第20話 二人だけの世界
十月に入り、季節はもう秋だ。
木々はところどころ紅茶のように薄茶色に染まり始めていた。気温は安定し始め、突然暑くなったりすることはなくなった。もう思い出すだけで夏なんてうんざりだ。どこもかしこもうるさくて蒸し暑い。だから落ち着いた秋が一番好きだ。
そして衣替えの時期。ズボンを履き、ワイシャツを着たらボタンをしめるだけで済んだ朝の支度に、今日からブレザーとネクタイが追加される。夏服に慣れきっていたのでこの二手間がとても面倒に感じた。どうせこれもまた慣れてしまうのだけれど。
「おっはよー! しっずまぁ!」
校門を過ぎる時に声をかけられた。振り返るとおれは思わず「おぉ!」と声を上げた。
「ニーソ!」
津布楽さんはニーソで脚を黒に染め上げていた。空手で鍛えられたであろうその美脚にニーソなんていう神器を追加してしまったらもはや芸術だ。
「えっへん! そう、ニーソです! でもそこまで喜ばれるなんてびっくりだよ。静真が露骨に興奮するところ初めて見たかも」
「ニーソは良い……。嫌いな男はいないぞ」
「そうなの? そんなに好きなら自分で履けばいいのに」
「そんな悲しいことできるか!」
彼女はブレザーに突っ込んだ手でパタパタと鳥のようにはためいて笑った。そういうちょっとした仕草がたまらく可愛い。恋人同士になってから可愛さは増すばかりだ。現在進行形で可愛さのインフレーションが起きている。デフレーションする気配は今のところ全くない。
「静真って変わったね」
「そうか? 何も変わってないと思うけどな」
「変わったよー。前より明るくなってる! 言葉数も増えたし、よく笑うようになった! ふふん、きっと私のおかげだね。私と一緒に居て楽しくて幸せでしょうがないんでしょ? うれちー」
「自覚はないんだがなぁ。津布楽さんだって――」
彼女はいきなりおれの袖を掴んで頬を膨らませた。何事かと思ったがすぐ原因に気付いた。下の名前で呼び合うと約束していたのだった。
「悪い、癖で。紅羽だって変わった」
「はい、よろしいです。それでどこが変わったのかな?」
「最初は、あぁ鈍感でどこか抜けてるなぁって思ったんだ。恋を知らない、男を簡単に自宅に連れ込む、ベッドに倒れ込む、堂々とエロ本を読ませてくる。もうめちゃくちゃだった」
「あははっ、ごめんごめん。でも私だって必死だったんだもん」
「解ってる。全部おれに近づくための嘘だったのも、裏で先輩や喜太郞、かのんが団結していたことも教えてもらった。まさか二年の先輩から告られた件も作り話だったなんてな」
「……怒ってる?」
昇降口を前にして紅羽は立ち止まった。口をきゅっと閉じて当惑の目でおれの顔色をうかがう。しかしその表情さえ愛おしく感じた。
彼女に夢中になればなるほど恐怖がぶくぶくと湧き上がった。周りが見えなくなるんじゃないか、失ったときの悲しみや絶望で自らを破滅させてしまうのではないかと心臓をもぎ取られるような苦しい不安が強襲してくるのだ。繊細なガラス細工を運ぶときは細心の注意を誰だって払うように、とてもこの関係が壊れやすいものに思えてならなかった。シェイクスピアだって「ほどほどに愛しなさい。長続きする恋とはそういう恋だ」と言っているくらいだ。
「まさか! 驚きはしたけど結果が全てだ。その過程が無ければ今も他人行儀に名字で呼び合ってたんじゃないか? おれは嫌だ」
「そう、かもね……」
「スパルタ教育みたいなもんだろ。結果が報われれば厳しいコーチに感謝を述べる。でも報われなかったらコーチは辛い過去の一部になるかもしれない。だからもし紅羽とこうならなかったら喜太郞に怒ってたかもな」
「なるべくしてなったんだよ! 高校が違っても、生まれ変わっても結ばれる運命なの! 絶対だよ!」
紅羽はムキになって声を荒げた。あぁ、やっぱりどんな彼女も可愛い。怒っている表情、悲しんでいる表情、喜んでいる表情と全部好きだ。生まれ変わっても結ばれるなんて、運命論者も待ったを出しそうな都合の良い運命だが是非とも次回もお願いしたい。そのためならいくらでも現世で善行を積もう。
