お救い小屋(炊き出しと二宮金次郎さん)

 炊き出しって知ってるべか? 

 ……うんうん、そうだな。

 災害や飢饉のときに、みんながくたばっちまわねえように、煮たり炊いたりした食べ物を配ることだ。


 これは天保七年(1836年)の大飢饉の話だ。

 下野しもつけ烏山藩からすやまはんと呼ばれていたときだった。

 このあたりは、山々に囲まれ、東を那珂川なかがわが流れるのどかなところだったと。


「たんと芽をだせや」

「今年こそ豊作じゃ」

 って、農村では毎日人々が働き、豊かな実りを祈っていた。


 しかし、天災は残酷なもんだ。

 その年は春先から低温の日が続き、七月の中頃に夜半から降り続いた雨風は那珂川を増水、溢れさせ田畑を押し流してしまった。

 九月にはなんと大霜が降りたんだと。


「な、なんてこった。今までの苦労も水の泡だ」

 村人たちは度重なる災害に気力を失い、途方にくれてしまった。

 そんなとき、烏山藩はなにもできなかった。


 記録にあるように、その年の米は例年の三分の一しかとれなかった。

 おまけに烏山藩では、春先から米が値上がりしたばっかりで、借金を抱えてもいた。

 そんなときのことだ。


「村人たちを救わなければ」

「このままでは、死者をだすことになる」

 いち早く動いたのが天性寺てんしょうじ円応和尚えんのうおしょうと家老の菅谷八郎衛門すげのやはちろうえもん


「ど、どうか……どうかお助けください」


 隣町の桜町さくらまち(今の真岡市)に走っていってな、米をわけてくれるように頼み込んだ。

 桜町っていうところではな、二宮尊徳にのみやそんとくの知恵で、農耕と財政がうまくいってただ。

 しかし容易に許しはもらえなんだ。


 和尚と家老は桜町陳家じんや前に座り込みお頼みしてな。

 ようやくやっと許可がおりた。

報徳仕法ほうとくしほう」を受けることができたんだ。


(報徳仕法というのは、米殻の無利息貸しつけ、および田畑指導の開発のこと)


 その日からさっそくお粥の炊き出しが始まってな。

 天性寺の参道の両側には十二棟のお救い小屋が建てられ、150日間、毎日続けられた。

 その数750名、その年、烏山藩では一人も死人が出なかったという話さ。


 お救い小屋の跡地には、昭和の13年、「天保凶荒救済記念碑てんぽうきょうこうきゅうさいきねんひ」が建てられ「慕其徳そのとくをしたう」の文字が刻まれている。



   了

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