第3話

 前文明が崩壊したあとも、海面の上昇は、まだ続いている。最初、村は、島のもっと下の方にあったそうだ。それから今の場所に移動したけど、ここも、こないだの大潮の時、広場の下まで海水がきた。井戸の水にも海水が混じりはじめている。雨水の浄化装置があるから飲み水はなんとかなるけど、畑が海水につかれば作物が穫れなくなる。いつかは、もっと上の方に移らなければならない。そこもだめになったら、もっと上へ。……そうやって山のてっぺんまで行ってしまったら、そのあとぼくらは、どこへ行く?


 近くの島を訪ねるカヌーはあるけど、遠くまで行けるような大きな船はない。ぼくらの先祖は小さなカヌーで遠くまで海を渡ったそうだけど、その技術を、ぼくらはとうに失っている。大人たちはそうした先祖の知恵を復活させようとがんばっているけど、記録が残っていないから難しいらしい。


 それに、もし船があったって、それでどこへ行くというのだろう。

 まわりの島は、どれも同じように沈みかけている。どこか遠くにはまだ沈んでいない大きな島や大陸があるかもしれないけど、そこに今でも人が生きているのか、そもそも人が住める状態なのかもわからない。


 〈夜光虫〉が頑張ればいつかまたきれいな海が戻ってくると、〈夜光虫〉の光は希望の光なのだと、先生は言う。放射能に汚染された大陸も、〈夜光虫〉と同じくパンドラ前に開発された除染バクテリアが、今、せっせと浄化しているはずだ。いつか地球は、また大勢の人が住める星になり、火星に行った仲間たちも帰ってくる。地上では失われてしまった科学技術を手土産に。そうすれば、きっと、何もかもがまた良くなる。だからわたしたちは、それまでしっかり生きて、帰ってきた仲間たちを温かく迎えてあげましょう、と。


 弟は小さいから、火星の人たちが明日にでもこの島に降り立つみたいに勘違いして、火星から来た新しい友だちに親切にしてあげるんだと張り切って、楽しみにしている。歓迎の花輪を作って首にかけてあげようとか、住むところが足りなければうちにも一人泊めてあげようとか。ときどき、夜空を見上げて、『火星の友だち』に手を振ってみたりしている。テスに親切にするのも、火星の友だちを迎える練習みたいな気持ちでいるらしい。今も、にこにこ笑ってテスに言う。


「新しい友だちが増えるなんて、うれしいなあ! 火星のみんなも早く戻ってくるといいのにね。ねえテス、知ってる? 君たちも学校で習った? ほら、あそこに火星が見えるでしょ? あそこにはね、ここからは見えないけど、友だちがいるんだ。いつか帰ってくるんだ。楽しみだよね。ぼくね、きれいな貝殻をいっぱい集めて学校の花壇の周りに飾ってるんだよ。火星の友だちがうちの学校に通うようになったとき、校庭にきれいな花壇があったら、きっと喜ぶと思うから。そうだ、テスも貝殻集めを手伝ってよ!」


 ぼくは、テスがやさしく笑って、いいよって言うと思った。でも、そうじゃなかった。


「火星の人たちは、戻ってなんかこないわ」


 思いがけない冷たい声に、ぼくも弟も、びっくりしてテスを見た。


 テスはこっちを見ないまま話し続けた。


「移民船が出たとき、火星には、本当はまだ、そんなに大勢の人が安全に暮らせる施設はできていなかったんだって。でも、行ってしまえば自分たちでなんとかできるだろうって、どうせ地球には居る場所がない人たちを送り込んだんだって。でも、それから地球がこんなことになって、火星は計画の途中で見捨てられた。だから、火星には、もう、人はいないの。みんな死んじゃったの。みんな死んじゃったのよ!」


 自分の家族が死んだことを話したときも他人事みたいだったテスが、急に大きな声を出したから、ぼくはあっけにとられた。まるで泣いているみたいな声だったんだ。

 でも、テスは泣いていなくて、すぐにもとどおりの声に戻って話を続けた。


「だって、宇宙船や火星基地は前文明が一番栄えていたときの最高の科学技術のかたまりなんだし、最先端の知識や技術を持った人たちもおおぜい行ったんだから、もし、その人たちが火星で順調に生き延びていたら、今ごろもっと科学を発達させていて、たとえこっちの受信機が壊れていたって、何かの形でメッセージを送ってくれることができたはずよ。新しい船を造って、沈みそうな島に取り残された人たちを助けに来てくれることだって、できたかもしれない。でも、今、こうしてわたしたちが滅びかけていても、火星からは誰も助けに来ない。何も言ってこない。だから、火星には、もう、人はいないの。もし死んでなくても、わたしたちと同じように滅びかけていて、なんとか生きていくだけで精一杯なのかも。だったら、やっぱり、帰ってくることなんかできやしない」


 自分たちは滅びかけているとテスがはっきり口にしたのに、ぼくはちょっとたじろいだ。そんなのぼくも知ってるけど、口に出しては言わないことだった。


 普段口に出さないことは、たくさんある。たとえば放射能のこと。


 ここの海はエメラルド色に透き通って、とてもきれいに見えるけど、ぼくらが食べている魚や蟹は、本当は、放射能や、いろんなものに汚染されている。世界中のあちこちで水没したままの海辺の工業地帯や原子炉からは、〈夜光虫〉では処理しきれない量の有害物質が今も漏れ出し続けているんだから。

 前文明が残してくれた便利なものは、どんどん壊れたり底をついたりして無くなってゆくのに、悪いものばかりが、いつまでも消えないんだ。


 それでもぼくらは魚を獲って食べる。内臓を食べなければ大丈夫だってことになってるけど、それが気休めなのは、ほんとはみんなわかってる。でも、気休めを言ってでも食べないと、他に食べるものがないもの。畑や山で採れるものだって、どうせ同じだ。パンドラの日、ここにも死の灰が降った。


 それでも、ぼくらは、ここで生きるしかない。だからぼくらは学校に通い、大人たちは椰子の葉で屋根を葺き、畑に芋を植える。豚を飼い、鶏を飼い、魚や蟹を獲る。今日も、明日も。いつかこの島が海に沈む日まで、いるのかいないのかもわからない『火星のトモダチ』の夢を見ながら。



 弟が、急に、足を踏み鳴らして立ち上がった。


「嘘だよ! 先生が言ってたもん、火星の仲間はいつか帰ってくるって! テスのばか!」


 癇癪を起こして走り去っていく小さな背中を、テスは悲しそうに見送った。

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