二人のズッキーニはかたみに寄り添う
如月ゆう
前編 彼の見る世界
「ねぇ、先輩。"アセクシャル"って知っていますか? セクシャリティ――性的指向の一つで、誰に対しても性的欲求を感じないことを指すんですよ」
「それなら後輩よ、お前こそ"アロマンティック"って知ってるか? セクシャリティ――性的指向の一つで、誰にも恋愛感情を持てないんだとよ」
朝の電車。通勤・通学者たちが生む熱と密度と喧騒を浴びながら、俺たちはひっそりとそんな会話をする。
別にそんなことをしなくたって、誰も聞き耳なんて立ててやしない。なにせ、俺自身がその周りの
けれども、互いにだけ届くようなポツリとした――独り言チックな会話をするのが俺たちの暗黙の了解だった。
思えば、この会話が俺たちの始まりだったのだろう。
そして、その時にはもう終わっていたのだと思う。
♦ ♦ ♦
いつもの起床、いつもの登校。
季節ごとに制服は移ろい、年ごとに学年は変化していくが、この通学風景だけは卒業まで変わることがないのだろう。
六時五十二分発の電車――その四両目、先頭から三番目のいつもの乗り口から乗車する。
座る席がないのかドア付近で駄弁る複数名の学生。二人席の通路側に陣取り、窓側にリュックを置くギャル。席の二分の三ほどを占領する太ったサラリーマン。
それらを無視し、俺はいつもの定位置へと向かった。
それは入って進行方向側の通路――そのすぐ左手に位置する通路側の一席。
この時間、この乗車口から乗り込めば決まって必ず空いている。
その理由は至極簡単。もう片方の窓側の席に、とある女子高生が座っているからだ。
セミロングの艶がある黒髪。その毛先は内側に緩く巻かれており、少し垂れた目元と左目に浮かぶ泣きぼくろが妖艶な雰囲気を醸し出している。ぷっくりとした唇、制服の上からでも分かるくらいには程々に大きな胸、そのどれもが彼女の女性らしさを表していた。
本を片手に髪を耳にかける姿は、一種の絵画のようにも見える。
そんなうら若き乙女の隣に進んで座れる者など、同性の女性か、性欲を失った老人か、はたまた顔馴染みくらいだろう。俺だって、知り合いでもなければこんな席に座ろうなどとは考えない。
……ほんと、なんであの時は座れたのかね。
「おはようございます、先輩。……なんですか、ジロジロと見て」
俺が席に腰掛けると同時に、隣から声がかかった。
だが、そんなことを言う割に彼女は本から目を離しておらず、俺も同様に通学バッグの中を漁りながら返事をする。
「いや、別に。ただ、俺達の出会いを思い出していただけだ」
取り出したのは英単語帳。毎朝学校で行われる単語テストに向け、綴りと意味を反復して覚えるとしよう。
「――『確か……それなりにおモテになり、告白までされているのにその悉くを断り続け、終いには同性愛者だとまで疑われ始めた先輩、でしたよね? どうも、おはようございます』」
視界内で無数のアルファベットが踊るなか、ふとそんな文言が耳に届いた。
「『そっちこそ、取っかえ引っ変えに男と付き合うくせして絶対に寝ようとはせず、それより先に関係が進みそうものなら即刻別れる悪魔的な後輩、だったよな?』――だったか?」
対する俺も和歌の上の句に対して、下の句を返すように諳んじる。
それは過去に、俺たちが出会って間もなく交わされた会話の一部だ。
今思えば、少々ウィットに富みすぎた内容だな。
「『おはよう、生ける貞操帯』を忘れてますよ、先輩」
記憶を頼りにたどたどしく台詞を浚ってみたのだが、そんな指摘をもらってしまう。
「……よく覚えているな」
感心混じりに呟けば、澄ました口調で返事が来た。恐らく、表情もそれに見合ったものなのだろう。
「えぇ、まあ。あの日だけで一生分の罵詈雑言を言われましたから。普通は女性を相手にあそこまで言いませんよ」
「そうだったけか?」
そんなに酷いことを言った覚えはないのだが……。
けどまぁ、あの時はしょうがない。互いに腹の立つことが起きており、初対面の人物に気を使う余裕なんてなかったからな。
それは後輩も同じ思いなのか、それ以上の言及はない。
「そういえば先輩、今日は来るのが遅かったですね」
つかの間の空隙。
思い出の共有もそこそこに、急な話題転換が発生する。
「いや、何でだよ。同じ時間、同じ場所から乗ってるんだから、それは俺が遅れたんじゃなくて電車が遅れているということに気づけ」
「……それは盲点でした」
なんの面白みもない返しをする俺の耳に、そんな驚きを含む声が届いてきた。
「真っ先に考えることだろ……」
