寒い夜

松風 陽氷

寒い夜

昔から寒い夜の世界が好きだった。


幼い頃、明日がまた再び訪れることが恐ろしくて眠れない時、母が手を握って夜の散歩に連れ出してくれた。冬の夜は水が温かく感じられる程に身体が冷え切ったものだが、それでも片方の手だけは優しく暖かかった。大人になった今でも、指先の感覚を失う程寒い冬の夜が好きなのは、きっとその所為なのだろう。その指先を自分の首に添わせる度に母の掌を思い出せるからだろう。

それにしても、母というものは不思議なものである。時々たまに、魔法でも使っているのではと思えてくる。自分で巻かなくてはならない首巻きのなんと冷たいことだろう。自分の金で買ったブランド手袋のなんと見窄らしいことだろう。


大人になった今、眠れぬ私の手を引いて「大丈夫」と笑う影は薄い。

歳を取るってのは段々と昔が薄らいでしまっていけない。数年前まではもっとはっきりと影を見ることが出来たのに。開いた口から薄く覗く健康的な白い歯や、柔らかく細められた瞳がはっきりと見れたのに。今はもう、顔全体に靄が掛かってしまった。心の臓がして、とても熱い。


熱いのは嫌いだ。

生きている、ということが実感させられて。生きろ、と絶望的な言葉を命令されている様で。それが痛くて痛くて。

だから、私は熱いと感じたら酒を飲む。酒を飲んだら熱いなんて、当たり前のことだから。なんでも良い、取り敢えず適当な理由が欲しかった。生きているからじゃない、酒を飲んだからだ。

自分を誤魔化すのだって、慣れたものだ。酔っていりゃ殊更にやり易い。また、酔うってのは最高に楽しい。唯一、酔っている時だけは、生きててもいいと思える。生きていても死んでいてもどっちでも良いと思える。どっちを選んでも笑い話になる様な気がする。なんて下らなくて、浅ましくて、下賤で、みっともなくて、素敵なことでしょう。自分の人生がボードゲーム程度に思える。大富豪も借金地獄も、貴族も平民も、正義も悪も、イエスもサタンも、善も悪も、幸も不幸も、生も死も、全て大差ないものの様に感じる。全部、心の底から笑い飛ばせる様な気がする。


酔いが回ってピークを越えたあたり、私は外に出る。

無限に広がると言われる蠱惑的な濃紺を眺めながら、「眠れないの」と、誰の耳にも入らない、粉雪の様な声を零す。全く楽しくない。何にも笑い飛ばせない。笑い飛ばす様なが何処にも存在しない。無。


過去の影だけが笑う。

夜中だから、と言って口に人差し指を当てて、極めて控えめに。悪戯好きの女神の様に。白い肌は月光を浴びて昇華してしまいそうだ。とすん、とすん、と歩く脚は暗闇に引き摺り込まれてしまいそうだ。

朧月の女神様。

そう思った。此の手に掴み取れる物じゃない、そうは解っていても、行かないで、消えないで、と、無様に請い願って仕舞う。愚かしくってどうしようもない。

酔いが段々とゆっくり冷めていくっていうのは、大嫌いで反吐がでる。

体内に微かに残ったアルコールは、首巻きも手袋も、全てどうでも良いと判断した。


冷えろ冷えろ。全身の感覚が無くなるまで。生からどんどん離れて行ってくれ。

冬の夜よ、どうか私の明日を奪ってはくれないか。明日が来るのが恐ろしくて堪らないのだ。

凍てつく様な寒さよ、どうか私を責め立て続けてはくれないか。許しを乞いていたいのだ。


嗚呼、朧月夜おぼろずくよの女神様、私の手をまた再び取って、そちらへ導いてはくれませんか。



黒霧の中の女神が微笑んだ、様な気がした。

そして、あの頃と同じ笑顔で、とても酷いことを言った。

「大丈夫、明日はきっと今日より素敵な事を沢山見つけられる日になるから。今日の蕾はじゃないと咲かないんだよ。だからきっと、貴方は大丈夫。」


酷いよ、お母さん。

そんな風に優しくされたら、私、もうどうしたら良いか判らないじゃない。



全身が芯まで冷え切った冬の夜。心の臓だけが今晩もと熱を持つ。

どうしようもなく、遣る瀬無い程に、生きている。

下らない人生の熱は、まだ冷めない。


私は、あの頃からずっと、熱を冷ます様な寒い夜に生かされ続けている。
















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