興野の貴狐天王
むかし、那須一族が建てた
七代目城主の興野
おかげで大沢と
ところが、天正十八年(1590年)、秀吉が小田原城を攻め落とすのに協力しろという書状を送ってきたのだが、烏山城主である資晴は従わなかった。
資晴は烏山城を追われ、とばっちりを受けた伊隆も千本の長安寺に移り住むことになったんだ。
ある日のこと、山から下りてきた子供ら四、五人が竹かごに子ぎつねをこめていじめておった。
血なまぐさい戦いをしてきたとはいえ、寺に住むようになって慈悲をおぼえたのであろうか、それとも年経た感傷からか、伊隆は金をやって子供たちから子ぎつねを助け、こんなことを言った。
「我は齢四十。未だ一人だに子を得ず。おまえに
といって、子ぎつねを山に放してやった。
子ぎつねは後も見ず、一目散に逃げ帰っていったと。
しかしその年の暮に、伊隆は長男を得る。
先の通り、やさしい気持ちの男であったから、女が惚れぬはずがない。
信心とは、人の心を変えるものだ。
記録では、翌年、伊隆は再び味城の城主に返り咲き、さらに八人の子を得たという。
うれしくて、伊隆は約束通り城の後ろに立派なお社を建て、『
今でも興野大橋の東に行ったところの竹やぶには、ひっそりと『貴狐天王』が祀られているという。
おしまい
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます