第19話 君だけの唇

 ――目を覚ましてOpen Your Eyes


 その映画は女性の声から始まる。

 目を覚まして……、目を覚まして……。

 耳元で優しく、誘惑的な囁き声が繰り返される。そして急にシンセサイザーの心地よい電子音が響き始める。さらに言語とも区別のつかぬ不気味な言葉が耳奥へ、脳へと染み込んでゆく。海中を漂うような微睡みからそっとすくい上げられるように意識が覚醒へと向かっていき、そして目を覚ますのだ。

 夢の中では感情が極端だ。

 恐怖は理解不能なまでに背筋を凍らせ、幸福は幻想的なまでに恍惚としている。だから夢から覚めるとほっとしたり惜しむのだろう。現実との差異が非常に開いているからだ。

 しかれども魅力的であることに変わりはない。夢の世界は想像の宝庫だ。起きている時にはできない想像を可能にする。

 

「やっと起きた」


 目を覚まして最初に目に飛び込んできたのは津布楽さんの顔だった。ほんの少しだけニスの匂いがする机に頭を乗せ、じっとこちらを見つめていた。瞬きの度に豪奢に振れる睫毛はとても色っぽく、奥でひそむまなこ煌々こうこうとしていた。

 目を擦って上半身を起こし、周りを確認する。そうだ、ここは学校だ。眠気に負け、目を閉じて休んでいたらいつの間にか寝てしまっていたようだ。


「おれはどれくらい寝てたんだ?」

「ほんの二十分くらい」


 もっと寝ていた気もするがそんなものか。教室の時計も正しく時間が経過している。

 寝不足のせいで今日は一日中眠気と戦っていた。原因は徹夜だ。土日をブログの記事更新に費やしていたのだ。いつもなら徹夜をするなんてことはないが金曜日にあった津布楽さんとの一件でずっと気が落ち着かなかった。

 土曜日には電話で先輩から自宅訪問を懇願されてとても焦った。女子を部屋にあげたことはないし、両親がどう思うか怖くてとてもあげられない。

 そんなこともあって余計に今は何をしているだろうと彼女のことを想い、あらゆる動作が頓挫した。観た映画も現実と夢を混同してしまうような複雑なストーリーだったため難儀し、二日連続夜遅くまでキーボードを打ち続ける結果になった。

 

「悪い。あまりにも眠くてダメだった」

「いいよー。でもあんまり油断してるといたずらしちゃうからね」

「ペンで顔に落書きとかはやめてくれよ」

「そんな子供っぽいことしないよ。もっと大人ないたずらするもん。……気になる? いたずらしてほしい?」

「いや……」

「気になるならまた私の目の前で居眠りしてみるといいよ。次はいたずらしてあげるから」


 彼女は顎に手を乗せて挑戦的な目を向けた。


「津布楽さんって変わったよな」

「そう?」

「変わったよ。何か、目が違う」

「目? どんな感じに違うの?」

「難しいなぁ……。でも何か違うんだ。綺麗というか何というか……。つまり可愛い」

「……嬉しい。すっごく嬉しいよ、静真!」


 彼女は椅子を近づけて肩をくっつけてきた。二の腕の生々しい柔らかさが伝わってくる。最強の空手女子だからもっと男みたいにゴツゴツとしていると思っていたがそんなことはなかった。女の子らしい柔らかみが感じられた。

 やっぱり津布楽さんは変わった。いつも向かい合って座っていたのに今は隣に座っている。ナチュラルに下の名前を呼んでいるし、スキンシップも強くなった。目は熱線でも放っているかのように熱く一直線にアイコンタクトをしてくる。おれはその目を向けられる度に夢心地な気分になった。

 

「そろそろ絵にしよっかな」

「お、ついにこの物語が絵になるのか」

「うん。描けるくらいの量にはなったからね」

「アシスタントとか、そういった人が手伝ったりとはあるのか?」

「ううん。前に言ったけど、これはWEBに無料で載せるものだから連載誌並みの緻密な背景とかは描かない。だからお手伝いさんはいないよ。でも商業化とかしたら変わってくるけどね」


 なるほど。

 これからは津布楽さん一人の作業となっていくわけだ。そうするとこうして放課後に集まることはなくなるのだろうか。あの液晶タブレットを学校に持ってくるわけにはいくまい。必然的に自宅での作業になるはずだ。

 何だか少し寂しい。折角これからの放課後が楽しみになる予感がしていたのに終わりなのか。


「あと今まで通り放課後はここで活動するから」

「え? でも描くには家じゃないと無理だろ?」

「ふふーん。私、自慢じゃないけど描く速度半端ないから! 話を常に考えないとすぐ追いついちゃって描くものがなくなっちゃう。だから私と一緒にお話を考えて! だってほら、私って恋を知らないし!」

「今更それ言うか……」

「知らないもーん。だから私に恋とか愛とかいっぱい教えてね? 私も頑張るから!」


 彼女はそう言って密着させていた肩を揺らして擦り付けてきた。おれも椅子から落ちないよう押し返すと彼女はますます乗り気になって「きゃぁ」とか「このー」とか口ずさみながら押してきた。

