねえまさか。物書きってのは奇っ怪な人が多いんだろうけどさ。くすくす。だからって、よりによってさ。くすくす。――連れ込むのが、アレかい?

 心ない言葉に傷ついても、カンナを励まし支えたのはルカの存在でした。カンナの作った食事を美味しいと喜ぶ無邪気な表情。整理整頓をするたび、ありがとう、と律儀に伝える誠実な言葉。去り際に、また明日よろしくね、とかけてくれる優しい声。

 ルカだけはあたしを必要としてくれる。安い給金で使える亜人だからというきっかけだとしても、ルカだけは。

 ……そのルカが恋をしました。爪弾く旋律に、恋する者のため息が混じっていました。何より、指摘した時の赤面した表情。なんて純なる反応だったでしょう。自覚もなく落ちるほどの、心に刷り込まれていた恋。

 誰が好きなの。どれくらい好きなの。結婚したいほど? あの反応を見ると、まだそこまで考えてない?

 ルカの恋が成就したら。仕事がうまくいって稼ぎがよくなれば。もしかすれば順当に結婚という成り行きもあるかも知れない。そのときカンナの存在はお払い箱になるか、あるいは愛し合う二人のそばで引き続きメイドをやることになるか――

 は、と苦しいため息をつきながら、カンナは一時だけ不安を夜空に放ちました。先のことを考えすぎても詮無いことです。少なくとも明日は、またルカのそばで勤められるのです。だって今日も、また明日よろしくね、と送られたのだから。

 でもそれが、いつまで続くのか……

「そこのお嬢さん」

 呼ぶのは優しく穏やかな老婆の声でした。呼びかけられたカンナはぞっとしました。亜人のカンナをそんな風に親切に呼ぶ手合いなどそうありません。初めて聞く声ならなおさら。

 カンナは飛び退かなかったのが不思議です。すぐ傍らにその老婆は立っていました。杖をつき、黒いローブのフードを目深に被って。

「ああ、かわいそうに、泣き出しそうな顔をしているね。お前さんくらいの年頃の悩みのことならようく知っているよ。かなわぬ恋をしているんだろう? ……この婆がなんとかしてやろうか?」


 想い人当人から気づかされた恋がもたらす影響は深刻なものでした。ルカは、みんなこんな思いをしているのか、すげえな、と時々我に返るほど、カンナに対してわかりやすい恋煩いをしていました。遅い遅い初恋です。

 注視しすぎてもおかしい。そういってずっと目をそらしているのも奇妙です。すぐそばにいると落ち着きません。けれど、やるべき仕事を終えた彼女を見送ったあとは、心が千々に乱れるほど恋しくてならないのです。カンナの作った美味しい食事が喉を通らない時さえあります。

 恋煩いが切迫さを増すのは、カンナの様子もありました。このごろのカンナはいつも憂いを帯びた表情で、俯いてばかりいます。目に見える部分の棘の数がぐっと増えた気もします。途方もなく深い悲しみが察せられて、ふっと消えてしまいそうなほど儚げです。恋する人の痛々しい様子に、ルカはたまらない気持ちになりました。

 何とか元気づけたいと思って、ルカは捗らない書き物を何とか見れるようにして書き上げ、それとなく机に置いてみたりしました。出来がよければ、彼女の琴線に触れて、いつかのように喜んでくれるかもしれないと思ったのです。(あわよくばまた抱きついてくれるのではないか――というところまで期待したのは、不埒といえば不埒なのかもしれません。)

 けれど朝から働くカンナはその原稿も目に入らないようで、黙々と机上の整理整頓をしています。浅知恵が無惨に終わったことを落胆するより、ルカは意を決しました。

「ねえ、カンナ――」

 なるべく優しく穏やかな調子を心がけてルカが声をかけると、カンナは緩慢に目を上げてルカを振り返りました。なあに、と暗い表情から一転、賢明に微笑んで見せます。ずきん、と音を立てたかと思うほどルカの胸が痛みました。おかげで言葉が少ししどろもどろになってしまいます。

「あの……なんだか、カンナこのごろ、あまり元気がないようだから……どうしたのかな、って思って、……心配で」

 ――でもそれがもし給金が少ないことが原因なのだとしたら僕も本当に本当にもっと頑張りたいなって思ってるしいや最近ちょっと捗らないけどでも本当に、と冷や汗を垂らしながら小声でまくしたてるルカに一瞬呆気にとられて、カンナはゆっくりと首を振って否と示して笑んでいました。

