初恋が終わる日に
ひじりあや
第1話
終わったはずの恋だった。
あれから四年がたったけれど、結局あたしは初恋を諦めることはできなかった。諦められるはずがなかった。世界がクリスマス一色に染まる今日、あたしはもう一度告白するときめていた。結末が変わらないとしても。
想像で何度も繰りかえした予行練習では、あたしは必ず失恋をした。理由は様々。交際している女性がいるから、妹にしかみえないから、希美ちゃんには僕よりも相応しいひとがいるはずだから──。
中学二年生だったあの頃よりも大人になったけど、どれだけ努力を積み重ねても、年齢の差だけは縮めることはできない。
公開されているプロフィールだと、初恋のひとは三十代半ば。四年前も悩みの種だった年齢の差は、今もまったく変わらない。
運命の神さまが気まぐれでも起こさない限り、あたしは今日、二度目の失恋をする。だから、あたしは嘘をつく。「答えは分かっていましたから」と強がって微笑むのだ。
予行練習は完璧でも、悲しい未来を選ぶのには勇気が必要だった。駅の自動券売機で切符を買う一歩が踏みきれず、お金をいれて隣駅までの切符を買うのを躊躇ってしまう。手が震えてしまうのは、きっと寒さのせいだけではないはず。
取消ボタンを押して、そのまま家に引き返したくなる衝動に駆られるのを、なんとか踏みとどまる。このまま帰ったら一生後悔してしまいそう。なけなしの勇気を振り絞って、目をつむり、凍える指で新幹線の切符を購入した。
目的地は安中榛名駅。新幹線だけが発着する駅なのだけど、利用者が非常に少なく、列車も一時間に一本あるかどうかで、なぜ作られたのか分からない不思議な駅。そこに、あたしの好きなひとはいる。安中に住んでいるわけではなく、毎年クリスマスイヴの夜には安中榛名駅を訪れるのだという。不定期で更新されるWEBのエッセイにそんな話が書かれていた。
初恋のひとの名前は星野めぐるさん。星野巡一郎という筆名の、あまり知られていない小説家。
星野さんから直接もらった宝物の本を胸に抱いて、勢いで新幹線に飛び乗った。空席に座ったものの、目的地に到着するまでの時間は短い。心の準備をする時間が足りないくらい、短い。
高崎駅を出発して数分、あっという間に安中榛名駅に到着する。降りるのはあたしだけ。小綺麗な駅舎は無人かと錯覚するくらいひとの気配がない。
改札をくぐり駅からでると、視界は一面の星空が広がった。商業施設がなにもない駅前は街の灯で星空をかき消すこともなく、遮るものもない街並みは空をとても近くに感じさせた。
感嘆の声が漏れた。
手が届きそうな距離に星空がある。目一杯に背伸びをして、思いっきり手を伸ばせばベテルギウスにも触れられそうな。
星野さんを探すために、満天の星空から視線を地上に戻す。暗がりで星野さんの姿はみえない。けれど自然と足が動いた。無意識のうちに星野さんの気配を察知したのか、身体が勝手にむかうべき場所へと歩いていた。
しばらくして星野さんをみつけた。もちろん夜の世界は彼の顔を隠してしまう。けれど、大好きなひとが纏っている優しい空気を、あたしが間違えるはずもなかった。
「めぐるさん」
声をかける。下の名前で呼ぶのはこれがはじめてで、それだけで心臓が早鐘を打ちはじめる。
「その声は希美ちゃん?」
そうです、とうなずく。星野さんからもあたしの姿はみえないはず。声だけで、あたしと分かってくれた。それだけで純粋に嬉しい。
「きちゃいました」
「きちゃいましたか」優しい声でいう。
星野さんはどんな顔をしているのだろう。驚いているかもしれないし、呆れているのかもしれない。困ったように笑っているかもしれない。表情がみえないのが口惜しい。
「めぐるさん一人なんですね」
言ってから星野さんの隣に並ぶ。誰かが一緒にいるものだとばかり思っていた。たとえば恋人だとか、星野さんの小説の読者とか。
「希美ちゃんがいるよ」
「あたし以外にです。めぐるさんにもファンはいるでしょう? 今まで誰もこなかったんですか」
訊ねた瞬間に星野さんは噴きだした。声をたてて笑っている。なにか変なことを口走ってしまっただろうか。そんなつもりはないのだけど。
「こんな辺境の地にくる物好きは希美ちゃんだけだよ。しかもクリスマスイヴに」
「そっか。あたしだけですか」
──あたしだけ。
声にださず反芻する。その言葉で心臓が一際大きく跳ねた。寒空の下なのに身体の温度が上昇する。クリスマスイヴの夜に星野さんとふたりきり。夢のようなシチュエーションは、あたしをあまい幸福感で包んでくれた。
好きなひとの隣で空を仰ぐ。視界に映るのは、美しく輝くオリオン。狩人の名人である巨人を中心に、冬の夜空をめぐっていく。シリウスとプロキオンの二匹の猟犬。カストルとポルックスの双子、プレアデスの姉妹、アテネの王であるエリクトニオス。
宇宙には様々な物語が広がっている。季節も場所も違うけれど、四年前に告白したときも星野さんの隣で星を眺めていた。
