第2話

 夜になってまた目を覚ました女の子は、急にふらふらと立ち上がり、黙って戸口に向かった。

 近所の人たちはもう帰っていて、家にいたのはうちの家族だけだった。


「どこ行くの? まだ熱があるんだから、寝てなきゃだめよ」


 母さんが声をかけたけど、女の子は、振り向きもせずに出て行ってしまった。ぼくは父さん母さんと目を見交わし、女の子の後を追って家を出た。弟もついてきた。


 女の子は、思った通り、海に向かっていた。ぼくらはすぐに追いついたけど、何も言わず、ただ並んで歩いていった。


 浜につくと女の子は、沖を向いて岩に座った。海は、まだ、普段よりずっとたくさんの〈夜光虫〉で、眩しいくらいに輝いていた。

 ぼくらは女の子の両側に黙って座って、しばらく、並んで波の音を聞いていた。

 海では青白い<夜光虫>が音がしそうなほど騒いでいて、空では星が、やっぱり音がしそうなほどぎっしりひしめいて輝いている、そんな夜だった。静かな風が吹いて、椰子の葉を揺らした。


 そのうち女の子が、ぽつりと言った。


「みんなはね、沈んでしまったの」


 ぼくらとは少し違う訛りがあるけど、ちゃんと通じる英語だった。


「そっか」


「船を出したけど、全員は乗れなかった」


「そうだよね」


「近くにいなかった人は間に合わなかったし、どうせ全員乗る場所はなかった」


「うん」


「誰かが、小さい子どもから乗せろって叫んだの」


「うん」


「でも、結局、押し合いになって」


 女の子は、ふっと笑ったようだった。なんで笑ったか、わかる気がしたから言った。


「そうだよね。火星移住のときだってそう言った人はいたけど、結局は力の強い人たち――豊かな国の人たちや、お金や権力を持つ人たちが船に乗ったんだ」


「ううん。本当にお金持ちの人や権力のある人たちは、火星になんか行ってないよ。火星に行ったのは、豊かな国の貧しい人たち。高い教育は受けたけど仕事がなかったり失業した人とか。お金持ちや偉い政治家は、先に行った人たちが苦労して町を作ってくれるまで地球で安全に待つつもりで、それまでに何か起こっても自分たちだけは助かれるように頑丈なシェルターや自家用の船や飛行機を用意して、贅沢な暮らしを続けていたんだって。でも、その人たちも、どうせもうみんな死んじゃったわね」


 そう、昔、豊かな国がたくさんあった北の大陸は、今では人の住めない死の土地になっているらしい。らしい、というのは、そうした地域との連絡が途絶えて、もうずいぶん経つからだ。


 それでも、フロートに住んでいた人たちは、外の事情を、早くから孤立してしまっていたぼくらよりは詳しく知っていたんだろう。前文明時代に当時の最先端の技術で作られたフロートには、立派な通信施設もあって、たぶんかなり長いこと、まだ使えていただろうから。


 女の子は、膝を抱えて話し続けた。


「ママが、小さい弟を抱いててね。桟橋を離れていく船に向かって、この子だけでもって差し出したの。知り合いのおじさんが、弟を受け取ろうと船縁から手を伸ばしてくれたけど届かなくて、そのとき桟橋が急に大きく傾いたから、ママと弟は海に落ちてしまったの。そのときにはもうそこら中が崩れだしてて、折れたタワーの先が船の真ん中に当たったから、船は真っ二つに割れて沈んじゃった。すごい波がきたわ。それでわたしもその波にのまれて、気がついたらここにいた」