靴を履き替え、教室へと向かう。並んで歩いていると手の甲が当たった。彼女もきっと繋ぎたがっている。けど学校では極力そういったイチャつきはしないと約束したのだ。風紀的に非常にマズイ。
課業中限定だが。
「あっ、そうそう。今日WEBで公開するね」
「とうとうか……」
「原稿、あとで送ってあげるね。昼休みにでも読んでみて」
「解った」
描き始めると言ってから日をまたぎ、そして今日、とうとう掲載か。
小出しに見せてはもらっていたが一話分をまるごと読んだことはなかった。おれにもなるべく新鮮さを味わってほしいという彼女の願望によるものだった。
授業合間の休憩中。
意気揚々な表情を顔面に貼り付けて喜太郞がやってきた。もう解る、この顔はアニメを語りたいときの顔だ。
「前にオススメしたゼロ年代のアニメあるだろ? なんとブルーレイボックス化するらしい! タイムリー過ぎね!?」
「へぇ。古き良き作品にまた照明が当たるのはいいな。飽和状態のこの時代、名作は埋もれがちになって顔を隠してしまうから有り難いな」
「よく解ってるな、静真。だが貢献したいけどマネーが……。大人になってから還元していこう……」
「もうアニメ関係の仕事に就けよ。そうすりゃ年がら年中アニメに携われるだろ」
「それはもう考えている。制作スタッフになるつもりだ」
適当に提案したつもりだったがまさかこいつが真面なことを考えていたとは。まだまだ喜太郞のことをおれは理解しきれていないらしい。
「人間関係だけが心配だが頑張れよ」
「心配無用だ。そこは自分を殺して無になる。アニメのためなら自我すら捧げるつもりだ」
「ただのゾンビじゃねぇか……」
「お前こそ頑張れよ。んで、津布楽紅羽とどこまでいったんだ?」
「声デケェよ!」
「じゃあトイレ行こうぜ」
連れションか。喜太郞とはなぜか連れションの記憶が多い気がする。
二人揃って便器に垂れ流していると彼から話題を再開してきた。
「それで、津布楽紅羽とどこまでいったんだ?」
「そんなに気になるか。そういう敏感な話は訊かないもんだろ」
「おれとお前の仲だろぅ? いいじゃないか。ディープキスは?」
「お前も大概変態だな。椿先輩と良い勝負してる」
「副会長には負けるぞ。知ってるか? おれとお前をカップリングして妄想してるらしいぞ。おれが受けでお前が攻め――」
「やめろやめろ、地獄だ。先輩の圧勝だ」
「だろ? で、どうなんだよ!? 教えてくれよ!」
抑えきれぬ興奮を彼はぶつけてきた。そんなにおれの恋路が気になるのか。椿先輩の妄想話を聞いた後だからこいつにもその気があると思ってしまった。申し訳ないが生理的嫌悪感がこみ上げてしまった。
「教えるかよ。お前に教えたら面倒なことになりかねない」
「マジかよ……。しょぼん」
「何だその擬音語……。知りたきゃお前も好きな人の一人くらい作るんだな」
「一応百人以上はいるぞ」
「画面の中は無しだ」
「ゼロっす」
四時限目の化学の実験が終わり、さて昼飯だと思ったら実験室を出るときにかのんの姿が目に入った。化学教師は大量のプリントを彼女に渡すと実験用具の片付けに取りかかった。そういや彼女は今日日直だった。きっと代わりに職員室まで運ぶよう頼まれたのだろう。
「かのん。職員室までか?」
「うん。もしや手伝ってくれる感じ?」
「自分のノートとそのプリントでは大変だろ。半分寄越せ」
「わぁお、男らしくなったじゃーん!」
彼女はそう言って七割を渡してきた。何かが違うぞ。
「何かご不満ですかぁ?」
「いや、不満は無い。行こう」
これくらいで文句を垂れていては情けない。
利用されているのは解っているがこれも精神修行と思って耐えるが勝ちだ。
「ねぇ、紅羽どうにかしてくんない?」
「いきなり何の話だ」
