第4話
「火星のこと、ほんと?」
弟がいなくなって急に静かになった気がする夜の中で、ぼくはそっと尋ねた。
テスは小さく首を横に振った。
「ううん、ごめん。移民船が出たときの話は大人から聞いただけだし、そのあとのことは、ただ、わたしが想像しただけ。ノアには意地悪なことを言ってしまったわ。あとで謝る。そして貝殻集めを手伝う」
「うん、それがいいよ。そしたらノアは、けろっと機嫌を直すよ。いつもそうなんだ」
「ノア、いい子ね」
「うん」
「ウィルのお父さんやお母さんや、大人の人たちにも、あとでちゃんと謝る。黙ってたこととか、勝手に出てきたこととか。わたし、感じ悪かったよね。みんな、怒ってないかな」
テスはそんなこと気にしてたんだ。そんなわけ、ないのに。
「大丈夫だよ。誰も怒ってなんかいない。みんな、わかってるから。君が口をきかなかったのは、君が、そのう……」
言いかけて、ぼくは、ちょっとためらった。テスの身に起こったできごとを、そんなありふれた言葉にしてしまっていいのか、わからなかったから。でも、他に言葉がみつからなかったから、言った。
「……とてもつらい目にあったからだって」
テスが、はっと息をのんだ。
それから、くちびるが震えて、みるみる顔が歪んだかと思うと、テスは突然うわーんと大声を上げて、小さい子どもみたいに手放しで泣きだした。
ぼくはちょっとびっくりしたけど、すぐに、テスが泣くのは当たり前だと思った。だって、泣かないほうがおかしかったんだ。今まで、我慢してたんだよね。
ぼくはそっとテスの背中に腕を回して、やさしくさすった。親友のジムが去年病気で死んだとき、母さんがぼくにしてくれたみたいに。
あのとき、母さんが言ったっけ。悲しければ泣いていいんだよ、泣くのを我慢しなくていいよって。
テスも、きっと、泣いたほうがいい。
でも、テスはきっと、みんなが見てる前では泣きたくなかったんだね。大人たちの前でずっと黙っていたのも、きっと、しゃべると泣いちゃうからだったんだ。弟みたいな小さいノアにも、泣くところを見られたくなかったんじゃないかな。
テスが、今、泣いてくれて良かった。みんなが見ている前じゃないけど、一人ぽっちのときでもなく、今、こうして背中をさすってあげられる人がいるときで。ぼくが背中をさすってあげられるときで。
しばらく黙って寄り添っているうちに、テスの泣き声は少しずつ小さくなってきた。
泣いているからか、まだ熱があるのか、腕に触れるテスの身体は少し熱かった。
立てた膝に顔を埋めてしゃくりあげるその背中をさすりながら、他に何を言っていいかわからなかったから、こう言ってみた。
「元気になったら、一緒に学校に行こうね。みんな、君が来るのを楽しみにしてるよ」
これは本当のことだった。今日だって、テスが寝てる間、学校の友だちがみんな、入れ替わり立ち替わりのぞきに来ては、起こすといけないからって追い払われてた。だって、この島に外から人が来ることなんて、滅多にないもの。一番最近、外からこの島に来た人は、学校の先生だ。ぼくが生まれる前のことだから、詳しいことは知らないんだけど。
前に、先生が、ぽつりと言ったことがある。『外の世界と比べたら、この島は楽園なんだよ。もしかすると、地上に残された最後の楽園かもしれない』って。
『ここには作物を作れる土地があり、魚が獲れる海があり、家畜もいる。秩序があり、絆があり、だから人の心も荒んでいない。こんな場所は、たぶんもう、世界のどこにもないんだよ。君たちは、最後の楽園の子どもなんだ。君たちがいるかぎり、ここにだけは、まだ未来がある。希望がある。先生はそう信じているよ』
そう言って先生は、遠い目で海の向こうを見たっけ。
「あのね、ぼくらの学校の先生も、外から来た人なんだよ。ちょうど君みたいに、岩場に流れ着いたんだって。でも、今ではすっかり、島の人なんだ。テスもきっと、そうなれるよ」
すすり泣きのあいまに、うつむいたまま、テスは少しうなずいたみたいだった。
テスの泣き声がとぎれとぎれになって、顔を覆った手の下からときどきしゃくりあげる音が聞こえるくらいになったころ、母さんがこっそり様子を見にきたけど、少し離れた木の陰からこっちを見てるのにむかって大丈夫だよってしるしにうなずいてみせると、黙ってうなずきかえして、静かに帰っていった。
そのうち、テスは両手でぐじゅぐじゅと涙を拭って、小さな声で言った。
「……ごめんね」
「ううん」
謝らなくていいんだよ、泣いたっていいんだよって、言おうと思ったけど、やめた。言ったら、きっと、また泣きだすから。
テスは泣いたっていいけど――きっと、たくさん泣いたほうがいいけど、でも、テスががんばって泣きやもうとしているときには、それを邪魔しちゃ悪いよね。
かわりに言った。
「ね。友だちになろうね」
「……ん」
テスは小さくうなずいて、少しだけ笑った。
はじめて見るテスのはにかんだ笑顔は、涙の跡でぐしゃぐしゃだったけど、とても可愛かった。
これから、ぼくらは一緒に学校に通う。毎日一緒に勉強をして、小さな花壇を貝殻で飾り、花を植える。運動会をするし、お祭りをする。ノアが言うとおり、きっと楽しい日々だろう。
この島は、いつか海に沈む。でも、それは、今夜じゃない。明日じゃない。考えてもしかたのないことだ。
「……火星の人たち、ほんとに帰ってくるといいね」
赤い星を見上げて、テスがつぶやいた。
満天の星の下でテスと寄り添って座っていたら、もしかするといつかそんな日が来るかもしれないような気が、少しだけ、した。
After Pandora ―溺れゆく希望― 冬木洋子 @fuyukiyoko
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