我が後輩の頭の出来の残念さに、思わず呆れた声が零れる。
相変わらすズレているというか……変わったやつだ。
「いえ、そうではないです。自分ではなく電車が悪いと言い張る、先輩の突飛な発想そのものが盲点だと――」
「……そっちかよ」
ねちっこい責め句に、辟易とした表情が浮かぶ。
何気なく手の中の単語帳に目を落とすと、ページは"frustrate"の文字を指していることに気が付いた。
「てか、後輩よ。今日はやけに突っかかってくるな――欲求不満か?」
お返しとばかりに真顔で茶化してみれば、後輩は鼻で笑って受け流す。
「面白い冗談ですね、先輩。確率の問題で"1"と解答させるくらいには有り得ませんよ。そっちこそ、妙に私に構ってくれますけど――惚れましたか?」
その動作さえも美人が行えば、様になっていた。
……が、それはそれとしてかなりウザイ。
「あまりふざけたことを抜かすな、後輩。化学のテストで"Te"と答えさせられる位には望み薄だ」
「私、テルル好きなんですけど。……原子番号五十二番」
「……俺もだよ」
そこで、妙な雰囲気とともに会話は終わり、互いのページを繰る音だけが車内に響く。
他人の話し声、走行音、その他もろもろのノイズは環境音として昇華され、努めて意識しない限りは表に出てこない。
そんな落ち着いた時間がしばらく続くと、ふと後輩が声を上げた。
「あっ……そうだ、先輩」
その状態でなお頭を上げないあたり、さすがとしか言いようがない。
「聞いた話なんですけど、また告白されたんですって?」
「……おい、情報早いな。昨日の放課後の話だぞ」
我慢ならず俺が顔を上げて問いただせば、後輩は案の定の姿勢で本を読んでいる。
……なんか負けた気がする。
「えぇ、まあ。だって告白した子、私の友達ですし」
その応えを聞き、思わず声が漏れるくらいには納得した。
それと同時に興味はすでに失われ、気づいた時には単語帳を捲っている。
「あー、なるほど。そりゃ、知ってるわけだ」
「そうですね。何でも、私に取られたくなくて思い切ったんですって」
そう続けられても、思うことは特にない。
ただただ、そんな根も葉もない突飛な発想に耳を疑うだけだ。
「……は? 俺がお前と?」
「はい。何度も伝えたんですけど……」
だろうな。この後輩がそのことに関して妥協するはずがない。
それでもなお盲目的に進んでいける所が人間の良い部分でもあり、悪い部分でもあるのだろう。
「……あの子は良い子ですよ?」
しばらくすると、そんなフォローがなされる。
引かないのか、引けないのか。
友のためか、自分のためか。
何にせよ、そう問われても返す答えは一つしか持ち合わせていない。
「無理だ。分かっていると思うが、俺はしないんじゃなくて出来ないんだからな」
「……ですよね」
クスリと浮かべられた笑みは、言外に俺の解答を予期していたと伝えてくる。
「あーあ、コレでは今日もあの子に恨み節をぶつけられること決定ですね」
珍しくもおどけた様子で苦言を吐いた後輩は、せっせと読書に戻っていった。
……かと思えば、何気ない調子で新たな質問が飛んでくる。
「もののついでに聞きますけど、先輩って誰かと付き合ったことはあるんですか?」
踏み込まれた一歩。
自分のパーソナルエリアを土足で踏みにじられたかのような不快感を一瞬覚えるも、そんなに大それたことではないと自分に言い聞かせた。
「ないわけないだろ。コレでも昔は、何とかしようと努力していたんだ」
「でも上手くいかなかった、と。何が原因だったんです?」
コイツの飄々とした態度に、俺はある意味救われている節がある。
たとえ全てをさらけ出しても、何も変わらないと信じられるから。
「――価値観の相違、かな」
「まるでどこぞの売れないバンドですね。もっとまともな理由をどうぞ」
そういう所はイラッとしちゃうんだけどな。
「いや、マジな話さ。なんか違うんだって、俺の愛情は愛情じゃないって言われたよ」
すでに俺の中では過去の話となっているので、殊更なにか思うことがあるわけではない。
人間性が違うのだから怒りは湧かない。
当時からほぼ分かりきっていた結末に悲しみなんてない。
ただただ、無理だったか……という落胆だけが残っている。
窓を覗けば、もう学校の最寄り駅まで近い。
結局、単語は進まなかった。
「ま、そんなわけだ。その子には悪いと伝えといてくれ」
暗記用の赤シートを挟み込んだページには"gender"の文字が浮かんでいる。
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