「好きですから。めぐるさんのこと」
昔を思いだしていたら自然に言葉がこぼれていた。告白のタイミングが予行練習と違ってしまい、あたし自身が驚いた。
「うん。知ってるよ」
まるで天気の話をするような普通さで星野さんはうなずいた。恋愛対象にみられていない証拠だ。だから覚悟をきめた。夢に描いていた展開と異なるけれど、このまま気持ちを伝えることにする。
「四年前も告白しましたしね。あのときの返事、実はまだ聞いてないです」
「ごめんね」
即答だった。
返事が遅れたことへの「ごめんね」なのか、あたしの告白への「ごめんね」なのか。一瞬判断に迷ったけど、おそらく後者。あたしの二度目の告白はあっさり玉砕した。
「希美ちゃんのことは嫌いじゃない。それは本当だよ。一緒にいて楽しいし。だけど齢が離れすぎてる。いつか僕なんかより素敵なひとと出会えるよ」
想定内の返事に「はい」とうなずいた。「僕なんか」という卑下する言葉は聞かなかったことにして、「答えは分かっていて告白しましたから」と微笑する。自分を偽って、強がって、星野さんを困らせないように笑う──はずだった。
笑えなかった。こぼれたのは意図していない言葉。
「いるはず、ないじゃないですか。めぐるさんより素敵なひとなんて、いるわけないじゃないですか」
一度声にでてしまうと、堰き止めていた感情が決壊する。予行練習にはなかった科白と一緒に涙が溢れてくる。
「めぐるさんは特別なんです。図書館で出会ったのは偶然ですけど、あたしの好きな本はめぐるさんも好きで、めぐるさんが読んでいた本はあたしも好きな本で。ふたりで物語の世界を共有するのが楽しいと思っていたら、実はめぐるさんは小説家で。あたしが一目惚れした本の作者で、それだけでも特別なことなのに。めぐるさんのお父さんが亡くなったとき、隣にいたのは誰ですか。あたしじゃないですか。今にも崩れそうなめぐるさんをみて、あたしの好きな物語は、めぐるさんの弱さから生まれるんだと知って。そんなこと他の読者は絶対に知らないことで。めぐるさん以上に特別なひとと出会うなんて、あるわけないじゃないですか」
吐きだした言葉の数々は、本来なら胸の奥にしまっておくはずだったもの。衝動的にぶつけてしまった想いは、すぐさま後悔に変わる。星野さんを困らせたいわけではないのに──。
「ごめんなさい」と声にだそうとして嗚咽がこぼれる。その場であたしは泣き崩れてしまった。
四年前より大人になったつもりだった。当時のあたしの世界は掌サイズでしかなく、小さな世界を少しずつ広げてきたつもりだった。本当につもりでしかなかった。こんな子供じみたことを言うだなんて、あたしは想像すらしていなかった。
身体をくの字にして泣くあたしの頭に、あたたかいものが触れる。
「そうだよね」耳元で星野さんの優しい声がする。「希美ちゃんにとって僕は特別だよね。誰がどうみても」
「そう、ですよ」
顔をあげると、すぐ目の前に星野さんがいた。暗闇で隠れていた星野さんの表情がみえる。目線をあたしの高さまで下ろし困ったように微笑していた。
「誰がどうみても、特別です」と言ったつもりだった。嗚咽混じりでちゃんと伝わったかは疑わしい。
「僕にとっても希美ちゃんは特別だよ」
耳を疑った。思わず心臓が弾けそうになる。星野さんは今、なんて言った?
「希美ちゃんは特別だよ。一番身近な読者だし。だからかな、怖いんだ」
「こわ、い?」首をかしげる。
「昔、僕にも特別な女の子がいたんだ。生まれてはじめてできたファンで、彼女のおかげで作家になれたと言ってもいいくらいの恩人。希美ちゃんによく似てた」
「その子は、どうなったの?」
「亡くなったよ。今の希美ちゃんと同じ齢で」星野さんの声はかすかに震えていた。「僕の大切なひとはみんな僕の目の前からいなくなる。だから怖いんだよ。希美ちゃんも急にいなくなってしまうんじゃないかって」
否定するように大きくかぶりを振る。いなくなるわけがない。こんなに好きなひとを残して、いなくなるはずがない。今にも泣きそうな星野さんを放っておけるわけがない。クリスマスイヴにこんな辺境の地を訪れる物好きが星野さんを見放すわけがない。
「あたしはずっと、めぐるさんの隣にいます。約束します」
「絶対に?」
「絶対です」
「来年の今日もここで一緒に星をみてくれる?」
「もちろん」
「そっか。ありがとう」泣きそうな顔で星野さんは微笑した。
ゆっくりと立ちあがった星野さんは、泣き崩れていたあたしの身体を起こし、手を握った。あたたかいところで話そっか、と駅舎にむかう。
「今日、希美ちゃんと会えてよかったよ」
それが星野さんの答えだと思った。
この日、星野さんのもう一人の特別な女の子の話を聞くのだけど、それはまた別の物語──。
初恋が終わる日に ひじりあや @hijiri-aya
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