烏山の名のおこりとお城づくり

 むかーし、あっちこっちでお殿様同士が領土争いをしていた頃。

 親も兄弟も関係なく、隙あらば殺してしまえという物騒な時代があった。

 そう、戦国の世だ。


 大田原市佐久山おおたわらしさくやま近くに、那須資之すけゆきとその弟の沢村五郎資重すけしげって殿様があってな。

 兄弟仲が悪くなって、そのうち激しい戦いをするようになったが、それがなかなか決着がつかない。


 弟の資重すけしげはその不毛さに、

「兄弟して、こんなに戦うこどはよぐねえ」

 って思ったんだろう。


 お城を捨てて興野きょうのの館にひっこんでしまった。

 その後は、下境まできて、稲積城いなづみじょうを作り直したっていう。

 

 資重は東は常陸ひたち佐竹さたけ、西は宇都宮、北は親戚にあたる北那須の軍勢に狙われておったのだな。

 いつ攻め込まれるかわからない。

 だから、もっと大きな城をつくろうと、興野の平群山へぐりやまに準備を進めていた。


 ところが、不思議なこともあるもんだ。

 ある日、金色の幣束へいそくをくわえた、一羽の烏が平群山の上から、西の方の山に向かって飛んでった。

 烏はゆっくり大きく何べんも山の上をぐるぐると回ると、うんと高く舞い上がったと思うや、金色の幣束をその山のてっぺんに落として飛び去った。


 じっと見ていた資重は、

「これは熊野権現くまのごんげんさまのお導きに違いない。ありがたいことだ、ありがたいことだ」

 って思った。


 それで資重は烏が幣束を落していった山に築城することに変更し、1417年、お城は完成したんだと。

 遠くからそのお城を見ると、山の様子がまるで寝転がった牛に見えた。

 だから、その名を臥牛城と名づけられ、別の名を牛城っていうんだと。


 その城は、本丸をはじめ、たいそう頑丈につくられたので、隣りの佐竹や宇都宮の大軍がきてもびくともしない。

 誰一人として城の中へは一歩も入れなかったと。

 まさに難攻不落の名城だったんだべさ。


 お城ができあがってからは城近くの侍屋敷のあったあたりを「烏山」と呼ぶようになり、古くからあった酒主村さかぬしむらは明治の八年に廃止になり、「烏山」が正式に町の名前になった。

 昔の人も二つ名があるんじゃ、不便だったと思うんだけっど、それまでは二つの名を上手に使い分けながら、この地方を城下町として盛り上げていったんだ。


 昭和29年には、七合、境、向田村と合併しさらに大きくなり、烏山町となった。そして平成17年10月からは旧南那須町とも合併して、那須烏山市になったんだ。


 市内には幣束をくわえた烏とお城をデザインしたフェンスがいっぱいある。

 清水川せせらぎ公園、烏山小学校、烏山高等学校北側に見られると。

 烏山城跡はスギ林に覆われ、空堀、土塁、石垣などが良く保たれており、遊歩道もあるから、城跡を見学しながらたのしく散策できる。



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