「そんなことないわ、ルカ」

 ……笑っていなければ泣き出してしまいそうな表情に。ずきん、とまた大きな一打ちがやってきて、ルカは思わず目を細めました。あのときと真逆の表情。泣き出してしまうほど笑っていたあのときとは、まるで。

「なんでも、ないの」

 目を伏せて、カンナがつとめて何でもないように言います。

「なんでも、ないから……」

「……僕では、……頼りにならない?」

 声がかすれそうになるのを叱咤しながら、ルカは追い縋りました。

「カンナが元気になるように、僕にできることはない……?」

 力になりたい。

 元気になって欲しい。

 ……笑顔が見たい。

 そう思って、ルカは必死で言葉をかけたのに。

「……カン、ナ」

 カンナが苦しげに喘ぎながら、懇願しました。ああ、見ないで、ルカ。どうか。

 醜いこのあたしが、もっと醜くなる瞬間を――

 ぶわり、といくつもの棘が皮膚の表面に押し出される瞬間を見て、ルカは息を呑みました。額。こめかみ。首もと。手先。外から皮膚が見える部分が軒並み、びっしりと棘で覆われていくのを、なすすべなく。

 ふいにカンナの唇の端が、ふっとほころびました。取り繕うこともかなわなくなった末に、諦めで力が抜けたのでしょう。決壊したように目の端から透明な涙がぼろりこぼれて、とめどなく幾筋も流れていきます。彼女の望みが絶えた瞬間を見たような気がして、ルカはぞっとしました。

「……ルカ」

 こいねがうような、けれど弱々しい響きに呼ばれて、どうしたの、とやっと応えると。

「……式も、誓いの言葉もいらない。だから、あ、あたしのこと、およめさんにしてほしい。み、三日間だけで、いいから……」

 ルカはぽかんとしました。願いの唐突なこともさることながら、その不可解な限定は何か。……その不穏な限定は、何なのか。

「なん、で、三日……?」

 言葉にしようのない嫌な予感にルカの胸がざわめきました。泣き続けるカンナがつっかえつっかえ言葉を継ぎます。

「み、三日だけなら、……人間に。……は、肌の、白くなめらかな、当たり前の人間に、なれる、って」

「……その、三日を過ぎたら……どうなるの」

 カンナは唇を薄く開いたまま、ぼんやりルカを見返しました。いいえ、見ていませんでした。虚空に視線をやったに過ぎない、儚い眼差しでした。

「――……きっと、茨が残るわ」

 ルカが、あたしを選んでくれたきっかけの茨が。そう言って、カンナは小さな笑みを浮かべました。

 ――茨はインクのもとになるんだ。僕の稼業からすれば、彼女の出生は縁起がいいよ――

「それをインクにして、使ってくれたら……ルカの本の一部になれるなら……」

 そんな幸せ、他にない。


 しんとした沈黙が落ちました。けれど十秒と続きませんでした。カンナが初めて小刻みに震えるルカの肩を見留めたその瞬間、ルカが絞り出すように口火を切りました。

「……だめだ。そんなのだめだ。絶対にだめだ!! 誰が……そんな、命を引き替えにするようなこと、いったい誰が……」

「魔女よ」

 カンナが、奇妙に冷静な声で言いました。

「黒魔術に手を染めた、悪行多き魔女よ。同業者を妬む娼婦に力を貸してるのを見たことがある。死ぬほどではないけど、熱病にかかったようにひどく気だるい状態が続いて、仕事にならなくなる呪いとか……。代償さえ払えば、何だってできるとあたしにも言ったの。あらゆる苦しみから逃れられると」

 しばらく平坦だったカンナの声の調子が、だんだんにひくついていきます。

「……伯母さんの嫌味も、街の人たちの心ない言葉も、も、もう耐えられない。このまま惨めに人生が続くのなら、いっそ、……」

「カンナ」

 聞いていられなくなったルカがなだめるようにカンナの手を取りました。

「それなら、悪い魔女は抜きだ。三日間なんて限定もなしだ。結婚をしよう、僕と、ありのままのカンナで」

「……冗談言わないで」

「冗談なんかじゃない。僕はカンナが好きだよ」

 カンナは打ちのめされたような表情でルカを見返しました。身をよじって手を払おうとしても、ルカは棘が食い込むのも構わずカンナの手を握りしめたままです。

「……、……あたしの母は、父をとり殺して死んだの。誓いを立てて結ばれたのに、他の女性に心を移したから……」

 ――懇ろになったくせ余所で不貞を犯して、殺されるやつが――

「あたしは、あたしたちは、そういう風にできているの。あたし、あなたを殺したくない――死ぬなら、あたし一人で……っ」

 秒ごとに思い詰めていくカンナを必死になだめる一方で、ルカはこんなタイミングで不可思議に思い出していました。遙か幼き日の孤児院の仲間で、二つ年下のエキドナという少女がいました。どんなにひどい癇癪を起こす子でも、エキドナの手にかかれば気持ちを和らげ落ち着かせることができました。どうしてそんなことができるの、と感心して聞いたルカに、エキドナはこともなげに応えてくれました。

『要は言い方よ。同じことでも、違う言い方をすればいいの』

 ――来い、じゃなくて、おいで、だと、受け取る方の気持ちも違うでしょう?

 細腕でも、ルカは男でした。カンナの抵抗を軽々ととはいわずとも程なくいなして、両腕の輪っかに閉じ込めてしまいます。するとカンナはいっそう暴れましたが、ルカは強く抱擁して、そして。

 ぽんぽん、とうって変わって優しい手つきでその背を叩きました。

「わかったよ。カンナの気持ちはよくわかった。でも僕は、カンナの雇用主だ。それを呑むわけにはいかない。結論はまた持ち越しで――とにかく明日も、仕事にここへおいで」

 カンナの耳元で穏やかに囁けば、困惑したのかカンナの抵抗は止みました。

「……待ってるからね」


 その日、ルカはカンナを早く下がらせました。そして初めて自宅まで送っていきました。泣き叫んで疲れた様子のカンナはおとなしく、けれど時々人目を気にして不安げに周りを見渡していました。ルカはあえて言葉少なに道を行き、彼女の家の玄関先で「また明日」と念を押すにとどめました。カンナは泣きはらした目でもの言いたげな表情のまま、振り返り振り返り扉の奥に消えました。

 まだ夕暮れが始まったばかりの、いくらか明るい時間帯でした。ルカはカフェに飛び込んで、立ち飲みスペースで果汁ジュースを傾けている男に声をかけます。なんとかいう難しい女性の心を射止めたとかで、一時話題になったリン・メイスフィールドという若い青年でした。

 急に声をかけられて疑問符を掲げている彼に、ルカはまた聞きました。

「好きな人を射止めるには、どうしたらいい? ……なにをしたら?」

 唐突でも真剣さだけは伝わるルカの目の色に、リンはしばし呆気にとられつつも、やがて言葉を探し始めました。

「……雨乞い? かな?」

「雨乞い?」

「何で雨乞いが成功するかって、雨が降るまでやるもんだからだろ。……落ちてくるまで口説き続けるんだよ」


 次の日、ルカはカンナを自宅まで迎えに行きました。初めに応対したカンナの伯母らしき人間は驚いた顔をして何か言い掛けていましたが、奥からカンナがおそるおそる出てくるとルカは急いで彼女の手を引いてその場を後にしました。

 カンナは複雑な色を目に浮かべてだんまりしていましたが、昨日よりは遙かに落ち着いた様子です。ルカの部屋に着くと、カンナはいつも通り料理を作り、整理整頓をして、

「あ、洗濯はいい」

 とルカに遮られて、ぽかんとすると。

「空き時間に僕がやるから」

 カンナは何も言えませんでした。けれど、ころり、ころりと棘がいくつか落ちました。

 帰り道はまたルカが送っていきました。こうして送迎をすれば、魔が差して魔女のもとへいくこともありません。

 ルカは書き物に熱意と精度が増して、以前に比べ俄然精彩を放つようになり、必然印刷所からの仕事の依頼も増えていきました。週に一度カンナに払う給金も割増になり、カンナは皮肉でも何でもなくこう聞いたくらいです。

「これだけ払えるなら……普通の人間のメイドを雇えるんじゃない……?」

 ルカはにっこりして言い返しました。

「カンナじゃないと嫌だ」

 カンナは困った表情を浮かべて、それでもころり、棘が落ちました。


 ルカの変化を受け入れるには時間がかかりました。カンナは依然怯え続けていました。そのうちに優しい彼の同情と愛想が尽きて、もう明日から来なくていいよ、と言われる日が来るのではないかと。

 勤めはルカの部屋でするのが初めてでした。同じ家事をしていても伯母の皮肉と冷笑のない時間は快適で、深く息をつくことができたものです。これ以上の職場が次も望めるかしら、と思うと不安で涙ぐんでしまいます。次の雇用主も同じくらい優しい人だろうか。場所が変われば、たびたび盗み読むルカの原稿から得られる感動ともお別れです。本は高価なものだから、カンナの懐具合では到底賄えません。

