ある夏の一幕
奈宮伊呂波
第1話
嫌なことがあった時、どうやってストレスを発散するのがいいのだろうか。美味しい物を食べる。バッティングセンターで力任せにバットを振る。カラオケで好きな曲を思いっきり叫ぶ。友人や家族に愚痴をこぼす。様々な方法があると思う。今挙げたものは自分の思う発散方法で、人によってそれは変わっていくだろう。
人だけでなく、嫌なことの内容によっても変わっていくのだろう。下らない事であれば下らない発散方法を、複雑なことであれば複雑な発散方法を。ああいや、複雑なことなら反対に単純なことの方が解消にはなるかも。
まあどちらにせよ、嫌なことに会えば嫌な気持ちになるのは当然だろう。自分は何も悪くないのに他人の行動が原因で起きた嫌なことは特に嫌だ。その人が悪意を持っているならまた違った話になるから置いておいて、謝ってはいるけど反省の色が全く見えない場合も嫌いだ。
具体的なことを言えば、待ち合わせ場所に来なかった挙句に急に待ち合わせ場所の変更を要求してきたのだ。厳密に言えば待ち合わせと言うより、「夜六時にデパートに来て」という内容だった。それも当日の五時に。ちょうど暇してたし、仲はいいと思うから黙って向かった。けどよく考えれば「来て」と言っただけで相手自身が来るとは言っていない、のかも。もしかして勝手に待ち合わせと勘違いしたこっちが悪いのだろうか。そもそも何をするのかも知らされていないのだし相当不親切だ。
六時前にデパートに着いて、まだかなと待っていると新たなメッセージが届いた。
簡単に言えば「悪いけど七時に河原まで来てくれ」と言った内容だった。
ふざけてる。これはもう流石に怒っちゃったね。自分勝手にもほどがある。まあでも、普段は普通にいいやつだし何か事情があるのかもしれない。こっちからぶっちしてもいいけどどういうわけか聞いてから罵倒して帰ってもいいだろう。と思った。
そんなわけで私は今電車に乗って移動している。嫌なことは重なるもので、いい時間帯のせいか人がアンパンの中身のように詰められていた。その中の一人が自分だと思うととてもちっぽけな存在に感じる。周りに汗の臭いや体からアンモニア臭を放つおっさんがいないことが僅かな救いだ。
不審者だと思われないためにスマホで目を固定。しばらくSNSを眺めていたけどやがてそれも飽きた。青いジーパンのポケットにスマホを戻して視線を自由にする。まあ、不審者だとは思われないよね。
時々電車が揺れる中、つり革を持つことでなんとか他人とぶつかることを避ける。そのおかげで自分からぶつかることはないが他人からはぶつかられる。ふと視線を下に移すと、すぐ隣に女子高生がいた。何やらスマホに集中している。盗み見はよくないとは思うけど最近の女子高生は何をしているのか多少気になる。周りに気づかれない程度に凝視してみると、ってこれ完全に不審者だね。まあいいや。どうやらその女子高生は自分と同じSNSを使っているようだ。何だ一緒じゃん。自分が高校生だったころとあんまり変わってないね。数年じゃそんなに大差ないか。
大学の友達の中には高校生や中学生を見て「若いっていいなあ」「うわ高校生わっか」などと馬鹿な事を言っていた。そいつの事は好きだけどあれだけは本当に何を言ってるのかわからない。あんたまだ二十やそこらじゃん。でもああいうこと言うやつは高校生になったあたりから現れると思う。高校一年生の時は「中学生ってわけえな」と言い、高校三年生の時は「新入生って若いな」と言う。二年生は知らん。因みに若いな、の後には「自分もうババアだし」と続く。その精神がもうババア。一生ババアやってろ。
ひたすら自分より年下の人に若いと言う人間はさておき、現在の自分と現在の女子高生に大きな乖離が生まれていなくていくらか安堵した。
時々バランスを崩すのか女子高生の髪の端が右腕に擦れる。人の髪の毛を触るのは好きじゃないけど隣の吊革は他の人が占拠している。かといって吊革がなければ今度は自分のバランスが崩れる。女子高生も周りが固められていて動けなさそうだ。仕方ない。許せJK。二人で我慢しようじゃないか。
視線を前に移すと、目の前はおばさん二人の後頭部で埋められる。右おばさんは推定三十五歳。旋毛の雑さから手入れは余りしないスタイルであることが伺われる。髪は大事だからいくつになっても手入れはしたほうが良いと思う。左おばさんは推定三十歳。髪は綺麗で肌も白い。病的とは言わないけどちょっと健康に注意かもしれない。横顔から察するに相当な美人と見受けられる。
ん? 横顔? なんで?