 積極的すぎる彼女に驚きつつ、その和やかな攻防戦を続けた。そしていきなり肩に頭を乗せてきた。「ん~」と猫なで声を漏らして急に甘え始めた。


「静真ぁ、本当に大好きだよ……」


 おれの太股に手を乗せ、耳元でそう囁いた。顔がとても近かった。彼女の瞳は虚ろになっており陶酔しているかのようだった。好意がひしひしと伝わってきて、これが愛なんだなと十六歳にして悟った。

 あぁ、この表情には見覚えがある。

 土日で観た映画でもヒロインがこんな表情をしていた。狂ったように主人公への愛に固執して、自分以外の誰も視界に入らないようにうなじに手を回してじっと見つめる。そうして焦らしに焦らして、頭がぼーっとなってきたところでトドメに指で下唇をいじってやるのだ。この唇は私だけのものとでも暗示するかのように。そして屠るように口づけする。

 流石にそこまではしていないが彼女は求めていた。おれも彼女の唇に惑わされ、無意識のうちに眼鏡を机に置いていた。そうして見つめ合った後、彼女は薄く目を閉じて首を僅かに傾けた。これから何をするのかもう解っている。おれもその唇が欲しくて、欲しくてたまらなかった。

 どうにもでもなってくれ――。

 そう思った時、ドアを叩く音が響いた。おれたちは慌てて身を引き、何事も無かったかのように背筋を伸ばして座り直した。


「入るわー」

「先輩……。ノックできるようになったんですね……」

「当たり前じゃない。もしあなたたちがナニかしてたら困るでしょ? 私だってそんな気まずい雰囲気には居たくないわ」

「はは……」

「あら~、今日は隣同士で座ってるのね。見てて微笑ましいわぁ」


 先輩はニヤけ顔を作った。もし先輩がノックしていなかったら恋人として一つステップアップしていただろう。

 津布楽さんはというと俯き、垂れた前髪で表情を隠していた。その代わり先輩に見えないよう無言で手を繋いできた。がっちり絡めてきたので離しようがない。

 先輩はこっちには来ず、ドアに寄りかかった。


「知ってると思うけど、私は来月で副会長の座を降りるから。正確には文化祭が終わった後ね」

「そういえばそんな時期でしたね。お疲れ様でした」

「どうも。同時に生徒会からも去ることになって受験勉強も本腰を入れることになる。これからはたまにしかここに来ないわ」

「先輩が受験生なんて何か信じられないですよ。いつもふらふらしてましたから」

「やることやってれば大丈夫なのよ。それでこの教室なんだけど――」


 そうだ、この教室は先輩の独断で使わせてもらっているのだった。先輩がいなくなるということはここが使えなくなるということになる。

 流石に全てがうまくいくわけではないか……。


「今まで通り使っていいから」

「え? いいんですか!?」

「えぇ。後輩に一任したから大丈夫よ。あなたたちの同級生だから知ってるかもね。私が手塩に育てた後輩だから二人の活動も理解してくれたわ。今度紹介するわね」

「てことは……、その方も……」

「えぇ、立派な腐女子よ」

「先輩の犠牲者か……」

「犠牲じゃないわよ。自らこの沼に足をツッコんでいった子だから。まぁそんな感じだから頑張ってちょうだいね。紅羽の漫画でも読んで受験頑張るわ」


 そう言って手をひらりと宙で返すとクールに出て行った。おれたちの前で初めて見せたクールビューティーな一面だった。あれが最初で最後だったら泣けてくる。先輩はただの変態じゃないってもっと信じたいのに。

 静寂な空気に戻る。とても気まずくてどう話を切り出すか困った。まだ手は繋いだままだし、津布楽さんは俯いたままでどうしようもない。

 しばらくすると津布楽さんは小刻みに身体を揺らし始め、含み笑いをした。


「……くふっ、むふふっ」

「?」

「もう私たちばっかみたい! あははっ!」


 彼女は軽快に笑うとふわっとスカートを浮かせて立ち上がった。とうとう下着が見えてしまった。座り方がおかしかったからかスカートに癖がついてめくれていたのだ。おれが顔を背けた理由に彼女は気付いたようだが、むしろ恥じらうおれを見て楽しむように腰を振った。


「今日はもう帰ろっ! これ以上一緒にいたら私たちどうなっちゃうかわかんないもんね!」

「……そうだな」

「……もぅ、本当にそう思ってる? 私たち恋人なんだから恥ずかしがらないでよ! 私まで恥ずかしくなっちゃうじゃん! でもこれくらい初々しい方がいいかもね。楽しいし」

「津布楽さんがあまりにも可愛いからしょうがないだろ」

「あぅぅ不意打ちぃ……。そんなことさらっと言えるなら何でさっきは躊躇ったの? 私は受け入れてたのに……」

「も、もう帰るぞ! やめよう、この話は!」

「恥ずかしがってる~! 可愛い~!」


 もうこれは夢だろう。こんなに可愛くて、性格も良くて、スタイルも大人びている女の子と恋人だなんて信じられない。さらに熱愛状態で二人っきりの時間が毎日ある。もう訳がわからない。どうなってんだ、この世界は。

 本当に夢のような話ではあるが、やっぱり現実だ。現実だからこそ彼女の体温を感じられるし、抑えも効く。夢だったらきっと……、キスしていた。

 だからこれは現実なのだ。甘くて、うずうずして、辛いくらい恋している。

 夢はまだ見なくていい。

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