After Pandora ―溺れゆく希望―
冬木洋子
第1話
「今夜は〈夜光虫〉がやけに光るねえ」
青白く輝く海を見やって、弟が言った。
「あんまり明るいから、蟹が昼間と勘違いして穴から出てこないんじゃないの?」
ぼくらは今夜、目当てだったヤシガニを一匹も見つけられなかったのだ。それは近頃ではよくあることだったけど、今日の〈夜光虫〉は、たしかに、まるで騒ぐ音が聞こえそうなくらいに輝いていた。沖の方なんか、あんまりぎっしり光がひしめいていて、なんだか少し、怖いみたいだった。〈夜光虫〉は何も悪いことなんてしないのに。海に流れ込んだ油やプラスチックを食べて無害な光に変えてくれる、良い虫なのに。
「どこかで船が沈んだのかな」
静かに岩を洗う夜の波音に、弟ののんびりとした声が重なる。
「それとも、どこかの島が沈んだのかも」
〈夜光虫〉は前文明時代に遺伝子操作で作り出された海の掃除屋だ。だから、今もたぶん、沖に大きめのゴミベルトでも流れてきていて、〈夜光虫〉はそれを頑張って分解しているから、いつもより余計に光っているんじゃないかな。
そう思ったけど、弟に調子を合わせてやった。
「こんな静かな夜に、島は沈まないよ。そうだ、フロートが沈んだのかも」
「フロートは沈まないよ。浮いてるんだもの」
「そんなことない。船だって、浮いてるけど沈むじゃないか。フロートだって古くなって壊れれば崩れたり沈んだりするって、父さんが言ってた。『パンドラ』前に作られたまま、もう修理できないんだから。……前にも、どこかのフロートが一つ、沈んだことがあるんだって」
「うそだあ。ぼく、知らないよ」
「おまえが生まれる前だもの」
「ふうん……」
弟は、あきらめ悪く銛の先で岩の割れ目を探りながら、気のない返事をした。たぶん本気にしていない。小さな弟ののんきさが、ぼくは少し羨ましくなった。
海上都市〈フロート〉も、〈夜光虫〉と同じく、前文明の遺産だ。
ここ南太平洋の島の中でも、海抜の低い環礁の島々は、前文明の末期にはすでに温暖化による海面上昇のせいで海に沈みかけていたから、幾つかの島の人たちは、人工の浮島に集団で移り住んだ。そうしたフロートの幾つかは、『パンドラの日』の高波を乗り越えて残った。それも今では老朽化が進んで、いつ沈むかわからないものも多いらしいけど。
ぼくらの島は火山島で、高い山があったから、全部沈んでしまうことはなく、だいぶ狭くなったけど、今でも残っている。島は小さくなったけど、人も減ったから――今でもゆっくり減り続けているから――、島から人がこぼれ落ちてしまったりはしない。昔、世界中の人の憧れだったという美しい砂浜や、マングローブ林や、他にもいろいろなものが失われてしまったけれど。
それでも、ぼくらは生きて、暮らしている。皮肉にも、前文明の末期にはすでにほとんど捨て去られていた祖先の伝統的な暮らしと、一見よく似た生き方で。
ふいに弟が声を上げた。
「ねえ、あれ、なんだろう?」
弟が指さした先、海の一点で、〈夜光虫〉がひときわ強く、燃え立つような輝きを放っていた。その、揺れる輝きの中心に、ぽつんと黒い穴がある。青白い光に縁取られた黒い何かは、上げ潮に乗ってゆっくりとこちらに近づいてくるように見える。
目を凝らす。それは、海に浮かぶ板切れのようなものだった。それだけじゃない、あれは……。
「人だ! ねえ、ウィル、人だよ!」
弟の言葉を聞き終えるより先に、ぼくは夜の海に飛び込んでいた。
*
板切れに乗って漂流していたのは、気を失った女の子だった。たぶん、ぼくと同い年くらいの。
昼まで眠り続けて目を覚ましたその子は、集まってきた大人たちに何を言われても聞かれても一言も口をきかず、女の人たちに顔を拭かれたり便所に連れて行かれたりと世話をされている間もぎゅっと唇を引き結んだままで、渡された水は飲んだけど食べ物には手を付けず、ただ、大きな茶色の目で壁の一点を見て、しばらくすると、また寝入ってしまった。しゃべらなかったけど、言葉はわかっているみたいだった。
寝ている女の子を見下ろして、大人たちがひそひそと話していた。
……ああ、フロートが沈んだらしい。流れ着いたのはこの子一人だ。かわいそうに……
ぼくらとは、ちょっと様子が違う子だった。ぼくらの髪は黒くて縮れているけど、その子の髪は長くてまっすぐで少し茶色っぽく、肌の色も少し薄くて、顔つきもなんとなく違う。熱があるからか、薄く口を開いて、ときどき苦しげに眉を寄せているその子の、汚れをふき取られてきれいになった寝顔は、まつげがとても長くて、なぜだかじろじろ見ちゃいけないような気がして目をそらした。
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