電車の中で周りが気になる人がいるのはわかる。認めよう。自分もその一人だ。だからわかるけどさっきまで左おばさんは正面しか向いていなかった。ぶれることなく正面を見据えていた。これは想像になるけどきっと視線も正面を向き続けていただろう。芯が太い人はいつでも正面から目を逸らさないって誰か偉い人が言っていた。
きっと窓の外を眺めていたんだと思う。夜の街は見ているだけでもそこそこ楽しめるから。
さっきまではそうだった。そこに違和感はある。
どうして急に横顔が見えるほどに首を動かしたのか。どうして今、左おばさんはその肩を微かに震わせ、怯えるように後ろの様子を伺うのか。
その原因はすぐに思いついた。
置換だ。間違った、痴漢だ。
改めて左おばさんを見てみよう。横顔は美人。抜群とまではいかないがスタイル良好。小柄で細身なんていかにも日本男子が好みそうな体型だ。さらに服装はスカート。上はなんかシャツ的なものを羽織っている。大事なのは下だ。下。痴漢師はそこに重視するだろうから下に注目しよう。
加えて被害にあっても怯えて黙るだけ。なるほど。これは痴漢に会いやすい。いや、知らんけど。
痴漢を見つけたなら即刻犯人を捕まえるべきだろう。そして駅に着いたら電車から引きずり降ろし駅員さんに引き渡す。逃げようものなら線路の上に叩き落として差し上げよう。
そう意気込んで左おばさんの下半身辺りを見て衝撃が走る。エッフェル塔が脳みそを貫いたのかと思った。
てっきり、公衆の面前でありながら痴漢師は阿保みたいに左おばさんをこねくり回しているのだと思っていた。
だが違った。
実際の現実は何者も左おばさんの体をこねくり回してはいなかった。これはどういうことだ。なぜこんなことになっているんだろう。まさか透明人間が実在すると言うのか。
検事顔負けの脳をフルに回転させたが答えは出ない。くそっ。この事件はお蔵入りになるのか。
と、諦めたその瞬間だった。青いジーンズの左ポケットで違和感が声を上げた。
なになに? スマホが? 何やら? 苦しそうだって? 確かに太ももに圧迫感はある。よし。見てみたら驚くべき光景がそこにはあった。スマホで膨張したポケットが左おばさんの尻に密着していた。
ああそうか。そう言う事だったのか。
つまり犯人は身内にいたってわけだ。そりゃ気づかないわけだ。スマホならあまり触れている感覚はないし。
急いでスマホを右ポケットに入れ替え。左おばさんに安心を与える。次第に左おばさんの震えは止まり、視線も正面に固定された。
よかったよかった。これで一件落着だあ。
平和が取り戻されたところで、ちょうど駅に着いたみたいだ。外から多少新鮮な空気と雑音が入り込んだので、それに紛れて左おばさんに一言添えた。
「安心してください。私、女なので」
そう。私は女なのだ。ついでにレズビアンでもない。だからスマホ越しに味わう美人の尻の触感を楽しむことなんてない。これで左おばさんの心は穏やかになっただろう。
かっこよく左手を上げて、私は電車を後にした。
さて、今から彼氏に一言物申させてもらおう。ああいや今すぐじゃないけどさ。
駅から数分歩けば河原には着く。歩く以外の選択肢がないので歩くことにした。
駅の外は人が少なくなり蒸し暑さはいくらかましになっている。ましになったとは思うが何分夏真っ盛りなもんで普通に暑い。こんな日にわざわざ呼び出したのだから余程大事な用なんだろう。そうでなきゃ許さない。
あいつをどう料理するか想像しているとやがて目的地の河原に着いた。何かイベントでもあるのかやたら人が多い。女の人の中には浴衣を着ている人もいた。へえ、屋台でも来ているのかな。
「おーい! 香菜!」
名前を呼ばれて振り返ると、私を呼び出した張本人、紗綾がいた。名前は女の子っぽいけどれっきとした男子だ。紗綾によると名前はお母さんが「紗綾がいい」と言い張りそれに決定したそうだ。もう少し彼の気持ちを考えて欲しかったな。
こっちに走ってくる紗綾はバカみたいな笑顔だった。
「何? 紗綾」
いかにも怒ってますと言う体で私は口を開く。
「本当にごめんな。色々あって香菜も迷惑だとは思ったんだけど急遽決まったことだったんだ! 許してくれとは言わないから帰らないで欲しい」
やっぱりなにか事情があったんだ。それなら許すこともやぶさかではない。
「大事なことなの?」
「大事だ! 詳しい説明は後になるけど」
大事なことなら仕方ない。でも一つだけ確認。
「反省した?」
「してる! めっちゃしてる!」
「じゃあいいよ」
あっさり許しちゃう。まあさっきの左おばさんが面白かったから多少怒りは収まってたしね。
「そろそろかな……」
紗綾が意味ありげに呟いた。腕時計を見て時間を気にしているようだ。
「何が?」
「悪いちょっと待っててくれ」
そう言って紗綾は私から少し離れた。この期に及んでまだ待たすのかと思わなくもなかったがさっき許すとも言ったので気にはならなかった。
暇になったので電車の続きじゃないけれど周りの人の様子を見ることにした。
不審者顔負けのきょどりっぷりを発揮したことで、多くの人が河の上流の方を向いていることが分かった。真夏で、夜で、外に人が集まり、一部の女性は浴衣。さらに民衆は何かを見物しようとしている。ここまで来ればわかる人はわかるだろう。私はわかる人だ。
おそらく、これからここで花火が始まるのだろう。それを私に見せたくて紗綾はここに呼んだのだろう。私は綺麗なものが好きだ。宝石や光、美人。あ、痴漢はしてないから。もちろん花火もその例に漏れない。
でもそれなら普通に誘ってくれればいいのに。何で?
