後編 彼女の見る世界
明くる日。
普段通りの起床、普段通りの登校。
六時四十六分発の電車――その四両目、先頭から二番目の普段通りのドアから乗り込む。
入ってすぐ進行方向とは逆の方向へと通路を進み、三番目のドア付近に位置する普段通りの席を確保した。普段と変わらない光景、所作。同じように本を取り出し、文字を目で追って――私はため息をついた。
自覚している。今日の私は不機嫌だ。
別に女性特有の身体的に不都合な日、などというわけでもない。単純に昨日、嫌なことが起きただけ。
最初から分かっていたことではあったけれど、ままならないものだと思う。
目線は本の同じ行を何度も何度も往復して進まない。気がついた時には次の駅に着いていた。
「今日は一段と不機嫌だな、後輩よ」
隣に感じる、人の温もりと声。
髪は茶色でくせっ毛のある天然パーマ。顔もそれなりに整っており、少し童顔がかっている可愛い系男子……らしい。成績は割と良いらしく、運動は普通レベルの私の先輩だ。
「分かります? 先輩に察せられるとは、私もまだまだですね」
気づいてもらえた嬉しさというのはもちろんあるけど、それ以上にバレた羞恥が強く、そんな言葉が出てくる。
だけど、当の先輩はこちらに顔を向けようともせず、いつも通り鞄から本を取り出した。……今日は数学の参考書か。
「まぁな。俺クラスともなれば、それくらい余裕だ。何なら、その理由まで当てられる」
続く先輩の台詞に私は何も答えない。答えられない。
もはや、手に持つ本の最初の一文字でさえ私には読むことが叶わなかった。
「――また、別れたんだって?」
「……えぇ、情報が早いですね。あの方、確か先輩と同じ学年でしたが……まさか?」
読めない本から目を離し、チラと隣に目を向ける。
定期的にページが捲られるその姿に、若干の苛立ちを覚えた。
「そ、ただの友達の友達。クラスの男子グループのチャットで流れてきた」
友人ではないのか。もったいぶった言い方をしてからに……。
そんなことを思うけど、口には出さない。
どうせ、昨日の意趣返しに決まっているのだから。
「どういう内容でした?」
代わりに別の質問をしてみれば、先輩はあっさりと答えてくれる。
「いい雰囲気になったんでヤろうと思ったら、『やっぱり、そういうことを求めてくるんですね。……分かりました、別れましょう』って急に振られた、だとよ」
「……だいぶオブラートに包まれてますね」
抱いた感想はそんなものだった。
実際はもっと酷い。私はそれ以上にキツイことを言ったし、向こうもそんな一言で済ませられる行動ではなかったのだから。
……あと、私の真似が絶望的に似ていない。
「お前さ……そんなで困らないの?」
心の中で呟いていると、それ以上の内容には触れないまま今度は別の問いがなされた。
「随分と抽象的な質問ですね。私が何に困るとお思いで?」
「そりゃ……まぁ、色々だよ。女性の人間関係って複雑らしいしな」
続く言葉を聞き、私はため息を吐く。
わざと逃げ道を与えたのに、先輩が踏み込んできたから。
「……もちろん困りますよ。知ってましたか、先輩。女の子って実は下ネタが嫌いではないんですよ?」
「あー、なんかネットで見たことあるわ」
なんとも現代人らしい答え。
ほんと、ネットには色んなことが書かれていますね。
「生理など、男の人よりも性が身近にありますからね。割とそういう話になりがちなんですが、どうにも私には共感できないんですよ。会話をしている時、私を俯瞰して見ている私自身を感じる、みたいな虚無感があって……」
思うところがあるのか、ただ興味が無いだけか。私の言葉を聞いても、先輩は何も言わなかった。
黙々と目だけがページに綴られた文字を追っている。一向に捲られてはいないけど。
「だからといって、男性が女性に下ネタを振ってもいいわけではないですよ? 下ネタそのものは嫌いではないですが、男性とする下ネタ話は嫌いですから。そこのところ、注意です」
「別にしねぇよ。というより、平気な顔して異性に下ネタを振れる奴らの心理が俺には分からん」
先輩の足が組み替えられ、目線は天井へと向く。背もたれに頭を預けるようにして、深く腰掛けた。
「でも、そっか……やっぱり困るんだな」
初めて聞く、先輩のそんな声。
この人は冗談以外で弱気な部分を人前に晒す人間ではない。
「先輩も何か……?」
つい尋ねてしまうと、苦虫を噛み締めたような表情で「いや……」と前置きをする。
「さっきのチャットの話だけどさ、その後に言われたんだ。『お前、実はあの子とデキてるんじゃないのか』ってな」
「あー、そういう……」
よくある話だ。
「異性と一緒にいるだけで、すぐ恋愛にもっていきやがる」
「人は人に恋をするものだと、当たり前のように思われていますからね。そして、その延長線上には必ず性的欲求が存在する」
「お盛んだよな。伊達に七十億にまで増えてねーよ」
そういった当たり前を強要してくる社会には辟易する。
許容できない人間に落胆を覚える。
昨日の話からも鑑みるに、先輩は一応の努力をしてきたのだろう。
私だって、認めてくれる人を探して何度も挑んでみた。
それがこの結果だ。
「何で人は、関係に形を求めるんだろうな」
先輩が問う。
「なぜ人は、その形を行為として表現しようとするのでしょうね」
私も問う。
そんなもの、別になくてもいいのに。
「ねぇ、先輩――」
「なぁ、後輩――」
気がつけば、私達はシンクロしていた。
『――クィア・プラトニック関係って知っていますか(知っているか)?』
顔を見合わせ、尋ねる。
けれど、ただ尋ねるだけだ。答えはない。すでに出ている。
どちらが先か。
座席の柔らかな布地を指が這い、私たちの手は絡み合う。
十分だった。
これ以上は必要ない。
全部を預ける、なんてことはしない。
だって、それだけで幸せだから。
互いに、片身にだけ――私たちは、寄り添い合う。
二人のズッキーニはかたみに寄り添う 如月ゆう @srance1024
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