興野の貴狐天王

 むかし、那須一族が建てた味城みじょうっていう城があった。

 七代目城主の興野伊隆ただたかは烏山城主の那須資晴すけはるについて数々の武勲をたてたってさ。

 おかげで大沢と横枕よこまくら村の領地をもらってな、もともと治めていた興野とあわせて三つの村の領地を治めることになった。


 ところが、天正十八年(1590年)、秀吉が小田原城を攻め落とすのに協力しろという書状を送ってきたのだが、烏山城主である資晴は従わなかった。

 資晴は烏山城を追われ、とばっちりを受けた伊隆も千本の長安寺に移り住むことになったんだ。


 ある日のこと、山から下りてきた子供ら四、五人が竹かごに子ぎつねをこめていじめておった。

 血なまぐさい戦いをしてきたとはいえ、寺に住むようになって慈悲をおぼえたのであろうか、それとも年経た感傷からか、伊隆は金をやって子供たちから子ぎつねを助け、こんなことを言った。


「我は齢四十。未だ一人だに子を得ず。おまえに稲荷大明神いなりだいみょうじんの使いとしての神通力があるのなら、我に子を授けよ。さすれば氏神として奉らん」

 といって、子ぎつねを山に放してやった。

 子ぎつねは後も見ず、一目散に逃げ帰っていったと。


 しかしその年の暮に、伊隆は長男を得る。

 先の通り、やさしい気持ちの男であったから、女が惚れぬはずがない。

 信心とは、人の心を変えるものだ。


 記録では、翌年、伊隆は再び味城の城主に返り咲き、さらに八人の子を得たという。

 うれしくて、伊隆は約束通り城の後ろに立派なお社を建て、『貴狐天王きつねてんのう』と名づけて永く敬い、奉った。

 今でも興野大橋の東に行ったところの竹やぶには、ひっそりと『貴狐天王』が祀られているという。



 おしまい

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