「どうした香菜?」
「うわ!」
用は済んだのかいつの間にか目の前に紗綾がいた。おかげで驚いた。
「あ、なんかごめんな」
「ううん。それで今日はどうしたの?」
「あっちの方見ててくれないか?」
あっちというのは他の人と同じ上流の方だ。
「ひょっとして、花火始まるの?」
「んーまあなー」
正解とは思えない適当さだ。
「何その意味深」
半分辺りで半分辺り、と言うような手ごたえだ。花火は間違ってなさそう。
「まあ見とけって」
カラカラと笑う紗綾。つられて私も笑う。
私は紗綾の笑顔が好きだ。笑うとゴリラよりもひしゃげた顔になる。自分の笑顔がそんななのは紗綾自身も知っているから、紗綾はあまり人の前では笑わない。でも私の前だと遠慮なく笑う。
それがたまらなく嬉しい。後、単純に顔が面白い。
蚊の鳴くような音がしたかと思えば、爆音とともに閃光が夜空に炸裂した。それをきっかけに観衆から声が上がる。
花火が始まった。
それから数十分の間、花火はやむことはなかった。単純な花型以外にもユーフォ―型やリンゴ型、果てにはドラゴン型の花火もあった。子供が飽きないように工夫を凝らしているのだろう。飽きる子供なんているのかって話だけど。花火に飽きる子供はもうほっとけばいい。
しょうもない戯言はいい。
今は目の前で繰り広げられる火劇を網膜に焼き付けることに集中しよう。
「綺麗だね」
素直な感想だった。キラキラしたものが私は好きだから。
「うん」
ここで「君の方がきれいだよ」なんて言ってくれたら一生のネタにしてあげたんだけどなあ。今からでも言ってくれないかな。
最後に大きな花火が上がり、観衆のボルテージはマックスに至る。
「香菜見ててよ」
これだけ、じゃないようだ。紗綾の視線は星の見えない夜空に向かっている。私も黙って空を見た。
さっきのは最後の花火じゃなかった。遅刻した生徒が謝罪するかのようにか細い声で一つの花火が空に上がる。その直後に連続して四つの花火が上がる。
計五つの花火が夜の空をカラフルに染め上げた。
とても綺麗だったが今までの花火と違うところがあった。なんと、それは文字になっていたのだ。
一つ目は「香」で、二つ目は「菜」、三つめは「大」、四つ目は「好」、そして最後の花火は「き」だった。
まとめると「香菜大好き」。世の中にはもの凄い告白をする人がいるようで、偶然私の名前と一致している。
……え?
「いやあ。なんかキャンペーンに応募したら当選発表が遅れたみたいでさ」
えっと、つまりどういうこと?
「おまけになんか機材トラブル? が起きたみたいで慌てて場所変えたんだよ」
あれ? 私が呼ばれたのって六時にデパートが初めてだったはず……。
感動を頭の端に移動させて紗綾とのやり取りを見返す。
ふむふむ。おっと、どうやら突然の呼び出しじゃなかったみたい。すっかり忘れてた。後ですっごい謝ろう。
感動を真ん中に持ってきた。
「恥ずかしいんだけど」
「気にすんな。誰も俺たちのことだとは気づいちゃいないさ」
むー。そう言う事じゃないのに。ていうか確実に花火のスタッフさんは知ってるよね。
「メッセージどうしますか? って聞かれたからさ。日頃の気持ちを花火にしてもらったんだ」
「ありがと」
「おう」
他のお客が帰る中、私たちは暫く余韻に浸っていた。普段は見えない星が今日に限ってよく見えるような気がした。
たまにはこんな夏の日があってもいいかもしれない。
ある夏の一幕 奈宮伊呂波 @iroha_263
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます