アル中探偵・梶井鐡之助
大川澂雄
第1話 外務大臣殺害事件
今は昔、未だ支那事變が始まる前、昭和X年のことだつた。恐ろしい事件が世間を騒がせた。時の外務大臣原田友幸が自宅で殺害されたのだ。
刃物による刺し傷が致命傷となつたやうだ。部屋は荒らされた形跡も少なく、金目の物が盗まれてゐた譯でもない。
此れ迄、數々の難事件を解決してきた東郷警部が此の事件の担當になつた。時の内閣總理大臣北村一男などの内閣の面々、政治家達 、原田と繋がりがあつた人々が取調べの對象となつたが、手掛りは摑めなかつた。
數日後、東郷警部は畠中警視總監に呼び出された。總監はニヤニヤと笑つてゐる。東郷は嫌な豫感がした。
「東郷君。今囘の事件は非常に大變な案件だらうが、何としてでも犯人を検擧して欲しい…。實は、御上から直々の御言葉があり、何としてでも原田外相を襲擊した賊を捕へるやうに、とのことであつた。大命が降下されたのだ。北村總理からも激励があつたぞ。へへへ。東郷君、數々の難事件を解決してきた君だ、必ず解決出來ると信じてゐるよ」
「然し、今囘の事件はかなり厄介です。手掛りは殆どありません。唯一の手掛りと云へるかは分かりませんが、犯人は何やら原田外相の部屋から何かを盗まうとした形跡があるのです。机の上や棚の中を弄つた跡がありました。でも實際に盗まれた物はありません」
「賊は目當ての物を見附けることが出來なかつたのかな。外務大臣の所持品なら、大變な國家機密かもしれないね。何だらう」
「さあ、そこまでは私も分かりません…。が、共産黨によるテロの可能性もあります」
リーン、と電話が鳴つた。畠中が受話器を取つた。
「畠中だ…。うむ…。うむ…。何…。わかつた。警備は厳重にするやうに。では」
受話器を置き、溜息をつひて、畠中は再び東郷の方を向ひた。
「兎に角、天皇陛下が御憂慮されてゐるのだ。精進し給へ」
打ち合はせが終はり、東郷は畠中の部屋を出た。部下の宮田巡査が待機してゐた。歸りの車の中で、東郷は煙草に火を附けた。
「御上から直々に激励されたさうだ。今囘は大變だ」
「エッ。本當ですか。では、事件解決の曉には陛下から表彰されたりして…。良かつたですね、警部」
「莫迦野郎、そんなに簡單にはゆかないから困つてゐるんだらう。責任重大だ…」
ふと思つて車窓から外を眺めた。すつかり日も暮れてゐる。
「宮田。飯にしやう。たまには洋食屋でも行かうか」
「それなら、良い店知つてゐますよ。すぐ近くです」
洋食屋に着ひたが、明るい氣分にはなれさうもなかつた。捜査が難儀なものであることを思ひ出し、東郷の表情には暗い陰が差すのだつた。
アル中探偵・梶井鐡之助 大川澂雄 @sumio-okawa
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