 本心では、カンナはずっとルカのもとにいたいのです。おそるおそるその本音をこぼせば、ルカはじれったそうに、それでもほほえみながら、そうしていいんだよ、と言葉を重ねました。

「――僕は、カンナが好きだから」

「こんなに棘だらけなのに? なめらかな白い肌をしていないのに? 人ではないのに……?」

「それでも、好きだよ」

 朝、君を待つ間の落ち着かない心持ちや、姿を目にした時の心の弾みよう、夜別れる時の耐え難い寂しさを、全部手にとって見せて、聞かせることができたらいいのに。難しいね、とルカは苦笑しました。――でもこれでもルカは物書きでしたから、ありったけの言葉を駆使してカンナに伝えることをいつも惜しみませんでした。そっとカンナの手を取り、甘くかき口説くのでした。

 

「棘が落ちると、カンナの表情がよく見えていいね」

 ルカはカンナの頬に手を添えて言いました。日々を重ねていく内、その距離が許されるようになったのです。頬を一撫でするだけで棘が落ちた時は、カンナの胸中の甘いさざめきを目にしたようで嬉しくなるのでした。

「でも、伯母さんのもとへ帰ればどうせまた増えるから、堂々巡りだよ」

「――じゃあ帰らなきゃいいじゃない」

「……え」

「大丈夫。すぐにカンナの分の家具、そろえるから。あーでもここじゃ狭いな。いいやもう、引っ越そう」

 ルカは宣言したその日の内に近所から新しい空き部屋を探し出してきて、家具職人に注文を届けてしまいました。

 初めは台所にあった小さな丸椅子に腰掛けていたカンナでしたが、やがて新しい部屋に置かれたゆったりとした揺り椅子に。もう少し経つと二人が寝られるサイズのベッドの端に。もうしばらく経つと、ベッドに腰掛けたルカの膝の上に。

 街が寝静まった夜に、二人の部屋では、ころりころりと小さな音がします。何となく湿っぽい空気の中、ルカはみずからの膝上に乗せたカンナのむき出しの脚を優しく撫でていました。時折細い首筋に唇を落とすと、カンナが悩ましく息をついて肩を竦めます。原稿を仕上げた夜などは、こうして手指や寄せた鼻先でカンナの肌を探って棘を落とすのが恒例になっていました。今は、しばらく探さないとなかなか棘が見つかりません。

「もう、無い……っ」

「ほんとに?」

 ルカがくすくす笑いながら聞くと、緑がかかった肌を濃く色づかせて、カンナが恨めしげにルカをねめつけます。涙目で迫力が無く、むしろルカの心をぐずぐずにしているのを知っているのかどうか、カンナはふいに目をそらして。

「……さっき、読んだの。脱稿したやつ……」

「ん? うん」

 そればかりは目を合わせて言わなければ、という思いがあったのか、カンナは上目遣いにルカの瞳を見つめました。

「やっぱり、とっても、素敵だった」

「……ありがとう。カンナに誉められるのが一番嬉しいよ」

 そう言って照れたように笑うルカに、カンナは一瞬、苦しげにも見える甘い表情を浮かべました。ルカの寝間着の胸元あたりをきゅっと掴んで、うろうろと視線をさまよわせて……最後にはやっぱり目を合わせて。

「あたし、ルカの文章が好き……」

「うん、ありが――」

「……ルカのことが、好き」

 だから、ときれぎれに囁くカンナの唇のわななきに、ルカは目を奪われて黙り込みました。

「あたしを、お嫁さんにして……?」

 不安と甘やかさの同居した声がこぼれた後、カンナの方から初めて口づけられて、ルカの五感は一瞬時を止めました。ほどなく真っ先に蘇ったのは、布を引くようなさやかな音。ついで視界に映る、カンナの意を決した、けれど不安げな表情。ああ早く、棘の生まれてしまう前にとルカは口づけを返して、ぎゅうっとカンナを抱き込みました。その瞬間に音の正体に気づいて、ルカは泣き出しそうに笑います。

「雨だ」

 やっと降った、と呟くルカに、腕の中でカンナは不思議そうな顔をしていることでしょう。訳を知らせてやりたいのに、こみ上げる喜びが胸の中で暴れ出して、どうにもならないほどで……。

「……よくわからないけど、雨が嬉しいのね?」

 濡れたまなじりをカンナに拭われて、ルカはほっとしながら「うん」と素直に頷きました。雨乞いは、一年がかりでした。

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いばらのとげが抜けるとき シャガ @filifjonka

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