「紅羽の幸せオーラ半端ないんだよー。今日はこんなこと話したーとか、めっちゃ手繋いだーとか報告してくるの。楽しそうでいいけれど流石に疲れる」
「裏でそんなことが……」
「もー大変なんだからね? 聞きたくもないのにあんたの話を聞かされてさ。ホントどうにかしてよね」
「悪い、さりげなく忠告しとく」
「頼むよ。でないと私も……、静真のこと好きになっちゃうから――」
「……マジで?」
「あはっ! 冗談だっつーの!! 素直すぎ!」
心臓が止まるかと思った。だって、冗談だと言うわりには感情がこもってて表情も――。いや、見間違いだろう。かのんがおれを好きになることなんてあり得ない。趣味は一致しているが白ギャルという種族がおれを好むとは到底思えない。
おれは苦笑いでリアクションした。
「話変わるけど、紅羽と漫画作ってるんだって?」
「え」
「なにその『やべ、バレた』みたいな顔! もう紅羽から教えてもらってるから! いやぁビックリしたよ。漫画描いてるなんて知らなかったし、しかもBL描いてて本も出してるって……、紅羽って何者?」
「何者なんだろうな。あの多才っぷりは羨ましい限りだ」
「おっぱいもおっきいし、顔も美少女そのものだし、性格も良い。そんな美少女と付き合ってる君は何者?」
「何者だろうな」
「ったく、白々しいなぁ。大切にしてやんなよ!」
脚を蹴られ、活を入れられた。言われなくともそのつもりだ。
放課後。
心なしか、今日は特別な日な気がした。きっと記念すべき第一話を読んだからだろう。「君の中心で甘き恋を叫びたい」の初めての読者になったのだ。これが特別でないはずがない。
教室にはもう紅羽の姿はなかった。おれは荷物をまとめて教室を出た。いつものように一階まで下り、グラウンドを見渡せる渡り廊下を通過する。二年後の学び場である三年生の校舎に入り、再び階段へと足を運ぶ。下っては上がりと地味に疲れる。
椿先輩のアジトである生徒会室を横切り、そしてようやく到着だ。
「あ、来た来たー」
紅羽は机に上半身を伸ばして座っていた。おれを見るなり途端にニコニコしだして、いつも座る席をぽんぽんと叩いた。
「読んでくれた?」
「もちろん。面白かった」
「もっと感想ないの!? もっともっと!」
「ストレートに面白いに尽きたよ。絵はやっぱり上手いし、キャラだって魅力的に描かれてる。そして何よりもヒロインが凄く可愛い。モデルが自分自身ってだけあるな。漫画には詳しくないから言葉足らずかも知れないけど、ご容赦を」
「うふっ、やばいニヤけちゃう」
彼女は手の甲で口元を隠し、ほくそ笑んだ。
読んで思ったことが一つある。漫画というものは表現がとても大変だということだ。紅羽と作ったプロットは基本的に物語を文章にしたものだ。その文字では表現されていない部分を想像して描かなければならない。例えば「投げた」という文字を絵にする時は、どんな投げ方か、どんな表情か、どういうカットかなど主体となる表現以外をたくさん考えなければならない。
その描かれていない世界を表現するその能力と労力に脱帽した。
「じゃあ満足してもらえたってことでいいのかな?」
「あぁ。もうファンだよ」
「ありがと、静真」
「これからが楽しみだ。もうネットに掲載してるのか?」
「ううん。十七時頃にしよっかなって思ってる。その時間帯だと読まれる可能性が高いからね。学校帰りとか会社帰りの電車の中で読んでもらえたりするの」
「は~、そんなことも考えてるのか。そしたら残り一時間は物語の続きでも考えるか」
「いいえ、今日は創作お休みです。少し、お話ししない?」
今更話とは何だろう。彼女は自分で机に腕枕を作って頭をのせ、顔だけこちらに向けてきた。
「私たち、お互いのことあんまり知らないよね」
「そうか?」
「静真って一人っ子?」
「いや。年の離れたOLの姉がいる」
「ほらぁ、初めて知ったよ! ちなみに私は小学生の妹がいます」
「マジで!? おれたち全然知らないんだな……」
「でしょー? だから改めて自己紹介でもしようよ。包み隠さずね」
「それはそれで面白そうだ。おれからするか」
そうして語り出してみた。テンプレートな自己紹介を簡単にして、ベターな好きなものシリーズや幼い頃の思い出などを話してみた。
話してみると何だか自分が薄っぺらく感じる。紅羽ほど才能には恵まれていないし、劇的な経験があるわけでもない。こんなにも平凡だったろうか。一つくらい衝撃的なことはあるだろう。……いや、やはり無さそうだ。
「へぇ、お姉さんはご結婚の予定とかはあるの?」
「いや解らん。夏と年末年始に帰ってくるくらいだからな」
「そっかぁ。静真のお姉さんってことは美人そうだなぁ」
「どうだろうな。痴漢された話を自慢げに話してたから多分モテる方なんじゃないか? 姉弟だからよく解らん」
「お姉さん変わってるね……。じゃあ次は私から話そっか」
紅羽は胸を起こして語り始めた。
「名前は津布楽紅羽。表の顔は十六歳のJK、裏の顔はBL漫画家だぁ! 好きな食べ物は甘い物全般で趣味は漫画を読むこと。あれ、あと何話そう」
「ネタ切れ早いな。空手の話とかは?」
「空手かぁ。通ってた道場、女の子が私だけだったなぁ。子供が多い道場だったからがきんちょばっかで女の私をすぐからかってきてさぁ。その度に師範が怒ってくれて、そして私が
「お強い……」
「同級生ならまず同性には負けなかったね。男はデカいのだと流石に無理だけど。あっ、ヤバい、下ネタ……」
「そう言うと下ネタになるから言わなくていい」
その下ネタの内容を商業出版で描いてるやつが恥じらっちゃダメだろう。そんな乙女チックに下唇を噛んで後悔されても反応に困る。可愛いからいいけど。
微妙な空気に耐えきれなくなった彼女は話題を変えた。
「ちょっと早いけどもう公開しちゃおっかな……」
「ベストタイミングを待たなくていいのか?」
「大丈夫だと思う。フォロワーさんが多いから見てくれると思う。それに……、もう我慢できそうにない」
「我慢できないなら仕方がない」
「そう、もう我慢できないっ! 静真。私がどれくらい君のことが好きか知りたい?」
「えっ。ちょっと待て、話が転々としすぎだろ」
彼女はスマホを机に置いた。画面には投稿サイトとおぼしきサイトが表示されていて、「投稿する」の項目があった。おそらく公開の一歩手前の状態だだろう。
彼女は座りながらこちらに正対した。
薄く頬が赤みがかっていて、いつの日か見た情熱的な目をしていて、じっとり見つめてきた。おれも彼女を見つめ返した。この毒に犯されたかのような夢心地な感覚になると引き返すのが難しい。
彼女はおれの眼鏡を両手でつまんで引き抜くと机上に置いた。
不思議でならない。なぜ彼女がここまで魅力的なのか解らない。物事は大抵論理的に説明できるのに、この感情を説明できる自信は微塵もなかった。ひたすら愛おしくて苦しかった。幸せなはずなのに苦しかった。
一時一時がたちまち霧のように消えてしまうからかもしれない。その儚さの中で必死にもがいて輝こうとするから心が悲鳴を上げるのだろう。熱した鉄が冷たい水の中で苦しく鳴くように、この甘い恋が冷めないよう叫ぶのだ。君が好きだと。
「――目を閉じて。私だけを感じて」
彼女はそっと包み込むように両手を頬に添えた。
おれも君の中心で叫びたかった。大好き、愛してるとか肺が破裂するくらいの声で想いを伝えたかった。しかしもう口は塞がれていて、自分のものか彼女のものか解らなくなっていた。ただただ紅羽を見失わないようにおれは暗闇の中で彼女を感じ続けた。
まるで人類が滅亡してしまって二人っきりになった気分だ。
そんなファーストキスだった。
JKマンガ家の津布楽さんは俺がいないとラブコメが描けない(旧題・津布楽紅羽は君の中心で甘き恋を叫びたい) 水埜アテルイ @A_ByouNo
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