 助かってよかったねと、言っていいのだろうか。この子は、家族も友だちも家も、ぜんぶなくしたのに。


 けれどまだ小さい弟は、おかまいなしに大得意で言った。


「ぼくたちが助けたんだよ! ぼくが見つけて、ウィルが海に飛び込んで、ふたりで引っ張りあげたの!」


 女の子は微笑んだ。さっきの暗い笑いとは違う、お姉さんっぽい、やさしい笑い方で。


「そうなの? ありがとう。わたし、テスって言うの。あなたは?」


「ぼくはノア。そっちは兄ちゃんのウィル。ねえ、テス、テスもこの島の子になろうよ。テスにはおうちがないから、ぼくんちに住んでいいよ。父さんも母さんも、そうしようって言ってたよ。ここは良いところだよ。学校も集会場もあるよ。運動会もあるし、お祭りもあるんだ。楽しいよ! 元気になったらぼくが村を案内してあげるね!」


「うん。ありがとう」


 そう言いながら、テスはまた海のほうを向いた。青白い光に照らされた横顔を、とてもきれいだと思った。



 ぼくはこの子と、結婚することになるかもしれない。ぼくの学年は女の子のほうが一人少ないから。それに、結婚は島の中だけでなく、たまには外の血を入れたほうがいいんだって大人たちが言ってた。もちろん、もし、この子とぼくがすごく気が合わなかったり、この子が他の男の子を好きになったりしたら別だけど……そうならないといいな。


 そんなことを思ったら、なんだか胸がむずむずした。同じ島の女の子たちには感じたことのない、不思議な気持ちだった。



 でも、ぼくらが大人になるまで、この島は、あるだろうか。



 学校の先生は、毎年入学式のたびに、同じ話をする。


 ――みなさんは『パンドラ前』とか『パンドラ後』という言葉を聞いたことがありますね。それは、今はもうないギリシャという国の神話からとった言葉です。昔、神様がパンドラという女の人を地上に遣わしました。パンドラは神様から一つの壺を持たされ、絶対に開けてはならないと言われていましたが、中に何が入っているのか知りたくてたまらなくなり、ある日とうとう、蓋を開けてしまいました。すると壺の中からありとあらゆる災厄が飛び出し、世界中に広がりました。だから、人類をあらゆる災厄が襲ったあの大崩壊の日を、『パンドラの日』と呼ぶのです。

 けれど、この神話には、続きがあります。

 パンドラが慌てて壺の蓋を閉めたとき、壺の中に、ただひとつ残っていたものがありました。それは、『希望』です。

 そう。多くのものを失っても、わたしたちにはまだ、希望が残されているのです。便利な道具を奪われてもそれだけは奪われることのない知性と理性、新しいものを作り出す器用な手、そして、労りあい助けあい力を合わせる心――それさえあれば、我々はもう一度、新しい文明をつくり出すことができます。我々の祖先は、今よりもっと何も無かったところから、何千年もかけて、あの文明を築き上げたのですから。

 しかもわたしたちには、前文明の遺産があります。何かを作る材料や手本になる物質的な遺産だけでなく、もっと大きな、知識という遺産が。たとえそれが、前文明の膨大な知識のうちのほんのひとかけらであっても、新しい文明のスタートにあたって、これは大きな助けとなるでしょう。だから今度は、もっとずっと早く、もう一度文明をつくり直すことができるはずです。

 けれどわたしたちの新しい文明は、前の文明と、きっと少し違うものになるでしょう。わたしたちは、前の文明の失敗に学ぶことができるのだから。

 だから、パンドラ前の文明を、わたしたちは『前文明』と呼ぶのです。わたしたちがこれからつくり上げるのは、過去の文明の過ちを繰り返さない、新しい文明だから。

 さあ、希望を胸に、皆で手を取りあって新しい文明を作っていきましょう。そのために、君たちは学ぶのです――


 そう言って、先生は、生徒たちをゆっくりと見渡し、にっこりと微笑む。前の方に座っている新入生のちびたちは、話が難しくてわからないから、ただぽかんと口を開けて先生を見上げている。先生は、この話を、ぼくたち上級生に聞かせたいんだろう。何度でも。


 だけど……と、ぼくはときどき思ってしまうんだ。もしかするとその『希望』って、水が入った壺の中で、もう溺れ死んでいるんじゃないかな?

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